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【11-10】中国と日本の文字を語る

陳 葉(浙江大学古籍研究所)     2011年10月31日

 中国と日本には同じ漢字が多い。東洋文化に深い関心を持つ欧米人なら、同じ漢字であれば、意味も読み方も同じだと思うかもしれない。だが、まさにこの共通点と相違点にこそ、両国の文字の間に切っても切れない複雑な関係がある。現在の中国漢字と日本の文字は、すでにそれぞれ独自の文字体系を持つに至っている。では、この東洋の二つの神秘的な漢字文化に読者をいざない、多様な美しさを味わっていただくとしよう。

1.中国文字の起源と成熟

 漢字には中国語を記録する文字として約6千年の歴史がある。甲骨文字は中国で発見されている古代文字の中で最も古く、体系が比較的整った文字で、殷代に亀の甲羅や牛や鹿の骨に刻まれたものである。19世紀末に殷墟(殷王朝首都の遺構。河南省安陽市小屯)で発見された。甲骨文字は陶文(訳注:新石器時代に陶器に刻まれた文字の前身)の造字法を受け継いだもので、殷代後期(紀元前14世紀から11世紀)に王室が占卜および記録のために亀の甲羅や動物の骨に彫刻(または筆記)した。中国の書法は、厳密に言えば甲骨文字に始まる。それは、甲骨文字にはすでに書法の三大要素、すなわち筆法、間架結構法、布置章法が備わっていたためである。甲骨文は殷代の俗字で、公式の字体は金文であった。

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甲骨文

 金文は殷周時代の青銅器に鋳込まれ、または刻まれた銘文のことで、またの名を鐘鼎文という。金文は古くは殷代早期に始まり、秦が六国を滅ぼすまでの約1200年にわたり使用された。金文の文字は、容庚の「金文編」によれば合計3722文字あり、うち2420文字が解読されている。秦始皇帝は天下統一(紀元前221年)後、「書同文、車同軌」(文字と馬車の車幅の統一)政策を進めるとともに度量衡を統一し、宰相の李斯の指揮により、秦でもともと使用されていた大篆・籀文を基礎に文字の簡略化を行い、六国の異体字を取り除き、統一漢字による書体、小篆を誕生させた。小篆は前漢末期に隷書に取って代わられるまで使用され、その字体の美しさから、書法家たちの人気を集めてきた。また、その筆画の複雑さ、形の珍しさや昔ながらの風格、そして自由に装飾を加えられることから、封建国家が滅びて新たな偽造防止技術が登場するまで、小篆は長い間、特に偽造を防ぐべき公用印に使用されてきた。小篆の制定により、中国では初めて文字の標準化が行われたと言える。秦代の小篆は、現存する「泰山刻石」や「琅邪台刻石」などの遺跡に見ることができる。

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金文

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&故宮博物院所蔵「琅邪台刻石」拓本

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小篆(峰山刻石)

 漢代の許慎は「説文解字」に「秦焼経書、滌蕩旧典、大発吏卒、興役戍、官獄職務繁、初為隷書、以趨約易」と記した。つまり、小篆は公用文字に使うには筆記速度が遅かったため、隷書では丸みを帯びた文字を四角くすることで筆記効率を高めた。郭沫若は「秦始皇帝の文字改革における最大の功績は隷書の採用にある」と語っている。隷書はまたの名を漢隷といい、漢字によく見られる荘重な書体であり、字体はやや幅広で横画が長く縦画が短い。隷書は秦代に始まり後漢のころに全盛期を迎えたため、書法界では「漢隷唐楷」と言われる。隷書は篆書をもとに小篆を簡略化し、効率的な筆記の需要に応えて作られた字体である。隷書の登場は古代文字及び書法の一大改革と言える。隷書は篆書との対比で後漢のころに名づけられた。隷書の登場は、古代文字のみならず中国文字史全体の一大改革であり、これにより中国の書法芸術は新たな境地に突入した。また、隷書の登場は漢字発展史における転換点でもあり、楷書の基礎を築いた。隷書は字体が扁平で整っており、精巧である。後漢のころには左右の払いなどの筆画は美化されて斜め右上に跳ね上げられ、抑揚に富み書法芸術としての美を持つに至った。スタイルも多様化し、観賞価値が高まった。

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後漢「史晨碑」

  魏代・晋代以降の書法では、草書、楷書、行書が生まれて急速に発達した。隷書は廃止されこそしなかったものの、変化に乏しかったため長い停滞期を迎えた。清代になると碑学復興ブームの中で隷書は再び重視されるようになり、鄭燮、金農などの有名な書法家が登場して漢代の隷書をもとに新しさを打ち出した。その後は楷書の時代となり、張懐瓘は「書断」の中で早くも「楷書には模範の意味がある」とした。初期の「楷書」にはわずかながらも隷書の名残があり、字体はやや幅広で横画が長い一方縦画が短く、現代に伝わる魏・晋の集帖の中では鐘繇の「宣示表」、王羲之の「黄庭経」などが代表作といえる。唐代の楷書は、当時の国勢と足並みを合わせ、まさに空前の繁栄を見せた。書体は成熟し、書家が多く輩出された。唐代初期の虞世南、欧陽詢、褚遂良、中期の顔真卿、後期の柳公権の楷書作品が後世で重視され、習字の手本としてあがめられた。当時の楷書体書法で最も有名な四大家は欧陽詢(欧体)、顔真卿(顔体)、柳公権(柳体)、趙孟頫(趙体)であった。

