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【10-05】箱の中の庭:一粒の砂に一つの世界を見、一本の樹に一つの菩提を見る

張 雯(中華女子学院)     2010年10月 7日

 中日の文化交流は古代の方面に具体的な形で表れているだけでなく、近現代の分野にも中日の交流を具体的に表す多くの文化の縮図がある。例えば、心理学における箱庭療法は、ほかでもないこうした縮図の中の一つである。それは寿司、刺身や相撲のように広く知れ渡ってはいないが、すでに日本文化を代表する近現代の発展過程における一つの「時代の名刺」となっている。今日、箱庭療法は日本においてすでに広く流行し、現代の日本社会における人々の仕事と生活のストレスを軽減する不可欠の心理療法となっている。仕事と生活のストレスが日増しに強まっている日本社会において、人々は様々な心理疾患に直面しており、いかにしてこれらのストレスと心理障害を何らかの有効な手段によって解消するかということが、広く人々の関心を寄せる問題となり、箱庭療法はまさにこの時運に乗じて生み出された。箱庭療法は日本で生まれてから、ほどなくして中国に伝えられ、中国の地に根づいて、大いに発展した。

 箱庭は、日本語の一つの単語から来ており、日本語でHAKONIWAという。日本の民間遊戯の一つの方法であり、いくつかの小型玩具を用いて箱の中に景観を創り出すものである(図1参照)。日本の大通りや路地では、いたるところで箱庭制作による作品を目にすることができ、店先のユニークな設計や、街角の細密に作られた片隅、さらには一部の一般家庭の中にまで小さな箱庭が飾られ、所有者の精神修養や観賞に供せられている。

 箱庭療法という名称はSANDPLAY THERAPYが日本に伝わった後に使われ出したもので、中国では、箱庭療法は砂盤遊戯、または砂遊び療法とも名付けられている。

図1

図1 箱庭HAKONIWA

図2

図2 河合隼雄

 箱庭療法は最初、20世紀中頃の西洋に誕生したもので、スイスの心理学者カルフ(Dora M. Kalff)が「世界技法」とユングの分析心理学の整理統合を基盤として創始し、発展させた。1962年、a l / 日本の臨床心理学者河合隼雄(図2参照)はスイスのユング研究所での留学期間中、カルフにこの技法を学ぶとともに、ユング学派精神分析の資格を取得し、1965年に帰国後、この技法を日本に紹介した。箱庭療法は日本に紹介されると、たちまち日本の文化と響き合い、日本の心理療法の重要な派生部門となり、広範囲に普及が進められた。1966年以降、カルフはたびたび日本に招かれ、学術交流と訪問を行った。1 969年、日本で最初の箱庭療法の専門書『箱庭療法入門』(河合隼雄著、誠信書房)が出版され、1972年には、カルフの『カルフ箱庭療法』(山中康裕等監訳、誠信書房)が日本で翻訳出版され、箱庭療法の日本における普及にとり、それを促す役割を果たしたといってよい。その後、岡田康伸の『箱庭療法の基礎』(誠信書房、1984)、『箱庭療法の展開』(誠信書房、1993)が相次いで出版された。現在、日本は世界でこの療法が最も盛んに行われている国であり、河合隼雄も箱庭療法に対する際立った貢献により、国際箱庭療法学会の第二代会長の職を務めた。1998年、中国の心理学者張日昇は京都大学で岡田康伸について箱庭療法を学び、さらに河合隼雄の提案と励ましを受けて箱庭療法を中国に紹介した。2006年、中国で最初の箱庭療法の専門書『箱庭療法』(張日昇著、人民教育出版社)が出版され、箱庭療法をテーマとした心理カウンセリングと治療訓練が中国各地で盛んに展開された。現在、箱庭療法はすでに一つの主要な心理カウンセリング及び治療の方法となり、中国の教育システムと心理臨床の方面で広く普及し、応用されている。

