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【08-102】胡錦濤の「科学的発展観」とはいったい何なのか

寺岡 伸章(中国総合研究センター シニアフェロー)   2008年1月20日

 ある一国の本質を理解するには、その国でよく読まれている古典を解析すればいいと言われる。古典には、その国特有の内在的な論理、つまり行動原理 が組み込まれているからである。日本を深く理解しようと思う外国人は、古事記と日本書紀を読めばいい。中国は司馬遷の史記、西欧は聖書、米国はジェファー ソンの独立宣言というところであろうか。もし、その国がイデオロギー性の高い国家であれば、それに加えて指導原理を解析してみると、国の実像が浮かび上 がってくるはずである。

 中国は先の共産党全国大会で、「科学的発展観」を指導原理の一つに追加した。今後、共産党員はこの原理をよく学習することが求められるし、またこの原理に 忠実に従わなければならない。中国共産党の指導原理は、マルクスレーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論、三つの代表の四つであったが、新たに科学的発展観 が追加されたことになる。江沢民が唱えた三つの代表に対抗し、歴史に名を残すために、胡錦濤が考え出したのが科学的発展観と指摘する者もいる。歴史を強く 意識するのは、中国為政者の特徴であるが、巨大な国家を動かすこれほど重要な概念であるにもかかわらず、日本のメデイアや中国専門家の間で科学的発展観に ついて、明確に説明したのを耳にしたことがない。なぜだか不思議なような気がする。

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 科学はイデオロギーとはおよそかけ離れた概念であるからだ。むしろ、科学という蓋いを使い、客観性を装うとする意思を感じる。科学の発展に携わる者としても、無視できない知的好奇心を感じる。

まず述べなければならないことは、胡錦濤が唱えている「和諧社会」つまり「調和ある社会」との関係を見る必要がある。筆者は、調和ある社会が中国の目指す べき目標で、科学的発展観がその手段と考えている。調和ある社会は分かりやすい概念だ。粗放型経済発展を修正し、環境保護にも留意しつつ、貧富の格差を是 正し、人民がそこそこの豊かな社会を実現するというものである。実現の可否はともかくとして、目標としては分かりやすい。しかし、科学的発展観は一見して 分かりにくい。

 まずは、5年毎に開催される今年10月の中国共産党第回全国代表大会における胡錦濤国家主席の報告において、科学的発展観をどのように位置付けているかをみてみよう。

 胡錦濤国家主席の報告の冒頭部分は以下のとおりだ。

「中国の特色のある社会主義の偉大な旗印を高く掲げ、鄧小平理論と『三つの代表』 の重要な思想を導きとして、科学発展観を深く貫き、確実にさせ、引き続き思想を解放し、改革開放を堅持し、科学的発展を推し進め、社会の調和を促進し、小 康社会の全面的な建設の新たな勝利を勝ち取るために奮闘する。

 中国の特色のある社会主義の偉大な旗印は、現代中国が発展をとげ、進歩するための旗印であり、全党全国各族人民が団結奮闘する旗印である。思想を解放す ることは、中国の特色のある社会主義を発展させる重要な宝器であり、改革を開放することは、中国の特色のある社会主義を発展させる強大な原動力であり、科 学的発展、社会の調和は中国の特色のある社会主義を発展させるための基本的要請であり、小康社会を全面的に建設することは2020年に至るまでの党と国家 の奮闘の目標であり、全国各民族人民の利益の依って立つところである」

 この中で、「科学的発展、社会の調和は中国の特色のある社会主義を発展させるための基本的要請」と強く言い切っているのが注目される。胡錦濤国家主席の面目躍如である。

 さらに、科学的発展観の重要性を指摘した点は以下のとおりである。

「科学的発展観は、党の三世代にわたる中央指導グループの発展に関する重要な思想を継承、発展させたものであ り、マルクス主義の発展に関する世界観と方法論を集中的に具現するものであり、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論及び『三つの代表』の重要 な思想と一脈相通じるものであるとともに、時代とともに進む科学的理論である。それはまた、我が国の経済社会発展の重要な指導方針であり、中国の特色のあ る社会主義を発展させる上で必ず堅持し、徹底しなければならない重要な戦略思想である」

 この箇所は非常に重要である。この記述によって、科学的発展観は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想、鄧小平理論及び「三つの代表」の思想と同レベルの共産党の指導的思想に格上げされたと言える。

「科学的発展観を深く貫き、徹底させるには、われわれは社会主義の調和社会を構築する必要がある。社会の調和 は中国の特色のある社会主義の本質的属性である。科学的発展と社会の調和は内在的に統一したものである。科学的発展がなければ社会の調和は成り立たず、社 会の調和がなければ科学的発展は実現できなくなる」

 この部分の記述は、科学的発展観と調和社会は表裏一体の関係にあると述べている。両者は不可分の関係にあるということが分かった。

 また、学習問答集の形式をとった党規約改正案の解説書には、科学的発展観にどのように触れているのか。

「党規約改正案は、科学的発展観がわが国の経済・社会の発展の重要な指導方針であり、中国の特色のある社会主 義を発展させるうえで堅持、貫徹しなければならない重要な戦略的思想でもあると強調している。この重要な言い方は、科学的発展観が中国の特色のある社会主 義事業『四位一体』の全局を全面的に推し進めるには、堅持、貫徹しなければならない重要な戦略的思想である。すなわち、必ず科学的発展観を導きとして、社 会主義の経済建設、政治建設、文化建設、社会建設を行うことを表明する」

