【12-02】中日両国の成人儀礼に関する史話
李 暁亮(淄博職業学院図書館講師) 2012年 2月28日
世界の若い男女は成人を迎える際、どの国でも成人儀礼の慣わしがある。成人儀礼とは概ね、少年少女が満18歳の時に行われる、成人を迎えるための通過儀礼である。具体的に見れば、各国それぞれの様式で成人儀礼が行われる。成人儀礼は、古代中国では「冠礼」とも呼ばれ、中華民族の祝賀の礼の一つで、青年男女が一定の年齢に達して性的に成熟し結婚できること、そしてこの日から氏族の成人の一人としてさまざまな活動に参加できることが示される。成人儀礼(中国語で「成丁礼」とも言う)は、氏族の年長者が伝統に則り若者のために行う一定の儀式であり、これを経て初めて成人と認められる。冠礼は原始社会に始まり数千年の歴史がある。漢族の冠礼は中国的な雰囲気にあふれ、漢字文化圏を代表するものである。世界各国の民俗的な成人儀礼の中で、中日両国の成人儀礼が最も血縁関係が近い。本稿では、いくつかの文献を整理しつつ両者の関係を紹介したい。
一、中国の成人儀礼の源流及び発展
冠(笄)礼とは、漢民族の伝統的な成人儀礼であり、漢民族の重要な人文遺産である。十三経の「儀礼」ではこれを最初の「第一礼」に定義し、「礼記」では「夫礼、始于冠」(礼は冠に始まる)、「男子二十、冠而字」(男子は二十で加冠して字をもらう)としている。また、「礼記」の注釈では、「凡人之所以為人者、礼儀也。礼儀之始在于正容体、齊顔色、順辞令......、故冠而後服備、服備而後容体正、顔色齊、辞令順......已冠而字之、成人之道也」(おおよそ人の人なる所以の者は礼儀なり。礼儀の始は容体を正しくし、顔色を齊え、辞令を順にするに在り...而して冠の後に服備わり、而して服備わった後に容体正しく、顔色齊い、辞令順となる...加冠して字をもらうことが、これ成人の道なり)とある。このため、冠礼は、成人の一員となるために男子に冠を授ける儀式であるとともに成人儀礼の代表であり、成人男女の婚姻資格に対する道徳審査でもあった。
「冠」とは、「説文解字」に「弁冕之総名也」(弁冕の総称なり)とある。古代の冠礼は祖廟内で行われた。時期は2月で、冠礼の10日前に受冠者はまず吉日を占い、10日以内に吉日がない場合は次の周期の吉日を占い、近親者や友人に知らせる。冠礼3日前になると再び占いで冠礼を主宰する大賓を決め、さらに冠礼の介助を行う「賛冠」者を1人選ぶ。儀礼の際は、主人(一般に受冠者の父が務める)、大賓、受冠者はみな式服に身を包み、最初に緇布冠、次に皮弁の冠、最後に爵弁の冠を授ける。加冠のたびに、大賓が受冠者に対し祝辞を読む。
中国の冠礼復元図
歴代帝王にとって、冠礼には特別な意味があった。「大戴礼記・公冠編」には、「公冠四加、三同士、後加玄冕。天子亦四加、後加衮冕」とある。周代には嫡出子の長男による継承制が実施され、在位中に王が逝去すると、嫡出子の長男は年齢にかかわらず即位が認められたが、未成年の場合は冠礼を経ても執政は認められなかった。周成王は幼くして武王の位を継いだが、成人を迎えるまでは周公が摂政を行った。上は天子から下は武士・庶民まで、冠礼は「成人之資(成人の資格)」であり、冠礼を行わない限り「不可治人也(人を治めるべからず)」とあった。
「儀礼・士冠礼」によれば、周代の冠礼は二十歳で行われ、三加の最初の緇布冠は人を治める事務にかかわること、すなわち人治権を持つことを象徴した。緇布冠は太古の制度であり、冠礼で真っ先に緇布冠を冠すことは初心を忘れないことを意味する。次に皮弁を加えるのは兵事への介入・兵権の所有を象徴したことから、往々にして同時に剣が与えられた。そして、三番目に爵弁が加えられたのは祭祀権の所有、すなわち社会で最高の地位を意味した。周代の皇帝、諸侯、大夫等の冠礼は、階級ごとに異なる様式で行われた。「大戴礼」には、「公冠四加、三同士、後加玄冕。天子亦四加、後加衮冕」とあった。