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草決歌(出典)

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顔真卿「顔勤礼碑」

 行書は楷書をもとに生まれた草書と楷書の中間の字体であり、楷書の筆記速度の遅さと草書の判読しにくさを解決するために作られた、楷書を草書化し、草書を楷書化した文字である。楷書が草書より多く含まれるものは「行楷」、草書が楷書より多く含まれるものは「行草」と言われる。行書は漢代末期にはまだ広く使用されておらず、晋代に王羲之が登場すると初めて流行し始めた。行書は王羲之の手で実用性と芸術性が見事に融合され、後世に名の残る南派の行書芸術が生まれて書法史で最も影響のある宗派となった。

 中国で現在使用されている漢字は、1950年代以降に大陸で漢字の整理と簡略化が行われ、これをもとに制定された「異体字整理表(第1グループ)」、「漢字簡化方案」、「簡化字総表」、「現代漢語常用字表」、「現代漢語通用字表」などを基準にしており、2000年10月31日に公布された「中華人民共和国国家通用語言文字法」により、規範漢字を公用文字とすることが規定された。

2.日本語に対する中国文字の影響

 漢字が伝わる前は日本に文字がなかったとする説が9世紀ごろにはすでに唱えられていた。一方、国粋主義の立場から「神字日文伝」を記した徳川時代後期の国学者、平田篤胤(1776-1843)らは「固有文字説」、いわゆる「神代文字説」を提唱し、日本では早くも神代には文字が存在したと考えていた。しかし事実上、「固有文字説」は信頼性が乏しかった。

 中国古代漢字の日本への伝来は5~6世紀まで遡ることができる。漢字がいつ日本に伝わったかについては、現存する典籍の記載によれば3世紀末ごろ、応神天皇の時代の248年に王仁が百済から日本に渡り「論語」十巻と「千字文」一巻を献上したのが始まりと言われている。漢字は漢代の文化の重要な一部として、冶金、紡績、農耕などの文明を伴い、強い伝播力を持って朝鮮半島と日本列島に伝わり、連綿とつらなる漢字文化圏を形成した。中国史関連の文献と日本の考古学的発見によれば、1世紀ごろに漢字は遼東半島、朝鮮を経由して九州の福岡などに伝わった。小篆体と隷書体の多くは銅鏡に刻まれた形で日本に伝わったため、これら文字は銅鏡上の他の図案と同様に、日本人の目には荘厳かつ神聖で、縁起の良い象徴的な記号として映った。その後、日本人は銅鏡を模造し始めると同時に銘文も真似始めた。福岡県の志賀島から出土した蛇紐(蛇の紐通し)付きの漢代の印章には、光武帝から下賜されたものとして隷書で「漢委奴国王」の字が刻まれていた。「古事記」、「日本書紀」によれば、応神天皇16年に「論語」、「千字文」などの漢籍が日本にもたらされた。特に紀元1世紀に漢文を理解する朝鮮人が大量に海を渡って日本に漢字を広めた。日本で現在に伝わる金石文の一部、例えば1世紀中葉の紀伊隅田八幡神社の銅鏡の銘文、船山古墳の鉄刀の銘文、武蔵埼玉稲荷山古墳の鉄剣の銘文などはいずれも日本の漢文使用を示す早期の資料である。漢字の伝来と伝播は、日本文化史上の重要な出来事である。

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纪伊隅田八蟠神社銅鏡銘文

 漢字は日本に伝わって以降、歴史記録に公式に用いられただけでなく、一般の研究者も書籍の執筆に使用し、当時の日本で唯一の正式な文字となった。8世紀中葉に日本人は楷書体の副次的な文字として片仮名を、草書体の偏旁を使って平仮名を作り、漢字音や日本語音を表記するのに用いた。日本語の平仮名には50文字あり、それぞれに1つの片仮名がある。当時、漢字は男文字、仮名は女文字と言われた。このため、日本では漢字の読み方には訓読みと音読みの2種類があり、前者は日本古来の音で後者は中国から伝わった音である。例えば、李の音読みは「り」で、訓読みは「すもも」である。ただし、音読みは伝来した時代と場所によってさらに漢音、唐音、呉音に分かれる。日本語の呉音の母体は隋代・唐代以前の中国の呉・楚の音である一方、漢音の母体は隋代・唐代の陝西省・河南省一帯の中原音である、呉・楚の音と中原音の違い、さらには時代の違いにより、日本語に呉音と漢音の違いが生まれた。9世紀初以降、日本で「国風文化」が発達すると、ほとんどの書籍は日本文字(仮名)で記述されるようになったが、漢字の使用は明治元年まで続き、一貫して国の公式記録を行う正式な文字として使われてきた。

