青樹明子の中国ヒューマンウォッチ
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【20-03】消えない?中国・じか箸文化

2020年7月06日

青樹 明子

青樹 明子(あおき あきこ)氏: ノンフィクション作家、
中国ラジオ番組プロデューサー、日中友好会館理事

略歴

早稲田大学第一文学部卒業。同大学院アジア太平洋研究科修了。
大学卒業後、テレビ構成作家、舞台等の脚本家を経て、ノンフィクション・ライターとして世界数十カ国を取材。
1998年より中国国際放送局にて北京向け日本語放送パーソナリティを務める。2005年より広東ラジオ「東京流行音楽」・2006年より北京人民ラジオ・外 国語チャンネルにて<東京音楽広場><日本語・Go!Go!塾>の番組制作・アンカー・パーソナリティー。

日経新聞・中文サイト エッセイ連載中
サンケイ・ビジネスアイ エッセイ連載中

近著に『中国人が上司になる日』(日経プレミアシリーズ)

主な著作

 「中国人の頭の中」(新潮新書)「<小皇帝>世代の中国」(新潮新書)、「北京で学生生活をもう一度」(新潮社)、「日本の名前をください 北京放送の1000日」(新潮社)、「日中ビジネス摩擦」(新潮新書)、「中国人の財布の中身」(詩想社新書)、「中国人の頭の中」(新潮新書)、翻訳「上海、か たつむりの家」 

 「僕たち、また始まっちゃったよ」

 新型コロナウイルス感染症・第二波が北京で起きた時、中国の友人からWeChatでメッセージが届いた。折しも小学校もほぼ完全再開の運びとなり、ようやく以前の生活が取り戻せそうだった直前の事である。

 もちろん他人事ではない。東京の感染拡大も深刻で、第二波の危険性は全世界まったく同じだ。

 しかしながら残念至極だったのは、これでまた、北京に行く日が遠のいてしまったことである。中国への、外国人入国制限はしばらく続きそうだからだ。

 これまで三カ月に一度は中国に行っていたので、しばらく行けないとなると、私にとってとても大きなストレスになった。

 頭に浮かぶのは、中国の友人たちである。

 みんなと一緒に、火鍋を食べたい。北京ダッグも食べたい。上海料理、杭州料理、温州料理も食べたい。みんなでわいわいがやがや、楽しく食べたい。

 中国で、中国の友人たちと、中国料理を食べるのは、とても楽しみだった。

 しかし、この楽しみも消滅していくのだろうか。

 新型コロナウイルス感染症は、社会のあらゆることを変えていく。企業のありかた、働き方、家族や友人間での距離の取り方、外食の仕方、買い物のやり方など、生活の細かな習慣までも変えざるを得なくなっている。

 そんななか、個人的には中国の「公筷公勺」キャンペーンには、非常に思うところが大きい。「公筷公勺」、つまり取り箸を使おう、というのは、SARS後も中国社会で提唱されたが、いつの間にか忘れられてしまっている。再び起こった「取り箸」推奨だが、コロナ後の中国社会で、本当に習慣づけられていくのだろうか。

 さて中国も日本も、同じ「お箸の国の人」だが、使い方が大きく違う。

 日本の場合は「属人器文化」で、自分専用の箸、自分専用のご飯茶碗やお湯飲み茶わんが決まっているので、当然大皿料理には、取り箸が添えられる。そして日本人は、子供の頃から厳しくしつけられて育った。

 「じか箸はいけません!」

 そんな日本人が中国に行くとまず驚く。中国の食卓で見られたのは日本と正反対、じか箸中心の文化だったからである。

 中国人の食事風景を垣間見ると、肉料理など、食卓で最も高級な、メインの料理は、自分の箸で、夫や子供などのご飯茶碗にポンとおいてあげることがある。

 家族だけとは限らない。客に対しても同じで、自分の箸で、料理を取り分けてあげることによって、一気に距離が取り払われる。おもてなし、親しみの表現だった。

 お箸だけではない。中国と日本では、食事に対する哲学が違う。中国において一緒に食事をするということの意味は「私たちは親しいですよ」「身内ですよ」「仲間ですよ」ということの証明である。

