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【11-06】漆器の色は光と影を映す、独特な日中友情が溢れる

李 暁亮(淄博職業学院図書館 講師)     2011年 6月28日

 華麗で派手な色の漆器は、中国で既に8千年の歴史を持っている。その間、日本にも伝わっていた。日本人が日常生活の中で漆器を使用する頻度は他のいかなる民族をはるかに超えている。西洋人が磁器を「China」と呼ぶように、漆器を「Japan」と呼んでいたという事実からも、日本人にとっての漆器の重要性は明らかである。漆器は中国に起源しているが、日本人の手によって日本文化に浸透してさらに発展し、日本民族のシンボルになっている。これらの漆器には、独特な日中友情が溢れている。

一 中国漆器の歴史

 漆器は、木、織物、金属、竹ひご、皮革などの材料で作った器物の素地に漆を塗り、図案と紋様を飾っている工芸品である。漆は漆の樹木から天然樹液を採取し、精製した後、様々な顔料を混ぜ合わせ、塗料を調合したものである。この漆は塗料として使われると、色が鮮やかだけでなく、湿気や高温、腐食に耐えるなどの性能を持っている。1978年、6、7千年前の浙江省余姚市の河姆渡遺跡の第三文化層で一個の椀が発掘され、その椀の外壁に朱色の塗料が塗ってあった。これは河姆渡の木胎朱漆椀である。

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河姆渡の木胎朱漆椀

 中国は漆の樹液を認識し、それを器物に塗ることを最初に行った国である。後の春秋戦国時代に、漆器工芸は明快で華麗な色、随意で自由な飾り紋様、それに素材の豊かさと多様性で、社会各階層の人々に広く好まれて、漆器工芸の制作に前例のない発展段階を形成させた。戦国時代の彩絵描漆豆と鴛鴦形漆盒がこの時期の代表的な作品である。

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戦国時代の彩漆絵豆

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戦国時代の鴛鴦形漆盒

 これらの漆器を見ると、春秋戦国時代には漆器の使用が頻繁で、漆器は前の時代よりさらに芸術性を重視し、元の基礎となるものから大きな一歩を踏み出したことが分かった。秦漢時期の漆器はほとんど春秋戦国時代の遺風を踏襲したが、いっそう改善して、生産の規模を拡大した。秦時代の漆器は、形作りが上品で美しく、紋様も非常に多かった。彩絵獣首鳳形杓はその典型的な例である。

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秦時代の彩漆絵獣首鳳形杓

 漢時代の漆器は、戦国時代と秦時代の基礎に基づいたが、新しい発展段階に入り、漆生産の専門管理部門というものも出現した。この時代は中国漆器の黄金時代と言える。魏晋南北朝時代及び隋時代の漆芸は工芸がもっと華美で、技法も多かった。しかし、この時期の漆器はあまり多く発見されていない。

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前漢時代の彩絵猫紋漆器(馬王堆漢墓1号墓で出土した)

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唐時代の嵌螺鈿雲龍紋漆背銅鏡

 素朴で地味なこと、また精美無双なことは、宋、元、明、清時代の漆芸の特徴であり、この時期の漆器は質が優れて、成形が優美であった。明、清時代は漆器の第二次黄金時代と言えるかもしれない。この時期、漆器の制作は既に専門的になりながらも、漆器は皇室、豪族や貴族、さらに平民たちの生活用品になっていた。そのため、民間に多くの小さな工場が現れ、飾り技法、紋様作り、色彩、形や様式などはさらに種類が豊富になり、一層自由に作られるようになった。

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宋時代の剔犀执镜

 漆器の種類に関して、明時代の漆師黄成と楊明が書いた『髤飾録』の中に同じ色の漆器、罩漆、描漆、描金、堆漆、填漆、螺钿、雕漆など、さまざまな種類の漆器が記録されている。その種類は多くて、どれも大変美しい。中国の漆器は、数千年の発展の過程の中で数多くの高品質の漆器工芸品を制作しただけでなく、非常に優秀な漆器職人たちも育成した。例えば、盧映之は清朝初期有名な漆芸巨匠であった。乾隆時代有名な学者で詩人の袁枚は、盧氏が作った「都盛盘」に対して、銘文を作ったことがあり、「卢叟制器负盛名」と称賛した。また盧映之は、宋徽宗の時代から何百年間も伝承が途絶えた漆砂硯の制作技法を、康熙五十六年(1717年)に見事復興させた。