冠礼における加冠の儀式
漢代、冠礼は非常に重視され、皇帝の冠礼は「元服を加える」と称された。漢の恵帝は冠礼を行った際に「天下大赦」を宣言し、帝王が冠礼を行う際の天下大赦の始まりとなった。魏晋代には、皇帝の冠礼は正殿で行われ、音楽伴奏が始まった。南北朝以降、冠礼は一時期途絶えたが、隋唐代に漢族の家族儀礼が復活し、唐代には天子、皇太子、親王、品官の各階級向けの冠礼が定められた。漢代以降、数百年の激動を経て、冠礼は明らかに衰退した。柳宗元は「答韋中立論師道書」で、「冠礼は、この数百年行われていない」と語っている。
宋代に一部の士大夫が仏教文化による大衆への強いインパクトを痛感し、冠礼、婚礼、葬儀、祭祀等の儀式を社会全体で復活させることで儒教文化の伝統を発揚することを主張した。司馬光は、「冠礼之廃久矣。近世以来、人情尤為軽薄、生子猶飲乳。已加巾帽、有官者或為之制公服而弄之。過十歳猶総角者蓋鮮矣」と声を大にして唱えた。冠礼の廃止により人の情が軽視されるようになり、幼き者から年寄りまで皆が成人の道を知らないことが深刻な社会問題を引き起こしていると彼は考えた。このため、司馬光は「書儀」の中に冠礼の儀式を定め、父母が喪に服していない限りは、男子は十二歳から二十歳の間に冠礼を行っても良いこととした。
元明代になると、冠礼は民間で盛んに行われるようになった。「元之五礼、皆以国俗行之、惟祭祀稍稽諸古」とされ、宮廷では冠礼が行われなかったが、民間では維持された。それまで廃れていた古代中国の儀礼制度も明代には急速に回復し、冠礼は2度目の復活を果たした。明洪武元年の詔書では、皇帝から皇太子、皇子、品官、そして下は庶人に至るまで、それぞれの冠礼儀礼文が制定された。明代には総じて、冠礼が盛んに行われた。
清軍が入城すると、古代中国の衣冠文化は再び未曾有の破壊を受け、冠礼は南北朝以降、2回目となる長期停滞期を迎えた。清初の剃髪易服政策により古代中国からの衣冠文化の文化的土壌が破壊され、衣冠・髪型とも途絶えたことは、民族の恥となった。特に、「老従少不従」により、清代初期、幼児はまだ漢族の髪型を保ち、童子服を身につけることが許され、成人の際は何とか冠礼を行うことができたが、冠礼の日がそのまま剃髪の時となり、漢民族は数千年続いた加冠儀礼に別れを告げなければならなかった。近代に入ると西洋の風潮が徐々に東方に伝わったため、西洋化思想による影響で冠礼は中国人から完全に忘れ去られてしまった。今では、冠礼とは何か、中国社会では全く知られていない。
男子の冠礼に対し、女子の成人式は笄礼、または加笄とも呼ばれる。俗には「上頭」、「上頭礼」とも呼ばれ、古代中国の祝い事の一つであった。15歳になると行われ、家長が女児の髪をまとめ上げかんざしを指す。髪型を変えることは少女時代の終わりを意味し、嫁入りが許される。周代以降、貴族の女子は婚約後から結婚までの間に笄礼を行うとされた。笄礼は一般には15歳で行われたが、長らく婚約が成立しないと20歳で行われた。笄とはかんざしを指す。周代以降、女子は15歳を過ぎ、婚約済の場合は笄礼を行い、髪を頭のてっぺんにまとめあげてかんざしを挿して固定することで、成人の一員に属すことを示さなければならなかった。笄礼は女子の成人儀礼として、男子の冠礼と同様、成人の仲間入りをしたことを示す儀式であり、儀式の手順等は冠礼と概ね同じであった。
