【11-09】日中建築文化考

朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員)     2011年 9月22日

 世界の建築芸術史において、悠久の歴史を持つ中国古代建築は自然と体系をなし、独立して発展してきた。それは数千年にわたって脈々と受け継がれ、日本をはじめとする東アジア諸国に直接的な影響を与えている。文化創造の本質は発見、選択、吸収、創造にある。東アジアに位置する日本は中国と一衣帯水の特殊な地政学的関係にあり、中国唐の時代の建築様式から深い影響を受けている。それと同時に、日本人は好奇心と異質文化に対する包容力の強さによって、自らの建築文化を次第に発展させてきた。神社から住宅、茶室から庭園まで至るところに、この島国民族が持つ独自の創造力が溢れている。とりわけ日本の伝統建築が内包するエコロジーは、世界の建築学界に有益な示唆をもたらすものである。

 英国の建築史学者パトリック・ナットゲンズ(Patrick Nuttgens)は「日本建築を研究すると、多くの建築芸術史実が示すように、日本建築は中国文化の影響を強く受けていることに気付く」と語っている。実際のところ、日本は斬新な建築文化の導入として、西暦1世紀ごろに典型的な中国南方の建築様式を取り入れている。

1.中国の伝統的な建築文化に関する概要

 中国の建築文化は歴史が古く、陜西省の半坡遺跡で発掘された長方形または円形の浅穴式家屋から現在に至るまで6、7千年の歴史がある。中国では春秋戦国時代(紀元前770~紀元前221年)、多くの都市が相次いで建設された。そのうちの1つに河南省偃師市の二里頭早商都城遺跡があり、縦、横各100メートルの封土がある。当時の木造技術は原始社会と比べるとすでに大きく進歩しており、斧、刀、のこぎり、のみ、きり、シャベルなど、木構造物を加工する道具があった。木構造と封土の技術がいずれも確立し、一定の進歩を遂げていた。西周(紀元前1100年ごろ~紀元前771年、中国の周王朝が、宗周<鎬京>および成周<洛陽>を首都とする大国だった時代の名称)と春秋戦国時代の王城均は皇室を中心とした都城だった。これらの都城はいずれも版築で突き固められた封土があり、城壁の外には堀が張り巡らされ、高くて大きい城門が設けられていた。宮殿は城内に置かれ、封土の上に建てられていた。木構造を主な構造方式とし、屋根にはすでに素焼き瓦が用いられ、木構造の上には彩色上絵が施されていた。ここから、中国の古代建築の原形がすでに出来上がっていたことが見て取れる。

写真1

第四号宮殿建築復元模型

 秦漢時代の500年間、国が統一され、強く豊かになったことから、中国の古代建築は中国史における初のピークを迎えた。構造主体の木構造は徐々に成熟し、重要な建築物には斗栱(ときょう)が広く使われた。屋根の構造形式も多様化し、「廡殿式」(寄棟造)、「歇山式」、「桃山式」、「攅尖式」、「囤頂式」が軒並み登場した。れんが造り、石造構造、アーチ構造に新たな進展が見られた。魏晋南北朝時代(184年~589年)は中国史上初めて民族の大融合が起きた時期で、東漢時代に中国に伝わった仏教がこの時発展した。南北政権は仏教寺院を各地に建て、仏教寺院が一時期大流行した。記載によれば、北魏には仏教寺院3万カ所以上、洛陽だけで1367カ所が建立された。当時、石窟寺が相当数生まれ、重要なものには山西省大同市の雲岡石窟、甘粛省敦煌市の莫高窟、甘粛省天水市の麦積山石窟、河南省洛陽市の龍門石窟などがある。

