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【08-010】中国の景気刺激策と科学技術政策の行方

2008年12月5日〈JST北京事務所快報〉 File No.08-010

 2008年9月に一気に高まった米国発の世界的金融危機は、中国経済にも大きな影響を与えている。もともと米国発金融危機の前から、2008年の中国経済は大きな節目を迎えていた。それは、原油高、穀物相場の高騰等に起因する原材料のコスト高に加えて、定常的な人民元の対米ドルレートの上昇と労働契約法の施行(2008年1月1日)等に基づく労働コストの上昇が、従来の労働集約型輸出型製造業に大きなプレッシャーを加えていたからである。それに加えて2008年秋以降の世界的金融危機による世界的な消費の低迷が積み重なり、現在の多くの中国の輸出型製造業は苦境に立たされている。

 そもそも、中国では、2008年9月に米国発の金融危機が始まる前から、「労働集約型」「輸出中心型」に過度に依存した製造業の構造を「技術集約型」「内需志向型」に転換しようと図っていた。この経済構造転換の中で、イノベーションと科学技術の果たす役割は大きいと考えられていた。

 中国科学院は1949年11月(中華人民共和国成立直後)に北京において設立された。中国科学院は、科学技術分野における国の最高学術機関であり、国の自然科学とハイテク分野における総合的な発展の中心となっている国家機関である。

 

(参考)科学技術振興機構「サイエンス・ポータル・チャイナ」
【JST北京事務所快報】(2008年7月23日)File No.08-007
http://spc.jst.go.jp/experiences/beijing/b080723.html
 

 ところが、2008年9月にアメリカで本格化した世界的金融危機は、中国の政策にも大きな影響を与えた。世界各国における需要の低迷により、中国の輸出産業が大きな打撃を受け、大量の労働者が職を失う事態になっているからである。中国の雇用問題を担当している人力資源社会保障部部長(大臣)は、11月20日に行った記者会見で「世界的金融危機により大規模なリストラは起きていない」「農民工(農村から沿岸部等に出稼ぎに来ている労働者)が故郷に帰る流れが強まっているとは言えない」と発言しているが、こうした政府幹部の発言にも拘わらず、中国の多くの人々は、現在、雇用問題が最大の問題になった、と認識している。

 こうした中、中国政府は、11月9日、2010年末までに総額4兆元(約60兆円)に達する10項目にわたる景気刺激策を発表した。

 

(参考2)「人民日報」2008年11月10日付け1面
「十項目の内需拡大促進策が打ち出された~積極的な財政政策と貨幣政策の適度な緩和~」
http://paper.people.com.cn/rmrb/html/2008-11/10/content_135966.htm
 

 この景気刺激策は、下記の十項目について実施するものである。

  1. 安全に暮らせる住居を建設するプロジェクトの加速
     
  2. 農村インフラ建設(メタンガス利用、飲用水プロジェクト、農業用道路、農村電力網、「南水北調」(揚子江水系の水を北方の乾燥地域へ導くプロジェクト)、危険なダムの撤去や補強など
     
  3. 鉄道、道路等の重要インフラ整備の加速(旅客用線路、石炭運搬用線路、西部幹線鉄道、道路、中西部の飛行場及び地方飛行場の整備、都市電力網の改造)
     
  4. 医療衛生、文化教育事業の推進(医療サービス体系の確立、中西部農村の小中学校の校舎の改造など)
     
  5. 生態環境インフラの整備(都市汚水・ゴミ処理場の建設と河川汚染防止、保護林・天然林の保護プロジェクト、省エネ・排出減少プロジェクトの推進)
     
  6. 自主的イノベーション及び経済構造改革の加速(ハイテク技術の産業化と産業技術進展、サービス産業発展への支援)
     
  7. 地震被災地区の復旧プロジェクト
     
  8. 都市及び農村の住民の収入の向上(食糧最低購入価格の値上げ(2009年)、農業補助金の増加、社会保障レベルの向上など)
     
  9. 増値税(日本の消費税に相当)の改革と企業の技術改造促進のために1,200億元(約1兆8,000億円)相当の減税の実施
     
  10. 「農業・農村・農民」支援のため及び中小企業の技術改造のための金融規模の合理的な拡大など

 

 この中で、科学技術政策の観点から見ると、「(6)自主的イノベーション及び経済構造改革の加速(ハイテク技術の産業化と産業技術進展、サービス産業発展への支援)」が入っていることが注目される。

 これらの景気刺激策は、4兆元という大規模な金額を掲げているものの、既に決まっていたプロジェクトの金額も含むものであると考えられており、実際に全く新たに支出される投資額(いわゆる「真水」と呼ばれるもの)がどのくらい含まれているかは不明である。しかし、「景気」には一定の心理的な要因があり、世界の中の経済大国に成長した中国がこれだけ大規模な景気刺激策を発動したというニュースはかなりの心理的効果があったようで、この中国の景気刺激策は世界のマーケットには好感を持って迎えられた。

