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【08-107】アジアは西洋文明を克服できる

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)  2008年5月20日

1.危機の根本原因は?

 人類は生存の危機に瀕している。エネルギー、水、食料等の資源は次第に困難になりつつある。炭酸ガス排出による地球温暖化や自然環境悪化に歯止 めがかかる予兆はない。人間は危機を認識しつつも、その適切な処方箋を持ち合わせていない。待ったなしの状況は続く。危機にうまく対処できなければ、破局 へと向かう。

 では、この人類の危機を招いた根本的原因はどこにあるのであろうか。人類が享受している便利で心地よい物質文明は、西洋に発する。西洋文明の世界への拡 散がその他地域の近代化を推し進めた。では、西洋文明とは何であろうか。その本質は何であろうか。西洋人はどのように世界を認識し、学問を生み、社会を変 革し、我々を今の状態に導いたのであろうか。西洋では、学問の王様は哲学である。西洋文明を支える哲学を振り返ることにより、我々の現在立っている認識 的、歴史的位置を知ることができると思う。また、その位置を認識することによって、将来の展望が切り開かれるかもしれない。

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2.存在とはなにか?

 人間にとって最大の恐怖は死である。死への恐怖感は、なぜ自分が存在するのかを問う。さらに、そもそも存在とはなにか。あるということはいったい どういう意味かと自問する。この疑問を真面目に考え、突き詰めていこうという態度を示したのが西欧文明のはじまりである。日本や他の地域では、余り真剣に 考えなかった。もちろん、考えなかったから劣っているという訳ではない。むしろ、このような問いかけをくそ真面目に考えるということが最終的に何をもたら すかを、古代ギリシア人は当時、思いもよらなかったのである。

 そもそも存在のあり方には、「つくられてある」または「うまれてある」の見方がある。 日本人は、自分は自然の一部だと考えているため、「うまれてあ る」と考え、それ以上の存在に関する問いがでにくい。自然は文字どおり「自ら然る」である。しかし、古代ギリシア人は「つくられてある」と考えた。存在を 規定している「つくった」者は誰かと考えた。もし、存在全体を自然と呼ぶとすると、自分がそうした自然を超えた存在かどうかという疑問が湧く。自然全体を 見渡せる視点の存在を認識した時、初めて存在とはなにかという問いかけができるようになる。それはいったい誰なのか。何なのか。

 豊かな自然に囲まれていた日本ではそのような視点で発想するということが困難であったが、砂漠に囲まれた古代ギリシアでは自分を自然と分離することが比 較的容易であったということであろう。このような見方は超自然的な原理である。超自然的原理は、イデアであったり、神となったり、理性と言われたり、精神 と呼ばれたりするようになる。言い方は変わるが、自然から隔離した視点が存在するという点ではみな同じである。超自然的原理から見ると、自然は生きたもの ではなく、無機質な材料にすぎない。単なる物質になってしまう。この時点で、自然は価値の低いものとして扱われるようになる。このような発想が、自然は生 きているものであり、それとの共存や自己は自然の一部であるという認識を封じ込んでしまった。西洋文明は輝かしい歴史を誇るが、その根本の根本はこのよう なところに行き着く。

3.イデア論

 古代ギリシアでは、ソフィストが詭弁をつかい、アテネを混乱に 陥れる。ソクラテスも闘争に巻き込まれ毒杯を仰ぐ。ソクラテスの弟子のプラトンは、秩序回復のために、超自然的原理であるイデア論を提起した。つまり、真 に存在するものはイデア界であり、触れることの出来る自然はイデア界の投影されたものに過ぎないと、主張した。西欧文明の正体が誕生した瞬間だ。日本人の 目から見れば、随分不自然な発想だ。しかし、動き始めた歯車は自己回転する。

 ローマ帝国は、成長著しいキリスト教の進入を正当化する必要に迫られた。そこで、アウグスティヌスは、プラトンの二元論を「神の国」と「地の国」という 別の形で継承し、イデアに代えてキリスト教的な人格神を原理として組み立てた。イデアは世界創造に先立って神の理性に内在していた観念と考えられるように なった。これは、木田元中央大学名誉教授の受け売りだが、哲学と宗教の合体だった。

4.理性の誕生

 デカルトは懐疑主義者だった。全ての存在を疑い始める。最後 に行き着く先は、疑っている我の存在はどうやっても疑うことができない。これは、有名な「我思う故に我あり」ということばで端的に言い表されている。一 方、キリスト教の世界創造論では、世界は神によって創造されているので、世界は神性理性が支配しており、神は人間に理性を与えたと言う。それは不十分なも のかも知れないが、それをうまく活用すれば、世界を成り立たせている理性法則を認識することができる。人間理性の誕生だ。これにより、近代科学が急激に発 達する。人間に備わる理性を使えば、神が創造した世界の法則を認識することができるという訳だ。まだ、このときまでは、神性理性と人間理性が共存してい た。まだ、神は死んでいない。

