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【12-09】「玉燭宝典」に記載された日本の祭日

朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員)     2012年 9月26日

 以前、この欄に寄稿した「『玉燭宝典』秘話」の中で、「玉燭宝典」と日本文化との関係について指摘した。本文では、「玉燭宝典」に記された日本の祭日について紹介し、その関連性を分析してみたい。

 まずは新年である。日本の習慣に照らせば、大晦日の前に大掃除を行い、玄関にミカンの付いた注連縄(しめなわ)を飾り、門には門松を立てて、新年を祝う(現在は、印刷した絵を張るだけで済ませることもある)。

 大晦日の夜には、家族全員が集まり、年越しそばを食べ、除夜の鐘を聞きながら年を越す。こうした習慣は、魏・晋・南北朝の時代に、中国から日本に伝わっていたものだが、こうした祭日は、独自の形成過程がある。「礼記・月令」には「天子乃以元日祈穀於上帝」(大意:天子が元日に五穀豊穣を祈る)との記載がある。

 「玉燭宝典」は、裴玄の「新言」を引用し、「正旦、県官煞羊、県其頭于門、又磔鶏以副之、俗説以厭厲気。玄以問河南伏君、伏君曰、是月土気上昇、草木萌動、羊噛百草、鶏啄五穀、故煞之以助生気」(大意:元旦に、県官が羊を殺し、その頭を門に掲げ、鶏を磔[はりつけ]にする)と記している。

 また、「括地図」を引用し、「桃都山有大桃樹、盤屈三千里、上有金鶏」(大意:桃都山に大きな桃の木があり、三千里にわたって根を張り、その上に金鶏がいる)と記載されている。さらに、「玄中記」を引いて、「併執葦索、以伺不祥之鬼、得而煞之」(大意:葦の索を執って、不祥の鬼を伺い、得れば、これを殺す)と記す。また、同じ「玄中記」を引用して、「今人正朔作両桃人立門旁、以雄鶏毛置索中」(大意:元日に二つの桃の枝を門の傍ら立て、雄鶏の毛を索の中間に置く)と記載している。

 杜台卿は「黄帝書」に基づき、「上古之時、有荼与鬱塁、昆苐二人、性能執鬼、住度朔山上桃樹上下、蕳閲百鬼。鬼無理、妄為人禍、荼与鬱塁執以食虎。懸官常以腊除夕飾桃人、垂葦茭、画虎于門。畏獣之声、有如嚗竹」(大意:古代、神荼と鬱塁という兄弟の神がいて、鬼を捕まえることができた。度朔山上の桃の木の下に住み、百鬼を監視した。鬼が理由もなく、人に災いを及ぼすと、神荼と鬱塁は、捕まえて虎に食わせた。県官は大晦日に桃の枝を飾り、葦索を垂らし、虎の絵を門に描く。皆、前事に倣った)と指摘している。これは、日本の注連縄飾りや松竹梅を飾る習慣の由来である。厄除けの道具が、注連縄、松竹梅に代わったものであり、中国の祭日の日本化でもある。

 「玉燭宝典」は「荊楚歳時記」を引用し、「先于庭前嚗竹、以辟山臊悪鬼、帖画鶏......金金鏤五彩及土鶏于戸上」(大意:まず庭で爆竹を鳴らし、山臊の悪鬼をさける。鶏の絵を張る...」と記載している。「荘子」は「懸葦灰于其上、挿桃其旁、連灰其下、而鬼畏之」(大意:葦をその上に懸け、桃符[魔除け]をその傍にはさむ。百鬼、これを畏る)と記している。

 次に、3月3日のひな祭りである。桃の節句とも呼ばれる女の子の節句だ。3月3日は春間近の季節で、年に一度、女の子の幸せと健康、成長を祈る。家庭では、宮廷装束に身を包んだ人形と桃の花が飾られ、ひし餅が供えられる。

 ひな祭りは、古代の禊(みそぎ)に由来する。罪や穢れは水辺で行う禊の儀式によって清められる、と人々は信じてきた。その後、こうした儀式に紙の人形が用いられるようになった。江戸時代(1600-1868)以降、現在のひな人形が形作られた。

