【11-02】宜興紫砂と常滑急須

朱 新林(浙江大学哲学部 助理研究員)     2011年 2月22日

 東アジア生活圏に住む人々には茶を飲むという広く共通する嗜好がある。この地域に住む人々は長い生活体験の中で、茶は健康に良いだけでなく、身を修め性を養うこともできると徐々に気付くようになった。茶に対するこうした特有の心情は中日両国の飲食習慣に具体的な形となって現れている。茶を飲む風潮が盛んになるのに伴い、これに用いる器物に対する人々の要求はますます高まったが、その中で最も重要なのは茶器だ。茶を飲む習慣の中で、茶器という美しい芸術品が生まれたのである。中国における茶器の代表は宜興紫砂壺、日本では常滑急須となる。

一、宜興紫砂

 中国江蘇省宜興は古くは荊渓、陽羨と呼ばれ、太湖西岸に位置し、陶器を焼く長い歴史を持っている。宜興特有の澄泥陶は紫紺色をし、その製品は「紫砂器」と言い、通常は「紫砂」と略される。この千年来、紫砂は誕生、発展の過程を経て、明代末期に成熟し、その後も長い間衰えることがなかった。磁器の都、景徳鎮に並び、陶器の都、宜興の製品は国内外でよく売れている。

 主要商品となった紫砂茶器の生産と発展は、中国の数千年に及ぶ茶をたしなむ風俗習慣と密接な関係がある。中国は茶樹の故里であり、早くから茶を栽培・利用していた。前漢・王褒の「僮約」、後漢末年・華佗の「食論」、唐代・封演の「封氏聞見記」、陸羽の「茶経」、白居易の「琵琶行」、宋代・孟元老の「東京夢華録」等には茶を売り、茶を飲むことに関する多くの文献資料と論述が残されている。商人は天秤棒を肩に担ぎ、又は船に乗り、遠方に出掛けて茶葉を買った後、市場で店を出したり、瓶を手に提げて茶を売った。茶を飲む方法には「烹茶」、「煎茶」、「点茶」があり、その普及度は「屋を比(なら)べて飲み」、「日を窮め夜を尽くし」、「俗に天下に遍く」というものであった。茶に関する器物は茶盞、湯盞、茶筅、茶碾、茶瓶等。明代になると、漢族が住む地域では散茶、芽茶が膏茶、餅茶に取って代わり、その方法は泡茶(茶を淹れる)に変わり、こうして茗壺(茶壷)が主な茶器となった。早くも唐代には茶を飲むことが重視され、茶の理論が形成されており、その後も発展が続いた。これは当然、茶器にも関係している。宋人は「闘茶」を好み、茶器の製法と色合いに対して特別な要求を出した。明人は「茶壷は小を以て貴しと為し、一客毎に、一把の壺。其の自ら斟み自ら飲むに任せ、方に趣を得るを為す。何ぞや?壺は小さくして則ち渙散せず、味は耽擱せず」と考えていた。「品茶は一人で神を得、二人で趣を得、三人で味を得る」、また、「茶の飲むを為すは、精行修得の人が最も宜しい」等を会得することは正に「茶道」の真髄だと言えよう。品茶理論の発展は必然的に茶器の生産に影響し、これを促した。茶器の中で、宜興紫砂はその特有の風合いにより、突如として現れ、重要な地位を占めるようになった。

 現代の学者は一般に、紫砂の生産は中国北宋中期に始まったと見ており、宋代の欧陽修、梅尭臣らは「紫甌」を歌った詩を書いている。このため、一部の学者は紫砂茶器は北宋時代に既に誕生していたと考えている。明正徳年間(1506~1521年)になると、紫砂は次第に有名な業種となり、隆盛の道を歩み始め、民間の工芸職人が輩出した。その中で、供春は紫砂壺の発展の歴史において記念碑的意義を持ち、彼は紫砂器を新たな境地に高めた。紫砂芸術の最初の専門書--周高起が開啓年間に書き上げた「陽羨茗壺系」によれば、供春の作品は当時既にほとんど目にすることができなかったという。後世に伝えられ現存する供春壺のうち、書籍に記載され且つ有名なものは2点ある。1点は「樹癭壺」で、壺の取っ手の下に「供春」の2字が刻まれ、裴石民が壺蓋を補製し、黄賓虹が命名した。現在、中国歴史博物館に保存されている。もう1点は羅桂祥氏が所蔵していたもので、後に香港茶具文物館に収められた。壺底に「大明正徳八年供春」という2行の楷書銘が見られる「六瓣圓嚢壺」である。