二 中国漆器の日本への伝来及び日本漆器の発展

 漆器は日本の伝統文化の重要な産物として、欧米諸国に日本の象徴だと考えられ、「JAPAN」とも呼ばれている。北海道・南茅部町の垣ノ島B遺跡で発掘された縄文時代に日本へ伝った漆器は、6000年余りの歴史がある。考古資料で出土した漆を塗っている木の器は、飛鳥時代に既に存在した。紀元6世紀に、交通手段が発達したことにより、日本と中国の交流がますます頻繁になり、仏教文物の上陸に伴って、漆器と漆工芸の技術は中国各地から日本へ伝わっていた。それ以来, 中国唐時代の大量の漆器、及び干漆造像、金银蒔絵など漆芸の技法は日本へ伝わり、中国の職人によって漆芸の技術を伝播し、発展させてきた。宋時代、杭州の彫漆は日本へ伝わった後、鎌倉時代(1192〜1334)の日本職人がそれを真似て制作し始め、「鎌倉彫」と呼ばれている。宋時代の漆器だと信じられているのは二件あるが、それらは日本へ伝わった剔黒酔翁亭盘及び刻む方法がそれと極めて似ている剔黒婴戏图盘である。日本の岡田譲氏の文章『宋の彫漆』によると、酔翁亭盘は紀元1279年に宋朝の遺民許子元が日本へ持参し、彼が住職を勤めていた円覚寺に保管していた。二つの盘は刀の技法が同じで、紋様が高く膨らまず、漆の層が厚かった元時代の彫漆と異なり、まだ『髤飾録』に書いた「唐制多印板刻平锦朱色」という手法が存続している。元時代、嘉興の張成などの巨匠が作った剔紅漆器も日本へ伝わっていて、当時の日本民衆に大歓迎された。明朝永楽年間、中国の使節は剔紅香盒、輿、椅子、顔洗いのフレーム、椀など約100件の漆器を持って、再び日本を訪問した。日本の宮廷職人もそれらを真似て生産し始めた。明時代の末、長崎に住んでいた中国人の剔紅職人欧阳云台の作品は日本で非常に歓迎され、「雲台彫刻」と誉められていた。中国の漆器職人は日本で辰砂の制作方法も伝授し、日本の剔紅漆器の発展を促進させた。

 奈良時代、漆器の工芸は各種の器や皿、武器、楽器の上に幅広く使用されていた。加飾法には金銀の泥絵、密陀絵、平文、螺鈿、末金鏤などがあった。その時、正倉院の漆器は木材を素材としたものが大半に占め、飾りの手段には金銀平脱、螺鈿、鏤金粉などがあった。その飾り紋様は草花、鳥獣、飛雲などを多く取り入れ、しかも紋様が対照的で、独特な伝統を形成したので、後代の人々に「正倉院紋様」と呼ばれている。

 平安時代には、日本の貴族文化が発達した。貴族の贅沢な生活需給を満足するために、職人たちは精巧で美しい漆器を制作しながら、特に蒔絵と螺鈿を追求していた。この時期、職人たちは「蒔絵」を制作するために、黒漆の素地で金銀粉の強い輝きと夢幻のハロー効果を磨き出した。当時の貴族たちがこれに大勢押しかけ、日本工芸史の中で一つのブームとなった。「蒔絵」はまた「識文描金」と呼ばれるものは、まず濃い漆で紋様を積みあげ、それから金彩で描くものである。蒔絵は中国の描金漆器の影響を受けた後発展してきたが、工芸のレベルが高まり、逆に中国の描金漆器に影響を与えた。螺鈿の工芸は日本で生じたものであり、中国の宋時代に「螺填器本出倭国,物象万态,颇极工巧,非若今市人所售者」という記録があった。螺鈿漆器は、すなわち研磨し、切り出した貝殻の薄片に紋様を嵌め込む漆器である。