 「玉燭宝典」は、「風土記」を引用し、「寿星乗次元巳、首辰祓丑虞之遐穢、濯東朝之清川」(大意:旧暦3月3日の朝、穢れを祓い、清水で清める)と記載。注釈として、「漢末、郭虞以三月上辰上巳生三女并亡、時俗迨今、以為大忌、是日皆適東流水上、祈祓潔濯」(大意:漢末、郭虞は旧暦3月に三女を生んだが、皆亡くなり、禁忌となった。この日は水上で禊をした)とある。これが禊の由来である。

 三つ目は5月5日の端午の節句である。目加田誠は「屈原」の序文で、次のように指摘している。5月は「悪月」、端午は「悪日」とされる。戦国時代、孟嘗君(斉の人、姓は田、諱は文)は5月5日生まれで、この日が悪日だったため、冷遇された、という故事が、「史記」に記載されている。その後、史書では5月5日生まれの人を不吉とする記載が見られるようになった。目加田は、幼少時代に、瀬戸内海の海岸で、友人と舟遊びをしていたとき、友人が「5月5日生まれはいるか? もしいたら、水竜王に水の中へ引きずり込まれるぞ」と言ったことをおぼろげに覚えている。瀬戸内海沿岸の一部地域では、3日3日に弁当を持って海辺や山に遊びにいく習慣があるが、中国の風習「登高」(9月9日の重陽の節句に高いところに登る)と似ている。5月5日の水神の話も、中国から伝わったものかもしれない、という。

 「玉燭宝典」は、陸翽の「鄴中記」を引用し、「俗人以介子推五月五日焼死、世人甚忌、故不挙火食、非也。北方五月五日自作飲食、祠神廟、及五色縷、五色花相問遺、不為子推也」(大意:介子推[春秋時代の晋の文公=重耳=の臣下]が5月5日に焼死したとして、人々は忌み嫌い、火食をとらない。北方の5月5日は食事を自ら作り、神を祭る)と記している。

 また、「荊楚歳時記」を引用して、「民斬新竹笋為筒糉、練葉挿頭、五彩縷、投江、以為辟水厄、士女或取練葉挿頭彩絲系臂、謂為長命縷」(大意:民は新しい筍を切って筒ごはんとし、栴檀の葉で筒の口を塞ぎ、河へ投げ、水厄をさける)と記す。さらに、「風俗通」を引用して、「夏至五月五日、着五彩辟兵、題野鬼遊光。俗説、五彩以厭五兵。遊光、厲鬼、知其名、令人不病疫温」(大意:5月5日、五色の糸を身につけ、兵災をさけ、「野鬼遊光」と題す)と記載している。「続漢・礼儀志」には、「夏至、陰気萌作、恐物不楙、其礼、以朱索連葷菜、錘以桃卯、長六寸、方三寸、以施門戸、代以所尚為餳、漢并用之、故以五月五日朱索五色、即為門戸餝、以難止悪気」(大意:夏至は陰の気が生じ、万物が育たず。5月5日は五色の縄を門に掛けて邪気を払う)とある。

 四つ目は、7月7日の七夕である。銀河によって織姫と彦星は年に一度、7月7日にだけ再会することができる。ある説によると、日本の七夕は、聖武天皇の天平6(734)年に始まり、詩や願い事を記した色紙を笹の枝につるした。日本で最も有名な七夕祭りは、京都の北野天満宮、香川の金刀比羅宮、神奈川県平塚市、富山県高岡市などである。仙台では8月7日に催される。

 「玉燭宝典」には、傅玄の「擬天問」を引用して、「七月七日、牽牛織女会天河」(7月7日、彦星と織姫は天の河で会う」と記され、「風土記」を引用して「夷則応履曲、七斉河鼓礼」(大意:夷人は木靴をはいて、七夕節に川辺に集まり、太鼓をたたいて儀式を行う)と記載されている。