 考古学的発掘により年代がはっきりと記され、考証可能な紫砂の実物が現在、中国南京市博物館に所蔵されている。これは提梁壺で、総高17.7cm。1965年に南京市中華門外馬家山の明司礼太監呉経墓から出土し、同時に嘉靖十二年の磚刻墓誌も発見された。呉経墓から出土したこの壺は、供春が活躍していた時代に製作された紫砂器を鑑定する上で大きな参考的価値を持つ。1976年7月、考古学者は宜興丁蜀の羊角山で古窯跡の破片が堆積しているのを発見した。その中には初期の紫砂の残片があり、紫がかった深紅色で、泥質はきめが粗く、手工技術も高くない。製品には明らかな火疵が見られ、復元して得られたものは大部分が壺であった。羊角山窯の年代を測定した結果、その上限は北宋中期より早くなく、南宋に盛んに焼かれ、下限は明代中期までとなる。この発見は紫砂が北宋に始まったとの見方を裏付けるものだと考えられている。

写真1 

(宜興紫砂壺、以下のリンクから引用:http://baike.baidu.com/view/175811.htm

 紫砂壺は万歴年間に発展を遂げ、名匠が輩出し、それぞれが流派を立て、美しさを競い合った。製品の焼成技術面でも改良が得られ、色合いと光沢度が増し、宜興紫砂壺の造形は千変万化した。その造形は完全な手作業により叩きながら継ぎ合わせる技法を採用して製作されたものであり、こうした成形工芸は世界各地の陶器成形方法と異なっている。これは宜興の歴代職人が紫砂泥原料の特殊な分子構造と様々な造形要求に基づき、編み出したものである。万歴以降、紫砂産業は独立した生産システムが形作られ、各種の製品が斬新さを競い合う隆盛期に入った。まさにこの時期、江蘇宜興は泥土の特質及び製作工芸の成熟により、景徳鎮の磁器に並び称せられる陶製品の中心地となったのである。茶をたしなむ名士で宜興紫砂壺の所有を光栄に思わない者はなく、これは茶器の代名詞となった。この時代は見事な工芸技術を持つ多くの民間職人が次々と現れた。時鵬、董翰、趙良、元暢は嘉靖・万歴時期の著名な陶工であり、当時「四大家」と呼ばれた。時鵬の子、時大彬は万歴年間の最も有名な陶芸家である。彼が用いた陶土は塩化アンモニウムが混じり、その作品は妍媚を求めず、素朴で上品な味わいがある。最初は供春に倣って大壺を作っていたが、後に文学者・書画家の陳継需らと知り合い、品茶・試茶理論の啓発を受け、一転して小壺の製作に専念した。これは紫砂壺の工芸史上、画期的な出来事である。これ以降、宜興紫砂壺は文人と切っても切れない縁を持つようになった。宜興紫砂壺に対する明代の最大の貢献は文人、士大夫、収蔵家が紫砂器の設計と製作に参加し始めたことにあり、例えば項元汴、趙宦光、董其昌、陳継儒、宋葷らはいずれもこの道に熱心であった。

写真3

(時大彬・瓜棱身菊花蓋壺、壺の注ぎ口の下側に『大彬』の2字が刻まれており、中国の国家1級文物に属する)

 時大彬の後の最も有名な陶芸大家は清代康煕・雍正時期の陳遠である。陳遠は鳴遠と号し、また、壺隠とも号した。呉騫は陳遠について「一技の能、世に間して特出す」と言い、さらには供春、時大彬でさえも彼に「遠く為すを以て無し」と言った。陳遠は楊中訥、曹廉譲、馬思賛らの文人学者と交わり、製作した茶器の賞玩物は数十種を下らず、堂々たる書法には晋・唐の風格があった。彼が製作した瓜果式器具、例えば束柴三友壺、伏蝉葉形碟、梅幹筆擱、倣竹段臂擱及び清供果子六款(クログワイ、クワイ、ヒシ、板グリ、クルミ、落花生)等は精巧で真に迫り、楚々として風情があり、当時、絶品として推賞された。陳遠の貢献は清代の紫砂工芸の新たな局面を開いたことにあるが、夜明けの空の暁星のように、その輝きは寂しげである。