写真2

龍門石窟

写真3

莫高窟

 隋唐時代の建築はそれまでの成果を受け継ぎつつ、外からの影響を吸収する中で、独立した完全な建築体系が形作られた。それにより、中国の古代建築は成熟期を迎え、北朝鮮や日本など隣国の建築様式に影響を与えた。中国は唐朝末期から300年以上の戦乱の時代に再び突入したため、中国の社会・経済は甚大な損害を受け、建築も唐の時代をピークとして下り坂に入った。遼・金・元時代(907年~1368年)、商業、手工業の発展により、都市の構造や建築技術・芸術が軒並み大きく進歩した。例えば都城が前の時代の「里坊制」(南北中央に朱雀大路を配し、南北の大路<条>と東西の大路<坊>を碁盤の目状にした左右対称の「都市設計」)から、業種ごとに分けられた街路に商店が軒を連ねる形態に変化した。建築技術においては、前期の遼の時代には唐の時代の特徴を受け継いだものが多く、後期の金の時代には、建築に関しては遼、宋両時代の特徴を基礎として、それを一層進化させたものがよく見られた。建築芸術においては、北宋に入ると、唐の時代の広大で雄壮な基調から一転し、細やかさや繊細さ、精巧さを追求するようになり、建築装飾もより重視されるようになった。

写真4

唐の時代に建てられた南禅寺本殿

 北宋・崇寧2年(1103年)、朝廷は『営造法式』を公布・刊行した。これは建築技術全般について詳述した専門書で、過去の建築技術のノウハウがまとめられ、各種木材を建築寸法の基準とするモジュール制を定めるとともに、工作の手間や材積計算に対して厳密な規定が行われ、予算編制や施工面での基準としていた。同書の公布は、中国の古代建築が宋の時代に入り、施工の技術と管理の面で新たな歴史的段階に入ったことを示している。

 元の時代には、大都に皇宮、明の時代には南京・北京に皇宮を建築した。建築の配置は、宋の時代と比べより成熟し、合理的になっている。明清時代には、「苑囿(えんゆう)」(草木を植え鳥や獣を飼う場所で、皇帝の娯楽のために設けられた)と私有庭園の建設が流行し、中国史に残る造園ブームが起こった。明清時代の建築の傑作はその多くが今も良い状態で保存されており、北京の皇宮(故宮)や壇廟(天壇)、郊外の庭園、皇帝陵、江南(長江下流の江蘇・安徴2省の南部と浙江省の北部)の庭園、全国に広がる仏塔、道教宮観(寺院)、民家、城壁など、中国の古代建築史に残る名建築を今に伝えている。

 上述のように、中国の伝統建築には主に皇宮、壇廟、仏塔、民家、庭園などの類型がある。中でも皇宮と庭園が最高の傑作であり、広大な皇宮建築は政権基盤を打ち固めるための道具ともされていた。広大な規模を誇る故宮は極めて壮観である。皇宮の中心部である紫禁城だけでも、東西760メートル、南北960メートル、建築面積72万平方メートルに及ぶ。

写真5

故宮

 中国にはかなりの数の古代庭園が現存しているが、その多くは明清時代の建築されたものである。こうした古代庭園の傑作は江南に集中している。中国では「全国では江南の庭園が最もすぐれており、江南では蘇州の庭園が最もすぐれている」と古くからいわれる。中国庭園の園景は主に自然を模したもので、「人工物であるのに自然から生まれたような」芸術の境地に達している。ゆえに中国庭園には、多くの建築物以外にも、池や山を造ったり、樹木や草花を植えたりなど、人工的に自然風景を生み出し、または古代の山水画を青写真として詩の情緒を庭園に落とし込み、詩や絵画のような世界観を生み出している。

写真6

拙政園(蘇州)

 中国の古代建築は、木構造を主な構造方式としており、独特の単体造形で、中軸対称、整然と並んだ建築群の組み合わせと配置、変化に富んだ装飾、写意の手法を用いた山水園景が特徴である。ゆえに中国の伝統建築は、深い伝統文化に根差したものであり、ヒューマニズムの精神が鮮明に表れている一方で、強い全体性、総合性も保っている。

 上述の建築のうち、日本に最も深い影響を与えたのは、仏教の建築様式と唐の時代の建築様式である。それは、日本の古都奈良の平城京が唐の都・長安(今の陜西省西安市)を手本にして建築されたことからもうかがえる。