 ここで、科学的発展観は、社会主義の経済建設、政治建 設、文化建設、社会建設の戦略的思想と位置付けている。科学的発展観は、胡錦濤国家主席の思惑通り、党規約に堂々と掲載された訳であるが、これらの内容 は、科学的発展観の定義やどのような特徴があるかを明確には示していない。もう少し突っ込んだ説明が欲しい。

 そこで、マルクス・エンゲルス全集の中国語を紐解いて、似たような表現はないか調べてみた。探し当てたのは、エンゲルスの著書「空想から科学への社会主義 の発展」の中国語訳である。この本のタイトルの中国語訳は「社会主義従空想到科学的発展」となっており、重訳すると、「社会主義の空想から科学的発展へ」 となる。中国語訳では科学的発展が明確になっているが、胡錦濤政権がこのフレーズから拝借したとは考えにくい。しかし、エンゲルスが社会主義は空想ではな く弁証法や唯物史観という科学的な見方で社会の発展原理を見極めようとした態度と胡錦濤政権が科学的発展を呼びかけたのは、科学的に物事を判断しようとい う点は似ているかも知れないが、背景や狙いは随分異なると思う。胡錦濤国家主席がマルクス・エンゲルスの原点に立ち帰れと呼びかけているとは考えにくい。

 さて、謎を解く鍵は思わぬところからやってきた。12月中旬、国内外の行政官の研修を目的に設立された政策研究大学院大学が、中央党校の専門家を中国から 招聘し、科学的発展観について講義をするというのを聞き付けた。中央党校は共産党の幹部養成学校であるので、理論武装はきちんとやっているはずである。早 速聞きに行った。講師は、陳雪薇中央党校歴史部教授である。名前から想像できるように女性である。

 陳氏の説明によると、科学的発展観は以下のとおりである。

 胡錦濤主席が科学的発展観を最初に唱えるきっかけになったのは、2003年春世界を震撼させたSARSであった。対応の遅れは中国人の意識の遅れであり、 この失敗を教訓とし、社会発展の突破口を図る必要があると考えた。社会建設、文化建設などを含む全面的建設の必要性を感じた。発展とは何か。何を発展させ るのか。その答えは、社会主義の発展であり、党の建設であり、近代化の中で総合国力を上昇させることである。誰のための発展か。誰による発展か。誰がそれ を享受するのか。人民である。人民による人民のための人民の発展である。現状では矛盾や格差はある。解消しなくては大変なことになる。持続可能な発展、ひ とと自然との関係、地域の格差を是正しなくてはならない。SARS事件を契機に胡錦濤政権が考案したのが、科学的発展観である。中国の歴史的転機に生まれ た思想である。

 科学的発展観は次の4つの特徴を有する。

  1. 発展が第一である。
  2. 人間本位であるべき。
  3. 全面的調和により持続可能な発展を図るべき。
  4. 全体の利益を考えるべきである。

 高齢な陳氏は、科学的発展観を如何に新農村の建設に適応し、その政策が成功しているかを事例を交えて説明していた。この部分は、このリポートの趣旨から離 れるので割愛するが、一つだけ気になる数字を挙げておきたい。これはある中国人学者の提言として、陳氏が引用したものである。中国の人口のうち農村人口は 9億人で、そのうち2億人が農民工として大都市へ出稼ぎに行っている。残り7億人のうち、実際の農業人口は4億人。将来の中国人16億人を食べさせること のできる農業従事者は、他の先進国の例で比較すると1.4億人で十分。これは驚くべき数字である。農村から都市への歴史的人民大移動が既に始まっているこ とになる。これを裏付けるのが発展改革部傘下のシンクタンクが発表している3000万人から5000万人の大都市を建設しようという「10大メガポリス建 設計画」である。農村国家から都市国家への変貌計画が着実に進行しているといえる。

 議論を元に戻そう。

 科学的発展観の誕生の経緯や特徴をみると分かることだが、イデオロギー色はない。先進民主主義国の社会建設手法と差異はない。科学的発展観の最初に「発 展が第一である」と指摘しているように、中国共産党はもはや「発展党」と呼んだ方が実態を現していると思う。科学的発展観とは、その名称にイデオロギー色 が薄いことからも理解できるように、脱イデオロギーを果たし、普通の民主主義国への歴史的転換というメッセージを中国内外に示そうとしたものではないか、 という仮説は成り立たないだろうか。

 胡錦濤主席は鄧小平の忠実な後継者としてよく知られている。鄧小平の目標は、中国を豊かで強い国に変えることであった。鄧小平理論もつまるところ、社会 主義から資本主義への転換を促したものであり、国民の強い支持があった。ある面では鄧小平の狙いは大成功を収めたといえよう。だが、その結果、歴史的転換 点において様々な大きな歪や矛盾が生じている。それらを解決し、イデオロギーを脱し、国際社会の仲間入りを果たそうとするのであれば、先進民主主義国は必 要と考えられる協力はすべきであろう。言うまでもなく、中国政府はそのための見取り図を国際社会に提示し、関係国の理解を得ることをしなければならない。 鄧小平は社会主義から資本主義へと舵を切ったが、その結果生まれた矛盾を今度は思想面で真に資本主義社会に転換しつつ解決し、中国を強国に押し上げようと する思想が科学的発展観ではなかろうか。それは、鄧小平が望んだことであり、胡錦濤は鄧小平路線の延長線上で行動していると言えよう。鄧小平の先見の明が 光っている。

 科学的発展観に込められた脱イデオロギーの思想と他の国の歩いた道から学ぼうという姿勢は評価すべきである。まだ中国を取り巻く情況は緩和されていると は言いがたい。中国政府が科学的発展観をベースに、具体的な政策の場面で国際的な協調路線を具体的に提示してくるかどうかをきちんと見極める必要があると 考える。