 注釈として、「七月俗重是日、其夜洒掃于庭、露施机筵、設酒脯時果、散香粉于筵上、熒重為稲、祈請于河鼓、織女、言此二星神当会、守夜者咸懐私願。或云、見天漢中有奕奕正白気、如地河之波瀁而輝輝有光耀五色、以此為征応、見者便拝而願乞、富乞寿、无子乞子、唯得乞一、不得兼求、見者三年乃得言之。或云頗有受其祚者」(大意:7月7日は庭を掃除し、筵を敷き、席を設け、酒や乾物、果物を供え、香を焚き、彦星と織姫に祈る。白い気が現れて川面が輝き、五色に光る。牽牛、織女が姿を現した証拠で、これを見た者はお祈りする。富か、長寿か、子供か、ひとつだけ願うことができる)と記す。

 また、「荊楚歳時記」を引用し、「南方人家、婦女結彩縷、穿七孔針、或金銀鍮石為針、設瓜果于中庭以乞巧。有憘子網其瓜上、則以為得」(大意:南方では、女性が瓜を庭に並べ、織女に針仕事の上達を願った。瓜の上に蜘蛛が糸を張れば、願い事がかなう)との記載がある。また、王叔之の「七日詩序」を引用し、「咏言之次、及牛女之事、亦烏識其然否、直情人多感、遂為之文」と記している。

 最後は、お盆である。お盆は年に一度、祖先の霊を迎え、慰める日。伝統的には、盆は旧暦7月17日。現在は、新暦7月13~15日に墓参りする人もいるが、8月13~15日が一般的である。13日には「迎え火」をたき、16日に「送り火」をたく。

 「玉燭宝典」は「盂蘭盆経」を引用し、「大目健連見其亡母生餓鬼中、皮骨連柱、目連悲哀、即鉢盛餅往餉其母、食未入口、化成火炭、遂不得食、目連大叫、馳還、白仏。仏言、汝母罪根深重、非汝一人力所奈何、当須十方衆僧威神之力、吾今当説救済之法。仏告目連、七月十五日、当為七世父母厄難中者、具飯、百味五果、尽世甘美以着盆中、供養十方大徳、仏勑十方衆僧皆為施主家呪願七世父母、行禅定意、然後受食。初受盆時、先安仏塔前、衆僧呪願竟、便自受食。是時目連其母即于是日、得脱一切餓鬼之苦。目連白仏、未来世仏弟子行孝順者、亦応奉盂蘭盆供養。仏言、大善」(大意:目連[釈迦の弟子]は、餓鬼道に堕ちた亡き母を見つけた。やせ細っていたので、食事を与えようとしたが、口に入れる前に燃えて、食べることができない。目連が釈尊に報告すると、釈尊は「七月十五日、祖先から父母に至るまで、厄難中の者のためにお供えしなさい。十方の衆僧は、施主の家のために祖先の幸せを祈り、坐禅をして心を定め、その後に供物を食べよ」と言った。こうして目連の母は飢餓の苦しみから逃れることができた)と記載している。杜台卿は「故今世因此広為花飾、乃至刻木剖竹......摸華葉之形、極工巧之妙」と指摘している。盂蘭盆と仏教の興隆は直接的な関係があることが分かる。

 これまで列挙してきた祭日は、古代の祭日における日中両国の共通点が反映されている。こうした祭日の習俗が日本に伝わった後、日本人は、古来の習俗と結合させ、手を加え、一新させることによって、現代の祭日が形作られた。

 (筆者注:本文は住友財団2011年度「アジア諸国における日本関連研究助成」課題「日本図書館所蔵の中国での伝承が絶えた古書『玉燭宝典』の収集と研究」の成果の一つである。)

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朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学系 助理研究員

中国山東省聊城市生まれ。
2003年9月~06年6月 山東大学文史哲研究院 修士
2007年9月~10年9月 浙江大学古籍研究院 博士
(2009年9月~10年9月)早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010年11月~現在 浙江大学哲学系 助理研究員
2011年11月~現在 浙江大学博士後(ポスドク)聯誼会 副理事長