5.絶対精神の誕生

 カントは、人間の認識が対象に依存しているのではなく、 対象が人間の認識に依存していると、反転して考え直すことにより、人間理性は自然界を妥当性を持って認識することができると主張した。つまり、人間理性は 自然界の創造者になれると言い出し、もはや神性理性の後ろ盾がなくても、自然界に何が存在し、何が存在しないかを決定できると主張した。人間理性はついに 超自然的原理まで到着したのだ。カントは神の殺人者といえるかもしれない。

 ヘーゲルは、カントの発想をさらに推し進め、精神は自分も世界によって働きかけられ、その対話を通じて生成していくとダイナミックに発想する。精神が世 界を次々に自分の分身に変え、絶対の自由を獲得したとき、絶対精神として現れる。歴史さえ精神との対話によって自由に変えられると考えるようになる。これ が、マルクスやエンゲルスに継承され、社会主義思想として発展していくのだ。しかし、20世紀の歴史を見る限り、社会主義の歴史的実験は見事に失敗する。 絶対精神は人間が神の位置を獲得したようなもので、自然に発想すればそんなことはあり得ないのだが。しかし、西洋哲学のスタートは、超自然的な発想をして きたが故に、不自然な結論に到るのはその運命だったとも言える。

 絶対精神は社会及び自然に君臨する。物質的、機械論的自然観は技術文明を加速化させる。西洋文明の絶頂期である産業革命はこうやって生まれるが、その達 成感はニヒリズムとなって現れた。人間の理性は世界を支配したのだからこれがゴールだ。しかし満たされない。なぜ文明がニヒリズムに陥ったのか。それを考 えたのがニーチェだった。彼の言葉である「神は死んだ」の神とは「超自然的価値観」のことだ。虚無的心理状況からの脱却方法を彼は考え抜いた。答えは簡単 だ。原因は、そもそも存在していない超自然的原理を信じていたからなのだと結論付けた。そして、より強くより大きくなる特性を持つ「生命」の特徴に着目 し、認識と真理を「生の領域」に戻すこと、つまり、芸術と美という価値を謳いあげる。

 ニーチェの考えを受け継いだ、ハイデガーは、存在者の全体を生きて生成するものとみる生きた自然観の概念を復活させることにより、西洋文明の転換を図っ た。「つくられてあるもの」という西洋文明の始源から、「なりてある」という自然的な自然観に戻ってきたのだ。なんのことはない。日本人が本来感じていた 自然観と同じに過ぎない。超自然的原理を設定してプラトンから始まった西洋哲学は、アウグスティヌスでキリスト教と合体し、カントで超自然的原理=神と分 かれて人間が主人となり、ヘーゲルの絶対精神(つまり、人間が存在の主人公)で絶頂に達した後、一転してニヒリズムに陥り、ニーチェ、ハイデガーで生命観 を吹き込んで再生を試みている。現代ヨーロッパ人の環境重視の姿勢は、このような思索の到達点である。

6.現代

 西洋哲学は日本人には理解しがたいものだ。理由は簡単だ。そもそも 不自然な考え方であるからだ。分からないのはこちらの頭が悪いのではなく、そもそも不自然で人間的でない発想であるからだ。難しくても学習する価値はな い。明治維新以降、日本は西洋から学問を輸入してきた。学者は横文字を縦文字に変換してきた。知識人とはそれを理解できる人であるとされてきたが、国民は 心の底では「俺には分からないし、役にも立たない」と、西洋文化を冷静に、かつ相対的に捉えてきたのではなかろうか。学者の言説は現実的でないという言葉 に、異質な文化への沈黙の抵抗があったとも言える。日本で博士が他国と比べて余り尊敬されていない理由はここにあるのかも知れない。

 西洋哲学は21世紀には不適切で不用な学問だ。西洋文明からの決別は前世紀から始まっている。これを変革し、21世紀の人類の危機を克服するには、人類を納得させうる考え方が必要だ。それは自然との協調や共存の特徴を有することは言うまでもない。

 西洋文明は自然を無機質なものとして、不当に低い位置に貶め、それから富を収奪し、それへの影響を無視した結果が現状を招いている。自然を極度に利用 し、その生命性を否定してきた物質文明が問われているのはまさにここに問題があるからである。そもそも自己と身体と自然を切り離してはいけなかったのであ る。頭脳だけでなく、心臓でも、身体でも、ものごとや宇宙を感じたり考えたりすることができるのである。文明を正常な姿に戻すことが必要である。

 日本そしてアジアこそ、その次代の任務を担うに違いない。