2.日本の建築文化の形成と日中の建築文化が互いにもたらした影響

 長安を模した平城京に代表されるように、西暦6世紀中ごろ、仏教の伝来とともに、中国の伝統的な建築芸術も日本へと伝わり、日本の建築技術は飛躍的な進歩を遂げた。日本は中国の建築様式を学ぶ中で、自らの固有の文化を織り交ぜて、独自の特色を持つ和様建築と唐様建築を次第に確立する一方、居住建築においても寝殿造、書院造など日本独自の様式や草庵風茶室、数寄屋など日本の格調を備える建築様式を徐々に成立させた。雄壮な中国建築に対し、日本建築は洗練さ、優雅さを持ち、建築構造の構造美と材料の質感の表現に長けている。このほか、日本建築は自然美を再現するための構想と技巧をより重んじている。

写真7

唐招提寺金堂(奈良)

 日本の建築史は(1)飛鳥時代、奈良時代、平安時代(2)鎌倉時代、室町時代(3)桃山時代、江戸時代――の3つの成長段階に大きく分かれる。飛鳥時代(593年~709年)の仏閣建築は配置様式がさまざまだったが、奈良時代に入ると次第に統一されていった。唐の時代の建築の特徴が顕在する一方で、日本的な様式への移行もみられた。神社は日本風の建築様式の典型で、通常は本殿を中心としている。本殿は一般に長方形の木構造が用いられ、土台は空洞で懸造になっている。屋根には水平に並べて置かれた丸太状の木「堅魚木(かつおぎ)」と、両端にあってそれぞれ交差して伸びている板木「千木(ちぎ)」がある。神社の中の柱、板仕切り、欄干などは素の状態で、木目がはっきりとしており、色つやは落ち着いている。神社につながる道ないし柵の辺りには、鳥居がよく設けられている。鳥居の構造は2本の柱の上に、両端が突き出る形で笠木(かさぎ)と呼ばれる横木を渡し、2層の水平材とする場合には上層の笠木に接して島木(しまぎ)と呼ばれる横架材を渡した形態である。巧みな構造比率によって設計された鳥居は、質朴ながら洒脱なたたずまいで、洗練された独特の美しさを持つ。平安時代(794年~1184年)、日本の仏閣建築には日本の特色を備えた和様建築が成立し、貴族の屋敷には寝殿造が成立した。平安時代の後期に成立した寝殿造は、中国の宮殿造を模倣したもので、塗籠(ぬりごめ、厚く塗った壁で囲んだ部屋。寝室または納戸として用いた)を除いたほかの部屋には間仕切りがない。必要なときにのみ、屏風や緞帳で仕切っていた。また母屋や庇(ひさし)、御簾(みす)、障子、几帳などを飾り立てる調度品は室礼(しつらい、舗設とも)と呼ばれた。

写真8

若松城(福島県)

写真9

松本城(長野県)

写真10

姫路城(兵庫県)

 鎌倉時代(1185年~1335年)から室町時代(1335年~1576年)には、地方の勢力が盛り上がりをみせ、宮殿や神社仏閣、貴族の屋敷が徐々に全国に広まった。この時、日本建築は中国建築の影響を引き続き受けながらも、一方で日本の特色を織り交ぜ、床に畳を敷いて、天井を張り、角柱を用い、床の間(押板)、違い棚、付書院などの座敷飾りを設けた建築様式「書院造」を確立した。床はほかの部屋よりもやや高くなっており、香炉や燭台、花瓶を2つ1組で床の上に飾る。安土桃山時代(1753年~1602年)になると、日本の既存文化は本格的に近世へと入り、城郭建築をはじめとする雄壮な文化が成立するとともに、書院造がより整えられていった。この時、中国から伝わったお茶を飲む習慣が次第に普及し、禅宗の広まりと、飲んだ茶の銘柄を当てる競技「闘茶」の流行を背景に茶道が成立した。それは日本人の美意識を反映した独特の総合芸術となり、書院造に影響を与え、茶室が広く流行した。その後は、数寄屋造(すきやづくり))の住宅様式が次第に誕生した。「数寄」は中国から日本に伝わってもので、部屋の間仕切りとしても、住宅の外壁としても用いることができる。日本で名高い桂離宮(1616年~1661年に建築)は、建築物と庭園との一体化により、人工物と自然が溶け合った空間形式が生まれ、日本の伝統的な建築様式と奥ゆかしさを生き生きと表現している。数寄屋造の歴史的な傑作である。書院造と数寄屋造が互いに影響し、溶け合いながら、近現代の和式住宅へと変化していった。