笄礼の冠服には、冠笄と褙子が用いられ、受笄者の最初の髪型は双紒(揚巻)、服装は衫子(ひとえの服)であった。受笄とは、すなわち笄礼の際に幼年時代からの髪型を変えて一つのまげにまとめ、黒い布で包んでかんざしを挿せるようにすることである。笄礼の主宰者は女性の家長で、招かれた女賓が加笄することで、女子は成人し結婚が許される。貴族の女子は受笄後、一般に帝王の宮殿または宗室で成人教育を受け、「婦徳、婦容、婦功、婦言」や、嫁としての人との付き合い方や舅姑への仕え方等の品得礼儀及び針仕事などの女の手仕事を教わった。女子は十五で「及笄」と言われた。「儀礼・士婚礼」には、「女子許嫁、笄而礼之、称字」とある。また、「礼記・内則」には、「女子......十有五年而笄」とある。笄礼では主に3つの手順を経て加笄される。
笄礼における加笄の儀式
清華大学歴史学部教授の彭林氏によれば、古人が成人を迎える若い男女にこのような儀式を行った目的は、冠(笄)礼を受ける者がこの日以降、家庭の中で何の責任も持たなかった「子供」から正式に大人社会の仲間入りをし、孝、悌、忠、順という徳行を実践しさえすれば社会でさまざまな役目を充分に果たし得ることを示すためであり、これを経て初めて、社会の構成員としての要件を満たすと考えられた。このため、冠礼とは、「成人儀礼を以て人としての儀礼を求める」ためのものであった。
中国社会が今日の発展を迎えられたのは、民族の文化や風格、精神性を継承し得る多くの伝統をさまざまな原因によって失ったことによるものであり、「冠礼」もその一つである。文明の継承者として、我々は文明や伝統を尊重し、過去の文明から合理的な核心部分をくみ取った上で、伝統的な「冠礼」に新しい時代の精神を注ぎ込む必要がある。若者の責任感や仁義、孝廉を正面から激励することを基本に、愛国、進歩、理性、奮闘等、若者の持つべき精神性を、いかに伝統的な冠(笄)礼の中で啓発していくかについて、我々はより適切な方法を積極的に探し求めなければならない。
二、日本の成人式の起源及び発展
日本の成人式の起源は古代の成人儀礼にあり、中国の「冠礼」に影響を受けている。いわゆる「冠礼」とは、男子が成人を迎える際、冠を授けられる儀式である。冠を受けた者はその日を境に、社会から成人として認められる。現存する文献によれば、日本は中国の古いしきたりに倣い、天武天皇11年(682年)に加冠制度を始めた。古代中国の陰陽学に基づき、「冠礼」の日は甲子、丙寅の吉日が多く選ばれ、特に正月が大吉とされた。しかし、現代の成人式とは形式や内容が大きく異なり、強い迷信的色彩を帯びていた。
「礼記・冠義」編では「冠礼は儀礼の開始である」という観念について系統的に述べられている。これによれば、「凡人之所以為人者、礼儀也。礼儀之始在于正容体、齊顔色、順辞令。容体正、顔色齊、辞令順、而後礼儀備。以正君臣、親父子、和長幼、君臣正、父子親、長幼和、而后礼儀立。故冠而後服備、服備而後容体正、顔色齊、辞令順、故曰:冠者礼之始也」(おおよそ人の人なる所以の者は礼儀なり。礼儀の始は容体を正しくし、顔色を齊え、辞令を順にするに在り。容体を正しくし、顔色を齊え、辞令を順にせば、而して礼儀備わる。君臣を正しくし、父子が親しみ、長幼和せば、而して礼儀立つ。故に冠の後に服備わり、服備わった後に容体正しく、顔色齊い、辞令順となる。故に、冠は礼の始なり)。「周礼」及び古代の習慣に基づけば、概ね15歳前後、遅くとも20歳までに笄礼が行われた。時代の変化や笄礼の意義の変化、女子も男子と同様に学業を修めることに鑑みれば、時期は高校卒業の18歳とするのが適切だろう。旧暦3月3日の雛祭り(上巳節)は2000年以上前に始まった古代中国の節句であるが、現在では日本と韓国にしか残っていない。「雛祭り」は現在では、日本の5大節句の一つである。
