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【12-10】日本の道教について

朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員)     2012年10月23日

 周知のように5月5日の端午の節句は、中国でも日本でも、粽(ちまき)を食べ、邪気を払う。7月7日の七夕には、願い事を書いた短冊を笹に飾る。こうした節句は、両国の季節と関係があるだけでなく、さらに重要なことは、中国の道教の祭日と大きなかかわりがある。道教は中国生まれだが、日本の道教とはどのようなつながりがあるのだろうか。本稿では、日中両国の道教について、簡単に整理したい。

 中国の道教が日本に伝わったのかどうか、には論争があるが、中国の道教が日本の社会生活や神道に大きな影響を与えたことは間違いない。日本の神道には、伊勢神宮の儀式には、五色の絹と人形が奉納されるが、これは中国道教の研究家・葛洪の『抱朴子』内篇巻「登渉篇」の記述と一致する。

 中国道教が日本に伝わったかどうかについて、日本の学界では見解が二つに分かれている。一つは、古代の政府が道教の伝来を拒絶したとする見方で、淡海三船『唐大和上東征伝』や『古事類苑』、『群書類従』に明記されている。(福井文雅「道教研究在日本」『文史知識』1996年第5期参照)。

 もう一つは、宗教としての道教を体系づける教典や道士、道観などは日本に伝わらなかったとする見方だが、この点を裏付ける史料は見つかっていない。ただ、道教が思想として日本に影響を与えたことは、否定しがたい事実である(千田稔「中国道教在日本」『文史知識』1997年第2期参照)。

 駒澤大学の中村璋八教授は『道教』第3巻『道教の伝播』の「日本の道教」の中で、以下のように指摘している。道観の建立や道士の布教などをともなう教団道教は、全く渡来しなかったと考えられる。しかし、日本には、すでに紀元前2世紀頃から朝鮮半島を経て中国の漢字によって表現される文化の波が押し寄せていたし、また、五世紀前後(応神、仁徳の頃)にも、多数の半島を中心とする地域から、さらに中国揚子江デルタ地域からの帰化人が、大陸の文化を携えて渡来している。

 日本の道教思想はどのように成立したのだろうか。『日本書記』の推古天皇(6世紀前半)に関する記述には、以下のような記述がある。百済の僧侶がかつて天文、地理、遁甲方術に関する書物を日本に伝えた。渡来僧は、道教の素養もあった。ここから、日本の仏教は当初、事実上、仏教と道教が混在した状態にあったことが見て取れ、この見解は学界でも広く受け入れられている。

 例を挙げると、9世紀に始まった庚申信仰は道教に由来する。道教の言い伝えでは、庚申の日に眠ると、人の体内にいる三尸(さんし)という虫が天に昇り、その罪科を司命神に告げるが、この日眠らなければ安寧にすごせる。この風習は、まず宮廷内で流行り、その後民間に広まり、仏教と結び付いて親しまれるようになった。

 日本の都市では、さまざまな形で道教の足跡がうかがえる。製薬会社が集まる大阪市の道修町には、医薬と農耕を司る「神農」が祭られている。長崎、神戸、横浜などに建てられた関帝廟からも、民間道教とのつながりが見て取れる。長崎では、17~18世紀に興福寺、崇福寺、福済寺、聖福寺などが次々と建てられた。各寺には関羽を祭る本殿がある。横浜の中華街にも関帝廟があり、1990年8月14日に再建された。毎年、元旦と春節(旧暦の正月)になると、数多くの華人・華僑が参拝する。神戸には明治時代に建てられた関帝廟があり、戦前は日本の黄檗宗に属し、廟には関帝が祭られていた。戦後は日本天台宗に帰属。関帝のほか、観音と媽祖(航海の女神)が祭られている。

 道教研究が日本で進展するに伴い、1950~80年代末、以下七つの研究機関が設立された。

(1)第一日本道教学会:初代会長の福井康順(1898~1992年)をはじめとする4人の呼びかけで1950年10月18日に東京で設立された。

(2)泰山文物社:1964年に設立し、『中国学誌』を創刊。この雑誌は、海外在住の中国人による中国文化に関する論文・著作の発表を後押しするために発行されたものだが、日中両国学界のつながりを図るため、日本人学者の論文・著作も掲載されている。年1回発行。中国の文学、芸術、思想、宗教、その他社会科学、自然科学、とりわけ民俗の論文が掲載された。