 茗壺は明代初期まで比較的大きかったが、その後次第に小さくなった。福建、広東一帯で烏龍茶を飲む時の「功夫茶」だと、茗壺は特に小さい。「陽羨名陶録」巻は周澍の「台陽百詠注」を引用し、台湾人の品茶について「群人の茗皆く自ら煮て、必ずや先ず鼻を以て其の香りを嗅ぎ、供春の小壺を最も重んず」と述べている。明末、紫砂はポルトガル商人によって欧州に持ち込まれ、「赤い磁器」と呼ばれた。清代に入ると、紫砂工芸は急速な発展を遂げ、製品の様式と風合いが明代よりユニークなものとなり、新しい種類が次々と登場した。例えば紫砂の植木鉢及び各種調度品、玩具である。その中には花や果物を参考にして造形した茶壷とか、古銅器スタイルの茶壷があり、さらに様々な粉彩山水の装飾を用いた紫砂壺及び落花生、クログワイ等の紫砂象形品もある。茶壷工芸家の精進により、それは宮廷皇室から献上品に選ばれることが多く、また、欧州、日本、東南アジア及び南米の各国に輸出された。

 清代の乾隆・嘉慶時期の最も有名な陶工職人は陳鴻寿(1768~1822年)であり、曼生と号した。浙江銭塘出身である。彼は黄易、奚岡、趙之琛らと共に「西泠八家」と呼ばれ、文学、書画、篆刻に精通していた。宜興で県知事を3年務め、紫砂を好んだ。曼生は18種類の砂壺の様式を考案し、楊彭年及びその弟の宝年、妹の鳳拭にこの様式に従って製作するよう依頼した。製作された壺の底には鈴印の「阿曼陀室」の落款が刻まれ、取っ手の下に「彭年」の印がある。彼の最大の貢献は紫砂茗壺を詩文・書画・印刻と結び付けたことにあり、こうした気風は当時及びその後も人々から大きく注目された。従って、この視点から言うなら、陳曼生は宜興陶業の振興に多大な貢献をしたと言える。

写真3

(陳鴻寿肖像画)

 こうした気風のお陰で、紫砂茶器は清朝皇室への献上品となった。台北の故宮博物院には「康煕年」の年款があり、四季の草花を描いた琺瑯引きの紫砂壺が所蔵され、その造形には方形もあれば円形もある。清宮内務府造辧處の公文書には、雍正四年(1726年)10月20日に「宜興壺大小六把を持ち出す」と記載され、また、乾隆二十三年(1758年)10月5日の公文書には、蘇州の織造が「宜興壺4件」を送ったと記録されている。北京の故宮博物館には「乾隆年制」の底款が付いた紫砂壺及び、乾隆帝が外出した時に携行し、籘で編んだ手提げ容器の中に入れたという茶器一式が所蔵されている。これには乾隆帝の御製詩を刻んだ紫砂壺や茶葉罐等がある。その他、宜興紫砂器は清光緒年間に日本、メキシコ及び南米各国へ大量に輸出された。

 民国時代、中国の宜興紫砂壺は世界に進出し始めた。民国四年(1915年)、宜興紫砂はパナマ国際博覧会で初めて受賞した。民国六年(1917年)、江蘇省立陶器工廠が蜀山に設立され、陶磁器の専門家と技術労働者を招いて系統的な紫砂器の生産を開始した。同工廠はさらに紫砂の泥質、泥色及び造形等に関する研究を進め、改良を加えた。民国十年(1921年)、利用公司は蜀山に利用陶工伝習所を開設し、紫砂工芸の見習工を募集・養成するとともに、龍窯1基を設け、紫砂製品を焼成した。当時、紫砂の生産は蜀山、潜洛、上袁等で行われ、紫砂製品を焼成する窯は既に10基を数え、年産量は100万点余りに達した。民国二十一年には紫砂工芸職人が600人余り、窯が計140基、年産量は220万点に達し、宜興陶磁器産業の総生産量の15%前後を占めるようになり、日本、東南アジア等の国々から直接注文を受けた。紫砂産業が非常に活発な1年であった。この年、朱可心、陳寿珍、兪国良、呉雲根、範福奎らの紫砂職人が手掛けた「雲龍鼎」、「掇球」、「倣古」、「傳爐」等の作品はいずれも米シカゴ博覧会で優秀賞を獲得した。

 中日戦争の勃発前、日本政府が紫砂の輸入関税率を引き上げ、また、常滑等で紫砂陶が倣製されたため、さらには民国二十三年の大規模な干ばつ災害により、国民の購買力は著しく弱まった。その結果、紫砂生産が徐々に衰退し、紫砂業は後継者がほとんどいない状態に陥った。中華人民共和国成立後、国と地方の共同の努力の末、宜興紫砂産業は景気の谷間から徐々に抜け出し、再び活況を呈した。