1948年、日本政府は民間の風俗習慣に基づき、満20歳になったら「成人式」を行うべきことを決定した。その起源は古代中国の冠礼儀式にあるが、簡略化され現代的気風に満ちており、古代儀礼と時代精神の完全なる融合を実現している。成人式の目的は、自らが社会の正式な一員であることを若者に認識させるためと日本人は認識している。満20歳の若者は成人式当日、伝統衣装に身を包み、政府または民間団体の主催する成人式に参加し、宣誓を行い、年長者から祝福を受け、神社に参拝し、伝統的な催しに参加する。この日以降、彼らは喫煙、飲酒、結婚が許される一方、法に違反した場合は全責任を負わされる。
1999年末、日本政府は2000年から成人式の日程を毎年1月第二月曜日に変更することを宣言した。このため、毎年1月第二月曜日に日本では成人式が行われ、彼らはこの日、伝統衣装を着て神社に参拝し、神や祖先の庇護に感謝するとともに、その後も「面倒を見てもらえるよう」祈念する。この日は日本で最も重要な節句の一つとなっている。また、この日は全国的に休日となり、満20歳になった若者に各地で祝賀の儀式が行われる。新聞社や大学、企業などの団体がさまざまなセミナーやシンポジウム、講演会、茶話会を開き、若者は自らの主張や理想を述べる。さらに、各地の郵便局では成人式を迎えた若者の喜びの報告に際し、無料の長距離電話サービスを提供する。なかには華やかな和服を着て神社に参拝し、神と祖先の庇護に感謝する者もいる。この日は、日本が国として定める12の祝日の一つである。
日本の成人式で伝統の和服に身を包む少女たち
日本の成人式の起源は古代中国の「弱冠」の儀式にある。この日、成人式を迎えた若者は自分の願いを木製の札に書いて神宮の東家(あずまや)に架けることができる。この札は「絵馬」と呼ばれている。現代の日本の感覚では、成人式とはその日から大人になることを表し、以後独立して生活し、社会の責任と義務を担わなければならない。成人式は日本で非常に重視されているため、この日は祝賀行事が行われる。かつて、祝賀行事は家庭だけで行われていたが、今では会社や学校、または公共施設で祝うことが多い。この日、満20歳を迎えた若者の両親や同僚、上司、同級生、親戚や友人たちは彼らに祝意を表し、祝いの品を贈る。また、若者は当事者として感謝の意を表し、将来の計画や夢を語る。
日本の成人式で幸福を祈る様子
成人式当日、明治神宮の入り口は和服に身を包んだ若い女性や仲間と連れ立った若い男性で混み合い、神宮内の広場には儀式に参加する若者が集まる。この特別な日に多くの女性は伝統的な和服を着るが、挙動はいささかおかしい。赤い和服を着て頭に花飾りをつけた女の子がタバコを手に男友達と盛んに吸う姿もある。彼らは楽しそうに笑い、周囲の目を全く気にしない。
日本の成人式の起源は古代中国の冠礼にあるが、成人を祝福する日本のこの儀礼は大いに異彩を放っている。古代中国の伝統を継承しているだが、当の中国ではこの祭日は徐々に知られなくなっている。成人式が日本で残っているのは中国人にとって喜びであり、漢字文化圏の強い生命力を表現するものである。しかし、この儀礼が中国で没落の一途をたどっていることは中国人研究者と民衆にとり再考に値するだろう。
李暁亮(LI Xiaoliang):淄博職業学院図書館 講師
中国山東省淄博市生まれ
1999年9月--2003年6月 山東理工大学文学院 学士
2003年7月--2008年8月 淄博職業学院音楽出演系 助手
2008年9月-- 淄博職業学院図書館 講師