 たとえば、昼間友人の家に行く。日本だったら、夕食の時間がちかづくと、「そろそろお暇を」と言い、相手も引き留めない。夕食に近い時間までいると「非常識だ」とされる。

 中国は違う。「そろそろお暇を」というと、本当に親しい間柄であれば「だめだだめだ、一緒に食事して行け」となる。

 それができるのも、大皿料理だからである。日本のように、一人前余分に用意する必要はない。大皿料理ならば、お箸を余分に用意するだけでいい。

 中国で大皿料理が一般的になったのは、宋の時代と言われている。ある程度社会が安定すると、地域の交流も増え、交易が盛んになってくる。すると商人が登場しビジネスが生まれる。各地から都市に集まった商人たちは、酒楼と呼ばれる場所で、同じテーブルを囲み、大皿料理から料理を取り分けながら食べ、賑やかで楽しい雰囲気のなかで商談をまとめていった。現代で言うビジネスディナーである。

 目的の第一は、距離をなくし、身内感を高めるためなので、同じ料理を食べることに意味がある。そんななかで、距離を作る"お取り箸"を使うなんて、多分想定もしなかったのではないか。

 つまりじか箸の習慣はちゃんとした理由があり、何千年も前に生まれた文化だった。

 しかしこれも新型コロナで変化する。

 取り箸キャンペーン開始と同時期、江蘇省杭州市疾病管理センターでは、食事の際に、じか箸の場合と取り箸を使った場合とでは、食後の細菌量がどう違うかを比較するという実験を行った。

 結果は実に衝撃的で、じか箸の場合、細菌数は取り箸を使った時の最大で250倍だったという。

 中国人もみんなわかっている。

 あるアンケートによると、取り箸を使うことに対して、支持率は100%で、反対はゼロだったそうだ。

 しかし、支持率と実行率は別問題である。現実に実践しているかどうかになると、話は別で、現段階では、取り箸の使用率は、まだ低いと言っていい。

 何千年も続いた習慣や、民族的な心理を変えるには、時間がかかる。

 取り箸を使うことは、究極の他人行儀なので、できれば使いたくない。

 大きな円卓を囲み、親しい仲間がわいわいがやがや、楽しく酒を飲み、食事をする。おいしい料理は仲間で取り分け、楽しみを共有する。食事時間を賑やかに楽しむことは、中国人の天性と合致する。

 このような素晴らしい伝統文化を無くすのは先祖に対し申し訳ないし、受け入れがたい。

 庶民の正直な感想である。

 そしてコロナ禍のなか「公筷公勺」と並行して提唱されているのが、中国料理を西洋式で食べよう、という新しい様式である。つまり、真ん中にスープ、四隅に小分けした料理を配して西洋風に食事をしようということだ。ただしこれは、用意する時や片付けの時、実に面倒だ。食事の際の賑やかな雰囲気も損なうし、相手との一体感もない。食事の最大の目的である、もてなしの気持ちも損なわれてしまう。

 食事の楽しみは減るが、非常に衛生的であることには違いない。

 中高年層に比べると、若者たちは比較的柔軟だ。

 何故なら、彼らは子供の頃からファストフードで育っている。一人一人がトレイを使って、自分の分だけ、自分の箸やスプーンを使うやり方だ。

 コロナ後、健康を取るか、プライバシーを取るかが、世界中で熱く議論されるようになった。中国人の場合、これにプラスして、民族の伝統を取るか、が加わっている。

 コロナが変えた社会的習慣は、国によって様々である。新しい習慣が根付くのは時間がかかるが「withコロナ」の時代、少しずつ折り合っていかなければならないだろう。