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懐素和尚「千字文」

 中国から借用した漢字と、平仮名、片仮名が日本の筆記文字を主に構成している。日本語にはこのほかにも造字方法があり、このうちの一種は漢字及びその偏旁を借用して、さらに漢字の造字方法を模倣し、文字を組み合わせて新字を作る方法である。これは一種の模倣漢字であり、日本史では「楼字」または「国字」と呼ばれる。1993年に日本で出版された「国字の字典」には1453文字が収録され、このうち現在も使われている漢字は辻、凪、畑、働、駅など100字あまりがある。

 日本が鎖国を解き欧米諸国と交流を始めて以降、日本語には多くの「舶来語」が混ざるようになった。1866年には前島密が「漢字御廃止之議」を提出して漢字の使用をやめてすべて仮名で表記することを提唱したが、後に福沢諭吉が1873年に「文字之教」で常用漢字を2千~3千字に制限して常用外漢字は使わないよう主張したところ政府に採用された。昭和5年(1930年)ごろ、急進的な教育家が「漢字禁用、漢字廃止」を声高らかに提唱し、漢字の使用を制限して教育効果を高めるよう日本政府に提言すると政府はこれを受け入れ、国民の義務教育期間の教育漢字を850字に制限した。しかし、前島密が1866年に漢字の廃止を提唱してから現在までの約130年の間、漢字は依然として日本語の文章表記で廃止されておらず、後に定めた教育漢字850字では日常の文章を表現しきれなかったため、日本政府はついに「常用漢字表」を公布して1850字を常用漢字に定めた。だが、後に国語審議会が常用漢字を1945字に改めるように提案したことからも、漢字は今もなお、日本に深く根を下ろしていることが分かる。

 2010年4月、日本の文化審議会漢字小委員会は新常用漢字表の最終案を取りまとめ、合計2136字の収録を決定した。それまでの1945字をもとに、「俺」、「岡」、「賂」などの196字を新たに収録したほか、「匁」などの5字を削除した。

3.日本語が漢字にもたらす影響

 両国の文化はこれまで常に、一方向ではなく双方向で影響し合ってきた。それは漢字と日本語においても例外ではない。近代には、中国古来の方法に基づき日本が作った語彙が少なからず中国に伝わった。中国で現在、日常的に使用されている語彙の多く、例えば化粧品、講師、講壇、講習、講演、内閣、憲法、総合、総動員、左翼、作品、座談などがそれに該当する。また、無産階級、社会主義、共産主義、共産党などの政治的な名詞や無線、発電機、蓄電池、乾電池、電圧、電流などの科学技術的な名詞も日本から伝わった。上記の語彙はいずれも日本人が先に作ったものである。

 日本語で言う「熟語」とはすなわち中国で言う「成語」である。日本で常用される熟語は字数により「二字熟語」、「三字熟語」、「四字熟語」に分けられる。二字熟語には「完璧」、「推敲」、「狼籍」、「矛盾」など、中国の古典に由来するものが多い。日本の四字熟語は「一網打尽」、「臥薪嘗胆」、「空前絶後」、「渾然一体」など大部分は中国の四字成語と同じであるが、なかには中国で習慣となっている使い方と異なるものがある。例えば中国では「脱胎換骨」であるが日本では「換骨奪胎」であり、中国では「虎頭蛇尾」であるが日本では「竜頭蛇尾」であり、中国では「牽強附会」であるが日本では「牽強付会」である。

 また、日本では四字熟語であるが中国語では成語と見なさないものに「品行方正」、「試行錯誤」などがある。このことは四字熟語に対する日本人の崇拝の念を表し、漢字四文字でありさえすれば熟語と見なすことを反映している。日本の有名な女流書法家、南鶴渓はかつて、「今から1500年も前に、たった一夜で一千文字の違う漢字を使って250個の熟語を作り出した男性がいたと聞いたら、信じられますか」と語った。南鶴渓の示唆したこの男性はまさに1500年前、中国南朝の梁武帝期に生きた周興嗣であり、250個の「四字熟語」とは「千字文」を指す。この本で使われるのは全て「四字熟語」なので、本に対しても著者に対しても、尊敬の念を抱かない日本人はいないだろう。例えば「千字文」の最初の一文「天地玄黄、宇宙洪荒。日月盈昃、辰宿列張」は、すべて「四字熟語」である。

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清代嘉慶年間「千字文」刻本

4.おわりに

 両国の文化を直接つなぐ絆として漢字は最も重要な文化的媒体であり、漢字があってこそ両国間の文化交流は成立しうる。時代が移り変わり、経済が発展しようと、漢字と日本語は依然として互いに影響し合っている。これはまさに、両者が切っても切れない密接な関係にあることを示している。新たな世紀においても、漢字と日本語は日中文化交流の偉大な歴史的使命を担い、この両者の相互作用によって日中の文化交流はさらなる盛り上がりをみせるに違いない。

陳 葉

陳 葉(Chen Ye):浙江大学古籍研究所

中国浙江省富陽市生まれ
2003.9-2007.6 浙江大学中文系 学士
2007.2-現在 浙江大学古籍研究所 職員
2011.1-現在 浙江大学公共管理学院 修士