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【20-04】日中歴史認識問題形成史の一断面―新島淳良編『南京大虐殺』を読む―

2020年11月24日

川島真

川島 真:東京大学大学院総合文化研究科 教授

略歴

1968年生まれ
1997年 東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻(東洋史学)博士課程単位取得退学、博士(文学)
1998年 北海道大学法学部政治学講座助教授
2006年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(国際関係史)准教授
2015年 同教授(現職)

日中歴史認識問題の歴史

 日中間の歴史認識問題とされる一連の問題は、歴史的に形成されてきたものであり、刻々とその内容や状況は変化してきている。この歴史認識問題は、中国側が一方的に宣伝や運動によって形作ってきた問題だというのでは必ずしもない。そもそも教科書問題も、1910年代に日本側が中国の教科書を「排日教科書」だと指摘して外交問題化したように、日本側が提起したことも少なくない。戦後であれば、1970年前後の井上清の尖閣諸島に関する諸著作の内容が中国側の主張の根拠として採用されていたことは周知のとおりである。

 日中歴史認識問題がいかに形成されてきたということ、すなわち日中歴史認識問題形成史は重要な研究課題でありながら、田中上奏文を扱った服部龍二『日中歴史認識「田中上奏文」をめぐる相剋 1927‐2010』(東京大学出版会、2010年)など限定的である。筆者もまた、この研究課題に取り組み著作を準備しているが、その過程で南京大虐殺に関わる本書(南京虐殺写真展実行委員会、1972年)を手にすることになった。本書の内容が1970年前後の同時代的な感覚の下にある日中歴史認識問題を知る上で興味深いものであるので、ここで紹介したい。

本書の背景と新島淳良

 本書は1972年3月に刊行されているが、その内容は1970年11月28日に永福日中講座(日中友好協会[正統]永福支部)で行われた新島淳良早稲田大学教授の報告「南京虐殺-日本と中国のあいだ」を骨子とし、1971年2月に新宿御苑の社交場(たまり場)でもあったスナック・シコシコ(ベトナム反戦運動に関わる無党派の学生が組織した書店、模索舎のスナック部門)で「南京虐殺写真展」が開催されたのを機会に、新資料を加えてまとめられたものである。この写真展もまた、その実行委員会の所在地が新島の個人宅になっていることから見ても、新島の主導で行われたと見ることができるだろう。

 周知のとおり、1971年8月から年末まで『朝日新聞』に本多勝一の「中国の旅」が掲載され、そこで南京虐殺が取り上げられて、日本でこの事件が広く社会に認知されるきっかけとなった。だが、本書に記されたスナック・シコシコで開催された「南京虐殺写真展」は本多勝一の文章に先んじてこの問題を世に問うたものだということになる。

 その新島は、東京大空襲などが取り上げられるに際して「日本人が全体として被害者であったかのような印象がつくりあげられつつある」と批判し、「まず日本によって中国人民のうえにおこなわれたことを」取り上げるべきだとしている(26頁)。

1971年2月「南京虐殺写真展」

 本書の冒頭、写真展開催のことが述べられる。この写真展は、新島淳良と日中友好協会(正統)永福支部によって1971年2月7日から21日まで開催された。展示された写真は35点で、「南京虐殺と、その他日本軍の中国における暴行を示す写真」であったという。このような写真展が開催された理由は、ナチスドイツのユダヤ人虐殺や「アメリカ帝国主義が広島と長崎でおこなった虐殺」が広く知られているのに対して、「日本帝国主義のおこなった南京大虐殺は、はるかに知られて」おらず、教科書でも取り上げられず、また啓蒙歴史書や概説書などでも取り上げられていない、からだという(1頁)。

 現在では多くの教科書に採録され、社会でも比較的認知されている南京(大)虐殺(南京事件)ではあるが、1971年の段階ではこの歴史事象の認知度はこのようなものだと新島らには見られていたのだろう。だが、当時にも早稲田大学の洞富雄の記した『近代戦史の謎』(人物往来社、1967年)や堀田善衛の『時間』(新潮社、1955年)が南京虐殺を取り上げたものとして存在し、新島らもこれらから多くを学んだという。