 鎌倉時代には、「鎌倉彫」と呼ばれる漆器が現れた。鎌倉彫は日本の有名な漆器の一種であり、鎌倉時代に神奈川県の鎌倉古城で生じ、彫刻と髹漆を一体に融合した伝統的な工芸である。そのインスピレーションは中国の「彫漆」からもらったもの、すなわち器物の素地で何度も漆を塗り重ね、かなりの厚さに積みあげ、それから刃物でその上に紋様を彫刻する。その紋様には剔紅、剔彩、剔犀などの種類がある。中国伝統的な漆器と異なるのは、鎌倉彫を制作する時、まず木地で図案を彫って、漆を塗る。簡明で隆起する飾りの形は鎌倉彫の特色であり、時間が長ければ長いほど、その色合いが鮮やかである。

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鎌倉彫

 その後、室町時代を経て、江戸時代に入ると、蒔絵はさらに全盛期に入った。その後の明治、大正また昭和時代に、良好な制作基礎の上で引き続き発展して行った。総じて言えば、日本の漆器工芸は、主に蒔絵、沈金、螺鈿、拭き漆、彫漆、堆朱、蒟醤などがあり、有名な漆器は、栃木県の日光彫、東京都の江戸漆器、神奈川県の鎌倉彫、福井県の越前漆器、京都府の京漆器などである。

 能登半島の輪島塗(漆器)は、日本で最も評判が高い漆器であり、「日本漆器の王」と誉められ、約600年余りの歴史がある。輪島塗は、10年を経て自然に乾燥した檜を木地として、漆を100回以上も塗り重ねて、10年に近い時間をかけて完成したものである。沈金は、俗に鎗金と呼ばれ、すなわち漆器の表面に針で陰文の紋様を彫り込んだ後、紋様の中に金を埋め込む飾りの技法である。輪島塗の独特な特徴は、V形の刃物を使って漆器に精巧に彫ることであり、日本の重要無形文化財になった。元時代の鎗金漆器は日本に多く流入したが、1977年に東京国立博物館の「東洋の漆工芸」で展示されたのは10件であった。中には延佑年間作ったのは4件があり、そのなかに制作者と場所をはっきり書いている漆器もあった。例えば「延佑二年棟梁神正杭州油局橋金家造」などがあった。

 日本の漆器の中に、椀の制作は木材の鉋掛け、漆塗りから彩絵まで専門の人が担当し、世代の伝承を重んじている。例えば、丸物木地師の清水正義氏、丸物塗師の大久保隆三氏、沈金師の清水恒夫氏などは、みんな50年の資格を持っている一流の職人であり、三人とも見習いからやり始め、またわずかに残った少数の伝統工芸の技師である。

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八橋嵌金硯箱(1973年1月、日本通商産業大臣中曾根康弘が元中国国務院副総理李先念に贈呈したもの)

 この硯箱は、日本の画家、工芸家尾形光琳(1658-1716年)の八橋蒔絵螺鈿硯箱を真似て作ったものである。本物は日本の国宝であり、現在日本の東京国立博物館に収蔵されている。若い頃の尾形光琳は父親の尾形宗謙氏に従い、狩野派の水墨画と大和絵を学んだ。その後、俵屋宗達氏の飾り絵の影響も受けて、草花絵、物語絵、風景画の面で厳格で巧妙な風格を形成した。1701年、彼は「法橋」という栄誉を授与された。その後、彼は幅広く各派の芸術の長所を渉猟し、特に中国の絵及び雪舟の潑墨山水の技法を研修し重視して、絵の技法をいっそう深く通暁した。尾形光琳は俵屋宗達の画風を継承し、発展させたが、またそれを後継者が吸収し発揚して、「宗達光琳派」を形成させた。

