【08-108】太極拳の向こうに見えるもの

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)  2008年6月20日

 個人的な話になるが、私は専門家から週1回太極拳の指導を受けている。やっと8ヶ月になるが、当初なかなか覚えられなかった手足腰の動きがスムーズにでき るようになっている。妻の前で披露すると、大 分かっこよくなったと褒めてくれるし、関係ないかもしれないがゴルフボールも飛ぶようになった。そのうち意識 しなくても太極拳の動作がうまくできるようになるではないかと期待している。

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 太極拳は動作が緩慢で、楽そうに見えるが、きちんとやると足腰が結構疲れる。中腰のままで動作をするためである。高齢者が突然始めると、膝を壊してしまう恐れがあるので注意が必要だ。 

 私の先生は、太極拳はスポーツとは全く違うといつも強調される。スポーツは動作を速く、直線的に、力を入れて、集中して運動することを求める。一方、太 極拳は動作をできるだけ遅く、曲線的に、力 を完全に抜いて、リラックスして、大脳を休めながら運動するのである。発想が全く反対である。さらに、身体に気 を廻らせ、陰陽をバランスさせることに意味がある。ここまで来ると私にはまだ実感がわかない、手 の届かない世界である。さらに、どのような太極拳の達人で も、完全に達することは不可能だと仰せになる。完全に近づくことはできるが、完全に到達することはできない。体 操のコマネチみたいに10点満点をとること は元来できないのだ。東洋と西洋の一つの違いかもしれない。 

 ただ現実的な話をすると、トボトボとしか歩けない老人は気が頭から脚に到達するのが遅すぎるためであり、若いうちから訓練すれば、全身に気を巡らすこと ができ、高 齢者になっても身体も頭脳もよく働き、楽しく豊かな人生を送ることができるというのだ。天国で楽するよりは、この世で楽しみたいと考える現実主 義の中国人に太極拳はピッタリである。ただ、若 い中国人は西欧志向で太極拳に関心がないのは残念である。

 ノーベル物理学者のT.D.Leeコロンビア大学教授は、理研BNL研究センターの陰陽の融合を模したロゴを指しながら、「道生一、一生二、二生三、三生 万物」と仰せになる。「道」こそ、万 物の源流であるという。では、「道」とは何か。森羅万象の究極的な道理なのか。道と太極拳との関係は何か。この問題 は、頭脳で知覚することではなく、身体で感受することではなかろうかとも思える。理 性主義の転換か、それとも懐疑主義の再来か、私にはよく分からないが、 サイエンスの世界でも「部分」よりも「全体」が重要になってきているのは間違いがないであろう。 

 90年代初頭、米国はソ連との冷戦に勝利すると、それまで原爆、ロケット、人工衛星技術を支えてきた物理学から生命科学重視へと大きく舵を切った。クリ ントン政権はNIH(米国保健研究所)の 予算を急激に増加させた。そして、そのプロジェクト成果のピークは人のゲノムの完全な解読であった。米国大統領の みならず、日本の首相も本人達がその意味を理解していたかどうかはともかくとして、メ ディアの前で勝利宣言を行った。ゲノム→タンパク質→細胞という情報 伝達の謎や生命現象は、ゲノム解読により解明されると信じられていた。その背景には、がんの克服という米国の政治的意思が働いていたのだ。が んを克服させ できれば人間は半永久的に健康でいられるかも知れない。ゲノム解読に向けて日本を含め世界中の科学者や政府が踊らされたのは、米国の国家目標に奉仕するた めであったと言うのは誇張であろうか。そ の結末はどうなったか。科学者は生命原理の複雑さの前に改めてたじろぐことになる。自然よ、あなたはやはり偉大で ある。こんなに複雑なメカニズムを解析し、がんの機構を解明し、が んを克服することは不可能だと思い知らされる。ゲノム信仰の崩壊である。土地信仰はすで に過去のものとなったが、また歴史に一つの信仰の崩壊が刻まれることになった。あ れだけ騒がれた遺伝子組換え技術によって合成された新薬はほとんど実用化 されていない。ゲノムから新しい医療や薬品が生まれるという発想は米国でも人気を失っている。 

 その後、健康を支える世界の流れは統合医療へと向きを変えた。統合とは、西洋医学に伝統・相補・代替医療を合わせること、精神と身体を一体化してみるこ と、治療のみでなく予防・健 康増進を重視することだ。生命科学の世界におきかえると、免疫力・代謝機能・解毒機能を解明することが重要と考えられるように なった。分かりやすく言えば、ゲ ノムとタンパク質の単体の解明から統合的視点での生命科学へと重点が移ってきたのである。 

 21世紀が生命科学の飛躍的発展の時代になることは間違いがないであろう。しかし、戦略が問題である。人間の身体を小さく分けて分析しようという方法は 行き詰ったのだ。生 命は人間が考えている以上に神秘に満ちている。生命の持つ本来の力を十分に発揮することで、ひとは健康を保ち、人心の荒廃をも防ぐこと ができるのではなかろうか。成 人病の原因はほとんど過剰な栄養摂取とストレスである。この文明病をどう克服するかは人類のチャレンジである。 

 T.D.Lee教授が唱える「道」を私は正直言って理解できない。しかし、太極拳という活動を経て、自己の生命の躍動感を蘇らせることができるのではな いかと密かに願っている。生 命科学は免疫学やシステムバイオロジーや漢方・薬草に向かっている。東洋の知恵が試される時代に入っているのかも知れない。ア ジアの真の復興には時間がかかるかもしれないが、道 はかすかに見えてきているのではかろうか。科学の転換は経済社会の変化をリードすると期待している。


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