図3

図3 『箱庭療法』

 箱庭療法は西洋から生まれ、どういう理由で、日本、中国などの東洋の国々において盛んに行われ、普及し、主要な心理コンサルティング及び治療の方法となったのであろうか。箱庭療法の歴史を総合的に眺め、箱庭療法の脈絡をたどっていくと、我々はうれしいことに、箱庭療法が東洋・西洋文化の産物であり、箱庭療法の理論基盤と治療理念には、いたるところに東洋の文化と思想がはっきりと表れていることに気づくのである。東洋の文化と思想の担い手として、中国と日本には古より今に至るまで、非常に長い文化的交流とつながりがあるが、箱庭療法は両国の学術交流を深める別の絆となっているのである。

 1965年に河合隼雄が箱庭療法を日本に導入して以後、日本は一つの非正式な研究会組織―箱庭療法研究会を設立したが、この研究会は毎年何回かセミナーを開き、箱庭療法の日本における発展に対し積極的な促進作用を果たしてきた。箱庭療法の日本でのさらなる発展を促すために、1987年、河合隼雄、樋口和彦、山中康裕らを中心として日本箱庭療法学会が設立された。日本箱庭療法学会は1988年に『箱庭療法学研究』の出版を開始し、箱庭療法の個別事例研究を中心に、多くの研究成果を発表した。中国には、専門の箱庭療法学会や学術雑誌はないが、『心理科学』、『心理及び行動研究』、『中国臨床心理雑誌』など、中国の中核的定期刊行物に、選択性緘黙症、強迫症状の女子大生、被虐待児童、多動症児童の個別事例研究が続々と掲載された。箱庭療法が中国において日増しに普及するにつれ、箱庭はすでに中日の心理学分野の学術交流の一つの重要なプラットフォームとなっている。ここ数年、多くの優秀な箱庭セラピストが日本箱庭療法学会の正式会員となり、日本の学会が開催する毎年一回の日本箱庭療法大会に参加し、さらに『箱庭療法学研究』に学術論文を発表してきた。2 004年に北京で開かれた第28回国際心理学大会及び2008年に北京で開かれた第5回世界心理療法大会において、日本の学者岡田康伸と中国の学者張日昇は共同で箱庭療法特別招待セミナーを催し、中日双方の代表が箱庭療法の理論研究と臨床応用について優れた報告を行った。

 箱庭療法はクライエントが、治療者の作り出した自由な見守られた空間の中で、玩具棚から自由に玩具を選び、砂の入っている特製の箱の中で自己表現を行うことを認める。箱庭は個人が情景の中で表現するのを助け、言語的・非言語的交流をサポートし、個人の感情表現のためにより広い空間を作り出してくれる。クライエントは箱庭制作と作品を通じて自分たちの想像力を表現し、個人的意味を帯びた象徴を描き出し、抑えられているエネルギーを解き放ち、個人のさらなる自己認識と洞察を促し、それによって心身が整理統合されるようにする。ある意味で、箱庭療法と日本の禅宗の枯山水庭園には多くの似通った点がある。神道、仏教、禅宗などの思想を含んでいる日本の庭園には重要な芸術的、精神的価値があり、ミクロの視点から大きな世界の美しさ、多彩さを描き、写意・象徴という芸術原理によって「小を以って大を見」、「有限の中に無限を見る」ことを体現しており、微妙な暗示性と含蓄に富んでいる。日本では、園芸もまた一つの重要なレジャー活動であり、芸術的・思想的表現であるだけでなく、それ以上に個人の心身の健康を促すことができる。中国の庭園には千年近い歴史があるが、北方の皇室庭園の壮麗・荘重さから、南方の民間庭園の古雅・精巧さまで、その独特の魅力は人の前に立ち現れる客観的な景色にあるだけでなく、より重要なのは、具体的な有限の庭園のイメージが映し出す設計者の人格傾向と人生哲学なのである。箱庭はクライエントの心の縮図であり、物の景観と心境との統一体である。クライエントは箱庭作品を制作することを通じ、非言語と象徴という方法によって自己の無意識と意思疎通を行い、「今このとき」の体験に集中し、その瞬間をしっかりとつかみとり、それによって心身の整理統合を成し遂げる。

