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【12-06】中国と日本の海上交流史

朱 国巧(山東金星書業文化発展有限公司 編集者)     2012年 6月26日

 中日両国間の海上交流は、春秋戦国時代まで遡ることができる。中国からは青銅器や鉄器等の道具だけでなく、水稲等の作物の栽培技術が日本に伝わった。金属製の道具と農耕は、日本の弥生文化の二つの大きな特徴である。道具と技術の伝来によって、日本は縄文文化から弥生文化(紀元前200年代から紀元300年代)に移った。戦国時代の銅剣や燕の国の貨幣、明刀銭は、日本で発見されている。 

 中日海上交流で最も有名な出来事は、徐福伝説と考えられる。

 徐福は戦国時代末期の斉の国の方士である。方士は、錬丹術、医術、占星術、航海術等の技に長けていた。燕や斉の国の方士は、航海技術を持ち、帝王から特別な使命を与えられていた。

 紀元前219年、秦の始皇帝が山東省沿海部の琅琊(現在の諸城市東南部)に東遊した際、徐福は始皇帝に対し、童男童女と共に不老不死の薬を探しに行かせてほしい、と訴えた。結果的には、多額の費用がかかっただけで、不老不死の薬を入手することはできなかった。

 紀元前210年、始皇帝が再び琅琊を巡幸した際、徐福は処罰を恐れ、海に大きなサメがいて、行く手を阻まれたために、薬は入手できなかったと嘘をつき、石弓に優れた射手の増派を求めた。結局、徐福は和歌山県まで航海した。徐福と彼の船隊は、北九州の大島に渡った後、瀬戸内海に入り、紀伊半島に到着した、という。

 和歌山県の史跡名所誌によれば、秦代の徐福の墓は新宮にあった。「秦徐福之墓」と刻まれた石碑があり、秦の始皇帝の時代に、徐福は童男童女五百人を率いて、五穀の種と農耕具を携えて日本に渡り、熊野に上陸し、農耕に従事し、男女を育て、子孫は熊野の長となり、平和に暮らした、と記されている。

 徐福の渡日には多くの言い伝えが含まれ、文献から完全な証拠を得ることはできない。「後漢書 光武帝紀」によれば、建武中元2(57)年に倭の奴の国王が漢に使者を送った。これが、中国の歴史書に残る最初の正式な中日往来の記録である。「光武、印綬を以て賜う」という記録もある。江戸時代、福岡県志賀島で、「漢委奴国王」と刻まれた金印が出土している。

 三国・南北朝時代も、中日両国の海上交流は進展した。黄龍2(230)年には孫権が衛温と諸葛直に命じ、一万の兵を連れて夷州と亶州の探索を行わせた。亶州は海の彼方にあり、長老の言い伝えによると、秦の始皇帝は徐福に命じて、童男童女数千人を率いて蓬莱神山と仙薬を探しに行かせたが、徐福は当地に留まり、戻らなかった、という。亶州は日本のことという説がある。

 特筆に値するのは、唐代の中日間の海上文化交流である。貞観年間から唐代末期までに日本が中国に送った遣唐使は、入唐した遣唐使だけで13回に達した(1回は百済までしか行けなかった)。

 このほか、1回は「遣唐使を迎える」ために唐朝に派遣され(遣唐使が久しく帰国しなかったため、使節団を送って迎えに行かせた)、2回は「唐への帰国使節団」(唐朝への特使)が送られた。使節団の中には多数の留学生や留学僧がいた。中国人も相次いで日本に渡ったが、貢献が最も大きかったのは鑑真和上だった。

 鑑真は俗姓を淳于といい、垂拱4(688)年に生まれ、宝応2(763)年に没した。揚州江陽県(現在の江蘇省揚州)の出身で、14歳で揚州大雲寺に入り、高名な智満禅師について仏門に入った。その後、仏教経典の研鑽を続け、律宗を研究した。

 733年、鑑真は長江・淮河一帯の授戒大師とたたえられ、一宗派の宗首となった。開元元(713)年、鑑真は揚州大明寺に戻った。彼の説法を聞き、弟子は4万人以上に上った。

 開元21(733)年、日本は9回目の遣唐使を送った。この時、唐に渡った日本の留学僧の栄叡と普照は聖武天皇の命を受け、鑑真に日本に渡るよう要請した。天宝元(742)年10月に、栄叡と普照は揚州大明寺を訪れて鑑真に拝謁し、高僧の日本への派遣を要請した。鑑真の渡日の試みは6回に達した。

 1回目は鑑真と弟子の祥彦等ら21人が揚州から出発しようとしたところ、官吏の干渉によって失敗に終わった。2回目は強風によって船が破損し、修復のために戻らざるを得なかった。3回目は出航に成功し、舟山市沿海まで到達したが、座礁によって失敗した。

 744年には、鑑真は福州からの出航を目指したが、温州に向かう途中で、官吏の追及に遭い、揚州に強制的に戻されたため、4回目の旅も失敗に終わった。

 748年6月27日、鑑真は5回目の渡日を試みたが、台風に遭い、14日間、海で漂流した後、海南島南端の崖県に到着した。弟子の祥彦と日本人僧侶の栄叡が相次いで世を去り、鑑真自身も熱病にかかり、両目を失明した。

 天宝12(753)年10月15日、10回目の遣唐使の帰国前夜、遣唐大使の藤原清河、副使の吉備真備、大伴古麻呂、唐に長年仕えていた留学生の阿倍仲麻呂(漢名は晁衡)らは揚州の延光寺を訪れ、鑑真に謁見した。

 この時、藤原大使が仏教伝授のため、共に日本に渡るよう鑑真に求めたところ、鑑真は66歳の高齢で両目を失明していたにもかかわらず、日本側の要請を喜んで受け入れた。

 その後、苦難や危険を乗り越え、沖縄、多禰島(現在の種子島)、益救島(現在の屋久島)等を経由して、最終的に薩摩の国の阿多郡秋妻屋浦(現在の鹿児島県)に到着した。

 12月26日、鑑真一行は日本人僧侶の延慶の導きで大宰府に入り、翌754年2月1日には遣唐使船の出発港、難波(現在の大阪の付近)に到着した。2月4日、鑑真は日本の都、奈良に到着し、国を挙げての盛大な歓迎を受けた。

 3月、吉備真備は勅使の身分により、天皇の詔を鑑真に伝えた。4月初旬には東大寺に戒壇を設けられ、鑑真は、聖武天皇や僧侶400人余りに授戒を行った。

 756年、孝謙天皇は鑑真を大僧都の位に任じた。758年には、大和上の位が与えられ、広く敬慕されるようになった。

 759年,鑑真は弟子を率い、揚州の大明寺を模して唐招提寺を建てた。鑑真の弟子、思託らからの委託を受け、奈良時代の有名な文学者、真人元開は「唐大和上東征伝」で鑑真が6回に渡って渡日を試みた経験を詳しく著した。763年、鑑真は日本の唐招提寺内で円寂した。寺院内には鑑真の座像が残され、日本の国宝となっている。

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朱 国巧

朱 国巧(ZHU Guoqiao):山東金星書業文化発展有限公司 編集者

中国山東省聊城市生まれ
2002.9-07.6 聊城大学 学士
07.9-09.8 山東省図書館 館員
09.9-現在 山東金星書業文化発展有限公司 編集者