 明治時代(1868年~1911年)に入り、政府は欧化政策を取り、外国の建築家を招いて西洋建築を建てた。既存の木構造から、木とれんがとの混合またはれんが造りの「洋風建築」に次第に変化した。当時の重要な作品には、築地旅館(清水喜助設計、1868年)、赤坂離宮(片山東熊設計、1909年)などがある。1990年代初頭からは、西洋建築の思潮を受けて、それと関連する流派が生まれ、東京の歌舞伎座(岡田信一郎設計、1924年)、国会議事堂(大蔵省営繕管財局設計、1936年)などの現代建築が建てられた。このように、当時の日本建築の室内装飾は和洋折衷の形式が徐々に取り入れられるようになった。日本の住宅は一般的に、リビングやダイニングなど公的な空間はソファやいすなど現代家具を用いた洋室とし、寝室など私的な空間は畳や砂壁、杉板、障子など伝統的家具を用いた和室としており、和洋折衷の生活様式が幅広く受け入れられている。

写真11

国会議事堂

 戦後の日本に生まれ多くの庁舎建築には、欧米の建築様式が取り入れられた。庁舎は地方行政の中心であり、市民の活動の場でもある。香川県庁舎(丹下健三設計、1958年)は民俗色の探究と新たな庁舎の創造を実現した成功例である。庁舎外の廊下に剥き出しになったコンクリートの柱は、日本の伝統的な木造建築の素朴な美しさが溢れている。東京の国立西洋美術館(1959年)は、フランスが戦後日本に返還した美術品を展示するために建てられたもので、フランスの建築家ル・コルビュジエが設計、その弟子である前川国男、坂倉準三、吉阪隆生が完成させた。1975年以降、大手建築会社の建築スタイルは、単なる欧米のまねごとから西洋と東洋の融合へとシフトし、新材料の活用や伝統文化の継承、新たな形式の創造などにおいて大胆な試みを行う建築家も多く現れた。例えば、東京の中銀カプセルタワービルは、黒川紀章がメタボリズム(新陳代謝)という建築理論に基づいて設計したカプセル型の集合住宅(マンション)で、カプセルユニットを肩持ち梁の方式で中央のコンクリートの支柱に固定したものである。東京の草月会館新館(1974年~1977年、丹下健三設計)は、まっすぐにそびえ立つシンプルな建造物で、くっきりとしたラインが印象的である。外装には青色のカラーガラスウォールが使われている。建築物の両翼は直角で、角には深い溝があり、45度の鋭角が2カ所生まれている。大阪の国立民族学博物館(1977年)は、黒川紀章がファジィ理論に基づき設計した作品で、れんが、ステンレス など装飾材料にはいずれも灰色が使われている。また同館にも、直線と曲線、内部と外部、公的な空間と私的な空間などの対立する概念を結び付ける試みがなされている。東京の赤坂プリンスホテル(1982年、丹下健三設計)は、主体は水晶の結晶にみられる節理のように段状に迫り出した形で、外壁にはミラーガラスとアルミ材が用いられ、建築物全体がシンプルで落ち着いた雰囲気をかもし出している。丹下健三は建築学界のノーベル賞といわれる「プリツカー賞」を受賞している。

写真12

赤坂プリンスホテル

3.おわりに

 21世紀に入ると、日中両国の建築様式はいずれも、華やかさを求める享楽主義的な基調から一転し、自然を尊び、簡素さを追求するとともに、自国と西洋の建築文化の融合を図るようになってきた。今日の日本の建築文化は、中国の建築様式、とりわけ唐の時代の建築様式を学ぶ段階から、独自の建築様式を創造する芸術路線を歩み出した。日本の伝統的な建築ならびに室内装飾の独特かつ自然な様式や形式、建築手法や細部の処理、およびその中に息づく哲学は、現代の建築と室内環境の設計に深い影響を及ぼしている。これを基礎として、日本は世界レベルの建築家を多数輩出し、世界建築史に重要な影響をもたらすとともに、世界の建築芸術の発展に大きく寄与している。

 アンゴラ石(anglarlite、angalarite)は確認取れず。割愛。


PROFILE
朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学系 助理研究員

中国山東省聊城市生まれ
2003.9~2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9~2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9~2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11~現在 浙江大学哲学系 助理研究員


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