南京虐殺の犠牲者の推定

 本書は洞富雄の研究から多くの資料を借用しつつ、南京虐殺を紹介している。犠牲者数については、日本のいくつかの研究が1941年に刊行されたEdger Snow, The Battle for Asia, World Publishing Company 1941.に依拠して4万2千人としていることを批判した洞富雄の研究を是としつつ、兵士の証言などを列挙している。また、1948年11月4日から12日にかけておこなわれた東京裁判の判決についても少なからぬ紙幅を割いている。本書によれば、この判決を通じて南京虐殺事件のことが日本人に広く知られるようになった、としている(19頁)。

 具体的な犠牲者の推定に関して、本書は東京裁判の判決において20万人という数字がほぼ認められているとし、兵士の戦死者が8万人とてそれを引くと12万人(非戦闘員)となり、さらにそこに捕虜3万人を加えて15万人になる、と推定する。このほか、南京になだれ込んでいた難民数十万人のうち犠牲になった者がおり、それを加えればより多くなる、というのである。そこでの結論は、「南京での犠牲者数は、広島・長崎での犠牲者数に匹敵し、あるいはそれを上廻るのである」ということになる。南京での犠牲者と広島・長崎の犠牲者を比較する言説がここにも見られる。

日本政府批判との連動

 新島らの議論の目的は必ずしも歴史検証それ自体にあるのではない。この事件の「検証」に仮託して、攻撃の矛先を当時の日本政府に向けようとする。本書は例えば東京裁判において日本側証人が中国との間には戦争はなく事変しかなかったとして戦争法規の適用外だとしたことや、日本軍に抵抗した中国軍は正規軍ではなく、単なる匪賊だったなどと主張したことについて、「これは戦後の歴代の内閣が、自衛隊は軍隊ではない、と主張しつづけていることを想起させる。日本軍国主義は、今後も、『正規の軍隊ではない』といって、一切の戦争法規や国際法に『しばられずに』暴行をつづけていくのではないかと思われる」としている(20頁)。新島にとって、南京虐殺を扱うことは歴史としてそれを考察するということもあっただろうが、すぐれて現代的な、そしてその当時の日本政府批判を含意してのことだった。新島は、その1970年代初頭の日本について、「ファッショ化へなだれをうっておちこみつつある日本」とも評している(25頁)。

新島淳良と竹内好

 このほか、極めて興味深いのは、パール判事の証言に関する部分だ。本書では、そのパール判事の判決書について日本で「その意義が論じられたりしてもてはやされている」とし、その上でパール判事が、南京での暴行などに関するマギーや許伝音の証言について、本人がそれを直接現場で見ているわけではないから信じることはできないとしている点などを取り上げる。本書はそのパールの言論について「書生の屁理屈」などといった語を用いて批判を加えている。

 本書の批判は「パール判事をありがたがる人々」にも及ぶ。その例としてあげられているのが竹内好だ。確かに竹内は、『日本とアジア』(筑摩書房、1966年)や『近代の超克』(筑摩書房、1983年)などにおいて東京裁判を議論し、中にはパールの記した『日本無罪論』(日本書房、1952年)に依拠した部分もある。少なくとも『日本とアジア』(筑摩書房、1966年)はこの写真展以前に公刊されている。だが、雑誌『中国』の母体となった「中国の会」(1960年〜)に竹内だけでなく新島も加わっている。東京裁判、あるいはパール判決をめぐる新島と竹内の見解の相違が何に由来するのか。それもまたそれぞれの歴史認識に関わるものとして重要だ。

 こうした個々の時代のコンテキストに基づいた歴史認識問題のあり方や議論の態様を理解することも、歴史認識問題の歴史という課題にとって重要な論点となろう。