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四面楚歌

 

意味

周りが敵や反対者に囲まれて、孤立無援という状態のたとえであります。

物語

 紀元前202年、項羽(楚)と劉邦(漢)は鸿沟(現在の河南省栄県)を境界線に、互いに攻撃しないと協定を結びました。しかしその後、劉邦は張良と陳平の助言を受け、項羽が衰弱する時期に、楚 を消滅しなければいけないと考えまして、韓信、彭越、劉賈らと一緒に兵力を集め、彭城(現在の江蘇省徐州)に向かっている項羽軍を追撃し、つい垓下 (現在の 安徽省霊壁県)において、項羽軍を包囲しました。& amp; lt; /p>

 この時、項羽軍の兵士達の残りはわずかで、兵糧も殆ど残されていなかったのです。すると、漢軍の指揮官である韓信は自軍の中から楚の出身者を選び、楚の民謡を他の一般兵に教えさせ、一斉に歌わせたのです。m t p この歌声を聴いた項羽は“漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間はなんと多いことか”と驚き嘆いて、別れの宴席を設けました。

 項羽には虞美人という愛妾がおり、また騅という愛馬がいました。これらとの別れを惜しみ、項羽は自らの悲憤を詩 に読み、虞美人もこれに唱和し、項羽は涙を流し、臣下の者たちも全て涙を流しました。虞 美人は騅の前に自刎し、項羽は残りの兵士達を連れて東へ逃れ、烏江という長江の渡し場に至り、最後は自刎しました。

 項羽の死によって約5年続いた楚漢戦争は終結し、劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くのであります。

力拔山兮 氣蓋世 (力は山を抜き 気は世を蓋う)

時不利兮 騅不逝 (時利あらず 騅逝かず)

騅不逝兮 可奈何 (騅逝かず 如何すべき)

虞兮虞兮 奈若何 (虞や虞や 汝を如何せん)

 
出典:司馬遷(前漢)「史記・項羽本紀」