 上記の景気刺激策を具体化するものとして、既に、例えば北京における地下鉄建設の前倒し開始などが発表されているし、地方によっては、新しい大学や新しい病院の建設なども決められ、早いところでは年内にも工事を始めるところがある、という。北京オリンピックが始まるまでは、各地で起きている建築ブームがやや過熱気味であり、中国政府は土地開発や建物の建設(いわゆる「ハコもの」と呼ばれるもの)に対する投資を抑制しようとする政策を採ってきたが、今回の景気刺激策により、これら「ハコもの」に対する投資は再び活発化し、これから中国各地で再び建設ブームが復活する可能性がある。

 問題は、上記「6.自主的イノベーション及び経済構造改革の加速」に具体的にどのような形で投資が行われるか、である。地道な研究開発費用ではなく、例えば、サイエンス・パークなどの「ハコもの」投資にばかり資金が集中するようだと、中国に真の意味での科学技術力は根付かないと思われる。今回の景気刺激策は、2010年末までをターゲットとした当面の緊急的なものである。従って、10年後、20年後を目指すような基礎的で地道な研究開発に対する投資は後回しにされるおそれも否定できない。

 日本の場合、1990年代初頭にバブル経済が崩壊した後、「基礎的な科学技術力を付けなければならない」という発想の下、1995年に科学技術基本法が制定され、それに基づく科学技術基本計画が作られるようになり、基礎研究やイノベーションの進展に力を注ぐようになった。科学技術振興機構もその努力の一翼を担ってきているわけであるが、その1990年代後半から日本において始められたこれらの努力は、2000年代の後半の今になって、ようやくその成果を見せつつあると思われる(今、為替レートがかなり円高に振れているのも、多くの市場関係者が日本の「体力」に期待を持っていることの表れであると思われる)。基礎研究やイノベーションの進展のための投資は、その効果が出るまでに10年、20年の単位の時間を要する。これらの基礎研究やイノベーションに対する投資は、効果が出るのに長い時間が掛かるが、長期的に見れば、その国の経済・社会の「足腰」を強化するものであると考えられる。中国においても、2年、3年で効果が出る対策も大事であるが、それとともに10年、20年後に成果が出るであろう基礎的研究やイノベーション能力向上の努力は地道に続ける必要があると思われる。

 問題は1990年代初頭のバブル崩壊の後の日本には、10年先、20年先を見据えた地道な努力をする「余裕」のようなものがあったが、現在の中国において、そういった「余裕」があるかどうか、という点である。経済専門週刊紙「経済観察報」11月24日号の社説によれば、中国では毎年1,000万人の雇用を生み出す必要があり、そのためにはGDPの成長率は8%を下回ることがあってはならないとしている。もし、経済成長率が8%を下回ると、大規模な失業問題が発生するおそれがあり、それが各種の社会問題を引き起こすおそれがあるからだ、というのである。

 

(参考3)「経済観察報」2008年11月24日号(11月22日発売)社説
「雇用は民生の基本である」
http://www.eeo.com.cn/observer/pop_commentary/2008/11/22/121314.shtml
 

 「雇用は民生の基本」という考え方に基づき、中国の人力資源社会保障部は11月17日に当面の雇用政策を発表し、その中で、各地の発展に貢献してきた労働集約型業種・企業については、優先的に融資や社会的援助政策などが受けられるようにする、と述べている。緊急の課題として「雇用の安定」が最重要課題として浮上してきている今、技術革新による製造工程の機械化は雇用を減らす効果もあることから、「労働集約型産業構造から技術集約型産業構造へ」という構造転換には一時的にブレーキを掛けざるを得ない、という判断が背景にある可能性がある。

 今回の世界的経済危機は、2000年代に入って急激に増加した大学生の数とも相まって、大学生の間に卒業時の就職難が起こるのではないか、という不安を増大させている。数多くの雇用を確保しようとするあまり、中国が今後とも労働集約型産業に頼ることになるのであれば、大学卒業生のような高学歴者の雇用機会はあまり増えないことになる。つまり、労働集約型産業に頼って雇用を確保しようとすることは、雇用の数としては確保できたとしても、大学や大学院を卒業したような高学歴者にとっては働きたい職場と求人とのミスマッチを産み、大量の高学歴失業者を生む可能性があるのである。従って、こういった高学歴失業者を生まないために、今後、政府が主導して、研究型人材の雇用の場を確保する政策が今後採られる可能性がある。

 このように激変する世界の経済情勢は、中国の経済政策を変え、それに伴って中国が取るであろう科学技術政策を変質させていく可能性がある。日本と中国との科学技術関係を考えるに当たっては、直面する目の前の緊急の経済対策に目を奪われないようにすることも重要であるが、それと同時に、目の前の緊急の経済対策とそれに対応した一般労働者及び高学歴者に対する雇用状況がどうなっているかをしっかり把握して、日本としてできることを見極めていくことが重要であると考える。

 


(JST北京事務所長 渡辺格 記)
※この文章の感想・意見に係る部分は、渡辺個人のものである。