二、常滑急須

 日本では茶器を「急須」と言い、中国の呼称と異なる。これは中国の福建方言「急焼」の古音が訛って変化したものであり、中日の文化交流に伴い、日本語の中に残されるようになった。唐代・李商隠の「腸」詩には「熱くするは應に急焼を翻すべし、冷やさんと欲すれば微波を徹す」とある。これは現在我々が目にすることのできる「急焼」という言葉に言及した早期の具体例である。宋朝・黄裳の詩「龍鳳茶寄照学禅師」には「仏廬に寄りて飛瀑を引き、一簇の蠅が急須の腹を声する」とあり、その句の下に「急須、東南の茶器」と自注されている。宋代には「急須」という名の茶器が既に出現していたことがわかる。考古学的発掘で証明されているように、遅くとも唐代には長沙窯及び越窯で長い取っ手の付いた横タイプの帯流壺が焼成されていた。注ぎ口と取っ手の位置は90°の角度を成している。磁竈窯の急須と異なるのは、長沙窯及び越窯の注ぎ口と取っ手がいずれも長く、茶器全体がすらりとし、且つその表面に青色の釉薬か、又は濃褐色の釉薬等が施されていることである。地元の関係者はこれを「壺」類に区分している。こうした横手壺は唐代に流行した注壺と同じように酒をつぎ、又は水を入れるのに用いた可能性がある。

写真4

(以下のリンクから引用:http://www.ccrnews.com.cn/100018/100021/21236.html

 福建省晋江市博物館には中国の茶壷の形状・構造と異なる特殊な茶器が所蔵され、「急須」と呼ばれている。急須は中国閩南(福建南部)地区の日常生活における重要な器具である。地域によって呼び名が若干異なり、土鍋と呼ぶこともあれば、具体的に煎薬罐と呼ぶ所もある。しかし、晋江一帯では基本的にこれを「急焼」又は「急焼仔」(『仔』は閩南語で常用される尾音、虚詞であり、実際の意味はない)と言う。器物の多くは釉薬をかけず、生地がむき出しになっている。基本的な造形は盤口が浅く、首部が狭く、胴部が膨らみ、平底がやや凹んでいる。急須は晋江・磁竈金交椅山の宋代窯跡、磁竈土尾庵の宋・元窯跡で出土した。当初は蓋が付いていたはずだが、長い年月を経て、そのほとんどが散逸してしまった。閩南地区では今なおこうした器形を踏襲して焼成・使用し、薬を煎じるための器物としている。器形と発音が日本で出土した古陶磁器と似ており、こうした相似性は古代の中日物質文化交流の歴史を反映している。現在ある文献と出土文物から見て、両者は器形と発音が似ているだけでなく、深い根源を持ち、こうした根源的関係は古代の中日両国間の文化の相似性及び文化交流の緊密性を十分に証明するものだ。

 常滑急須について語ろうとするなら、日本の陶磁器の発展の歩みに触れざるをえない。日本も陶磁器分野で悠久の歴史を持ち、越前焼(福井県)、瀬戸焼(愛知県)、常滑焼(愛知県)、信楽焼(滋賀県)、備前焼(滋賀県)、丹波立杭焼(兵庫県)の六大古窯がある。「常滑焼」の起源は平安時代(794~1185年)にさかのぼり、この地の伝統工芸家は陶土が豊かで良質という特性を十分に生かし、様々な陶製品を生産した。そのうち粘土の中の鉄分を利用して焼成した赤色の朱泥は常滑焼の代表作として世界にその名を知られ、一般に「朱泥」と呼ばれている。

写真5

(常滑の急須その成立期の様相、常滑市民俗資料館より、2002年10月)