 箱庭療法は個人の「自己治癒力」を強調し、クライエントの個性の実現を最終目標とする。心理治療の過程で、箱庭療法が重視しているのはカウンセリング関係の確立であり、「母子一体性」のような治療関係の中でのみ、自由な、見守られている空間が初めて構築され、クライエントの自己治癒力の呼び覚まされる可能性が生まれ、自我は初めて自性化(訳注:自性とは、仏教でそのものの本性のこと)の道を歩むことができるのである。日本の伝統においても非言語の感情交流がかなり重視され、日本の臨床治療者はユングの象徴主義とロジャースのクライエント中心という観点の影響を深く受けているため、S ANDPLAYの象徴性と非判断性を比較的受け入れやすい。日本では、箱庭療法の基本理論、確立と実施の原則は、すべてカルフのSANDPLAYの伝統を踏襲している。河合隼雄は日本で箱庭療法を普及させる際、カルフの象徴解釈の理論とユングの分析心理学の思想を強調しすぎて表現するのでなく、箱庭療法をロジャースのクライエント中心療法の続きまたは補足とみなすことに注意を払い、治療者が箱庭療法を行うにあたっては、自分の個性に基づき、治療者とクライエントの関係及び個別事例の流れと発展の可能性を重視すればよいことを強調した。河合隼雄は、治療者とクライエントの関係は非常に重要であり、箱庭作品は治療者とクライエントの関係の中で生み出されるものであることを特に主張した。張日昇は中国で箱庭療法を紹介するに際し、「付き添う、体験する、分析しない」という原則を堅持し、箱庭の「表現と体験」を強調し、「表現すなわち治療である」という心理カウンセリングの理念を提示するとともに、箱庭療法の本質を「人間的な思いやりを持ち、心を明らかにして本質を見、心と心で通じ合い、手を加えずあるがままにまかせること」と概括した。心理コンサルティングの一つの優れたプラットフォームとして、箱庭療法はクライエントが手軽だが豊かな箱庭世界で、自我の心理的葛藤や矛盾を箱庭制作を通じ、それとはなしに解放、整理し、無意識を意識化するのを助けてくれる。クライエントは目に見え、触ることのできる玩具と砂の力を借り、砂箱の中に自己の内心の世界を再現し、一方で個人の固有の認知と経験を解体し、もう一方で個人に内心の体験を再構築する機会を与え、自我を整理統合し、それによって心理的問題の解決を果たす。箱庭療法は単純な心理コンサルティング技術や心理治療技法ではなく、ただの深層心理学の臨床応用でもなく、一つの人生哲学なのである。箱庭療法は人間の心理の深層から、人格の変化を促す。

 今日、箱庭療法はすでに中国における心理コンサルティング及び治療の重要な派生部門となっており、社会の各分野で普及、応用が進められている。特に教育機関、例えば都市の小中高校や大学の心理カウンセリングセンターの建設においては、箱庭遊戯室は欠かすことのできない重要な部分となり、多数の学生の好評と人気を得ている。日本の著名な箱庭セラピスト桜井素子氏は2009年に訪中した際、わざわざ北京師範大学、北京第四中等学校の箱庭治療室に赴いて見学、座談を行い、中国の箱庭療法愛好者と心のこもった交流を行った。東洋・西洋文化の特色が融合した箱庭療法は、その独特な創意を備えた治療理念によって、中日の心理療法分野で重要な役割を発揮しており、箱庭の強調している「黙って付き添い、手を加えずあるがままにまかせる」ことは、傷ついた心を癒すだけでなく、戸惑いの中にいる現代人のために、心の花園を感得する貴重な体験を提供している。

張雯

張雯(ZHANG Wen): 中華女子学院

中国山東省棗荘市生まれ
2001.9~2005.7 山東師範大学心理学院 学士
2005.9~2010.7 山東師範大学心理学院 博士
2008.9~2009.9 早稲田大学文学研究科 特別研究員
2010.7~現在  中華女子学院児童発育・教育学院 講師