 この硯箱の表面にある図案は平安時代(8〜12世紀)の散文『伊勢物語』の中で描いた八橋の景色を取材したもので、光琳派の代表的な硯箱の形である。表面には人物を略して、ただ八橋と燕子花を描いている。燕子花は画面の主な空間を占めて、八橋は花畑中を横切っている。燕子花は斜め上から見た図であるのに対し、橋の表は真上から見た構図である。作者は異なる視角の風景を画面に統一的に展示させたが、全く矛盾がなく、構図が巧妙で、豊かな飾りを表現している。黒漆の素地に金色の葉と茎を蒔絵で、花びらの柔らかさと瑞々しさを螺鈿で表現し、鉛板を橋に使用し、異なる材料の特質を利用することで奇妙な効果を作り出している。

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蒔絵・扇面紋長方形箱(1988年3月、日本のBO財団より元中国国家主席江沢民に贈呈されたもの)

 蒔絵・扇面紋長方形箱は、表面には黒漆の素地で金色の扇面紋を描いている。二枚の開いている扇は、呼応しているように入り乱れていて、扇のふさは2匹の風に舞っている蝶のようだ。全体の図案は構想が巧妙で、単純簡潔・調和優美の特徴があり、しかも寓意が深い。日本の漆器の中で、扇を主題の図案とするものは多く見られる。扇はまた檜扇と呼ばれ、平安時代の初期に現れた。最初は宮廷で使われたが、その後民間に流れ、人々に深く愛され、文人や貴人によって収蔵された。

 現在、日本で8割の旅館と料亭は越前漆器を利用している。昔は春夏秋冬と正月、年間で五種類の柄と色が異なる食器を使ったが、今はコスト・ダウンを図るために、ほとんど年間を通じて柄と色が単一の食器を用いている。1500年前から、日本人は木質漆器の食器を愛用していたが、生活方式の変化に伴い、それに中国産の漆器製品が日本に押し寄せていることで、日本国内でこの独特な工芸は次第に伝承が途絶える危機に直面している。福井県鯖江市和田地方は日本で数少ない漆器の産地である。越前漆器協同組合副理事長の森下桂樹氏は、日本は古代から漆器を使うのが大好きだが、現在次第に磁器、プラスチック製品に取って代わられて、現地の漆器の売上げも前より約6割を減ってしまったと指摘している。

 このような状況に基づき、日本現地の業者たちは積極的に中国が作れない新製品を開発している。耐熱で、食器洗浄機の中で洗える漆器の椀を作り出したが、さらに漆器の技術を他の産業に押し広めている。例えば、ゴルフボール、化粧品箱の飾りなどを生産して、日本の特色を強調する。ほかの産業と提携する時、製品を売る代わりに技術を売り、漆器産業の存続を願っている。日本の株式会社PFUは同社の10周年を記念するため、日本の有名な輪島塗を採用したキーボード——HappyHacking Keyboardを開発し売り出したこともある。

 キーボード上にある輪島塗は、石川県の輪島塗工房「大徹漆器工房」の協力を得て作られた。10回の漆塗りを繰り返した後、「朱金」という金粉を使って嵌め込んでいる。朱金の表面にある張力は、キートップのコーティングに最適だと言われている。キーボードの本体も輪島塗を使用できる。抗菌性と保湿性、耐久性を持って、キーボードの表面の塗装層として最も適切であるからだ。更に特別な意味を持っているのは、製品の名前にある「JAPAN」は英語で漆器を表す言葉である。

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HappyHacking Keyboard Professional HG JAPANキーボード

 今のところ、漆器は日中両国で異なる制作方式と審美的な情趣を持っている。しかしこれらの違いがあるからこそ、私たちは漆器を使用し鑑賞している時、心の中に特別な日中の友情を持って、昔両国が漆器を制作していた時の盛況に思い巡らせている。

李暁亮

李暁亮(LI Xiaoliang):淄博職業学院図書館 講師

中国山東省淄博市生まれ
1999年9月—2003年6月 山東理工大学文学院 学士
2003年7月—2008年8月 淄博職業学院音楽出演系 助手
2008年9月— 淄博職業学院図書館 講師