 中国の宜興紫砂が日本に輸入されたのは江戸時代(1600~1867年)末期に始まる。当時は「東洋装」又は「朱泥器」と呼ばれており、「恵孟臣」、「陳鳴遠」等の款識(かんし)が刻まれた小壺は日本人に広く喜ばれた。模倣学習に長じた大和民族は巧みに学習し、巧みに創造する本領を存分に発揮し、宜興紫砂壺の倣製を始めた。万延・文久年間、日本常滑の医師、平野忠司は宜興紫砂陶をこよなく愛し、陶工の片岡二光、杉江寿門に紫泥を試作するよう奨励・指導し、常滑で朱泥陶器を生産するための基礎を定めた。平野忠司(1818~1900年)は今なお常滑朱泥陶の創始者として尊敬されている。明治10年頃、常滑の陶工、鯉江高須は叩きながら継ぎ合わせて成形する宜興の技術を高く評価し、蘇州籍の紫砂の達人、金士恒と呉阿根を日本に招き、紫砂壺の製作技術を伝授してもらった。鯉江方寿、杉江寿門、伊奈長三郎、上村白鴎らがこの技術を学んだ。これは宜興壺の工芸が日本に伝わった始まりであり、彼らの作品は今なお常滑陶器館に珍蔵されている。金士恒は特に紫砂の技芸を日本に伝えた重要人物であり、金氏は中国安徽銅山県の出身である。彼は招きを受けて日本を訪れ、地元の朱泥技術を一段と向上させ、小型で精巧な作品が現れた。このため、彼の主な貢献は日本が宜興スタイルの朱泥茶壷を製作する切っ掛けをつくったことにあると言えよう。これら先輩賢人の努力のお陰で、常滑は次第に朱泥急須の主要産地となり、これが「常滑焼」の代表作品となった。常滑の陶工は陶土が豊かで良質という特性を十分に生かし、様々な陶製品を生産しただけでなく、茶器の彫刻手法に更なる磨きをかけ、工芸家の優れた腕前を発揮したのである。

写真6

(常滑の急須その成立期の様相、常滑市民俗資料館より、2002年10月)

 常滑急須の製陶工芸が改良され向上するのに伴い、常滑の陶壺業は活況の様相を呈し、理論研究と文献記録においても多くの文人詩人から重視された。文献記録の面では、1867年出版の「鉄斎茶譜」に文化・文政年間に日本へ輸出された39点の茶器が収録されており、これは日本最古の紫砂茶器図鑑である。もう1冊は中国の紫砂収蔵家によく知られ、明治4年に出版された「茗壺図録」2巻である。東京の有名な陶芸鑑賞家、奥玄宝(蘭田)が集録した32点の茗壺を載せており、ここに記された観点は中国本土とほとんど違いがない。源流、様式、形状、注ぎ口と取っ手、泥色、品類、大きさ、道理の趣、款識(款は彫りくぼめた文字、識は浮き彫りに刻んだ文字)、真贋、無款、銜捏、別種、用意の計14章から成る。茶器としての価値の基準をどう位置づけるか、また、当時の審美眼、茶の作法をどう理解するかについて述べており、これは中日紫砂交流史における重要な記録文献である。しかし、最も深い影響を与えたのは「足利家伝来茶瓶四十三品図録」である。この図録は足利将軍家の秘蔵品をベースとし、後世に伝わっておらず、又は書物の記録がない初期常滑急須の多くの陶工作品及びそれらの製作方法を記載しており、常滑急須の盛衰史を図説した重要な文献資料となる。この図録はその後の常滑急須の製作工芸に大きな影響を与え、多くの伝統工芸家がその中からヒントを得て、創意工夫を重ねた。

写真7

(『茶瓶四十三品図録』古写本緒言、常滑の急須その成立期の様相、常滑市民俗資料館より、2002年10月)

写真8

(常滑の急須その成立期の様相、常滑市民俗資料館より、2002年10月)

写真9

(常滑の急須その成立期の様相、常滑市民俗資料館より、2002年10月)

 常滑の朱泥急須は技芸に深みのある美しい工芸品であり、常滑では優れた技術を持つ工芸家が輩出した。これらの工芸家はそれぞれ独自の特長を備え、そうした特長を茶器の製作工芸に大いに反映させた。日本政府は彼らの功績を顕彰し、また、日本の伝統的な無形文化遺産を保護するため、1973年に「伝統工芸士」の称号を創設した。さらに日本伝統工芸士会が設立され、伝統工芸士を管理・認定する職権を行使している。登録済みの常滑焼の伝統工芸士は36人を数える。雪堂、壺堂、小西洋平らが常滑急須の製作の舞台で活躍しており、彼らは今なお陶芸の道を探究し、更なる進歩を求めている。

写真10

(雪堂作、壺堂刻、蘭亭曲水壺、作者が所蔵)

 現在、中日両国の茶を愛好する人々は様々な造形、風合いの茶器を目にする時、こうした文化交流における両国間の入り組んだ関係を思い起こしている。恩に感じる心で素朴な茶の香りを味わおう。なぜなら、これは中日両国の民間職人が我々に与えてくれた恵みであるからだ。


PROFILE

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学部 助理研究員

中国山東省聊城市生まれ。
2003.9~2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9~2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9~2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11~現在 浙江大学哲学部 助理研究員


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