(3)道教談話会:1976年に山田利明氏と福井文雅氏の呼びかけで設立。道教研究の総括が趣旨。福井康順、山崎宏、木村英一、酒井忠夫ら4氏が監修した『道教』(全3巻、平河出版社)を出版した。

(4)道教文化研究会:1983年に福井文雅氏が『敦煌と中国道教』(『敦煌講座』第4巻)を大東出版社から出版した。同年秋、東京と京都で行われた第31回国際アジア・北アフリカ人文科学会議では、「東アジア・東南アジア における儒教と道教」をテーマとした分科会が行われ、金谷治、本多済、福井文雅の3氏が組織した。1984年、若手学者が東京で「道教文化研究会」を設立。石田憲司、田中文雅、前田繁樹の3氏が中心となり、新たな道教研究者も呼び込み、研究課題の範囲や深さがさらに増した。

(5)早稲田大学東洋哲学会:1985年設立。東洋の思想・宗教の研究とその成果の交流に努めることを目的とする。雑誌『東洋の思想と宗教』を出版。菅原信海が会長を務め、今枝二郎氏、楠山春樹氏、小林正美氏、坂出祥伸氏、中村璋八氏、福井文雅氏など道教研究の大家が参加した。

(6)中国古代養生思想研究会:1985年設立。当初は文部省科学研究費補助金(1986~1987年、中国古代養生思想の研究)を受けていた。具体的な課題は、出土した古文字医書の確定、医学古典における養生説と先秦から魏晋南北朝までの養生思想の整理で、さらに以下2つのチームに分けられた。

 ①医薬書研究チーム:リーダーは江村治樹氏。メンバーは12人。課題は竹簡・帛書(はくしょ)、馬王堆漢墓から出土した医書、『黄帝内経』、『千金方』など医学古典・善本および明清養生書籍の整理・研究。

 ②道教文献研究チーム:リーダーは麦谷邦夫氏。メンバーは13人。課題は先秦から魏晋南北朝までの仏道の養生に関する資料の研究。段階的成果に科学研究費補助金総合研究成果報告書、馬王堆出土医書字形分類索引、『養性延命録』訓注、『雲笈七籤』目録がある。

(7)京都大学人文科学研究所共同研究チーム「六朝共同研究チーム」:1986年設立。陶弘景『真誥』20巻を主に研究し、成果に吉川忠夫監修『中国古道教史研究』がある。同文集は1992年4月に同朋舎から出版された。

 このほか、日仏東洋学会、フランス国立極東学院(EFEO)京都支部・法宝義林研究所などの機関があり、フランスの学者を中心としているが、日本の学者も多く参加している。

 日本の中国道教研究は100年近い歴史があり、特に1980~90年代に優れた成果を残している。秋月観暎編『道教研究のすすめ-その現状と問題点を考える』(1986年)によると、道教と中国文学の項の論文・著作は8千種以上に上る。メディアの報道によると、日本道教学会の会員は約700人で、有名大学、仏教系大学、神道系大学、カトリック系大学など40校あまりが関係する。日本の道教研究者の数は、世界的に見て最多である。

 日本人はなぜ道教にこれほど関心を寄せるのか。立正大学の酒井忠夫教授と筑波大学の野口鉄郎教授は1979年、『Faces of Taoism: Essays in Chinese Religion』の中の『日本の道教研究』の項で以下のように述べている。道教は中華民族と社会文化の一構成要素である。その内容は豊かで、哲学思想、宗教信仰、風俗習慣、道徳規範、文学芸術、科学など多岐にわたる。中国史において、政治、社会、文化のいずれにも大きな影響を持つ。道教と中国の大衆は非常に密接な関係をもち、その緊密度は儒教に劣らず、中国の国教と言えるものである。中国の人々や社会を理解しようとすれば、道教研究は必須である(鞠桂珍訳《中国哲学史研究》1985年第4期参照)。

 酒井教授と野口教授の言葉は、両国の道教の間の密接なつながりを言い表したものであり、これは筆者が本稿を執筆しようと思った動機である。グローバル化が進む中、日中両国の民間と学者の後押しによって、道教をめぐる両国の文化交流もますます深まるだろう。

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朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学系 助理研究員

中国山東省聊城市生まれ。
2003年9月~06年6月 山東大学文史哲研究院 修士
2007年9月~10年9月 浙江大学古籍研究院 博士
(2009年9月~10年9月)早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010年11月~現在 浙江大学哲学系 助理研究員
2011年11月~現在 浙江大学博士後(ポスドク)聯誼会 副理事長