【12-11】日中両国の懸け橋となった「徐福東渡」

王 笑天(山東七星策画有限公司勤務)     2012年11月28日

 中国山東省竜口市(煙台市に属する県クラスの市)には、徐福鎮という田舎町がある。この町は「徐郷の古里」とも呼ばれる。元代の学者、于欽が編纂した『斉乗』には、「けだし徐福求仙するをもって名となす」とある。徐福が日本に渡ったことを記念して「徐公祠」がここに建てられた。

 徐福は、不老長寿の妙薬を求め、3千人の童男童女を率いて海を渡り、中国の文化や知恵、農業・養蚕・建築技術を日本に伝えた、とされていることから、富士山の北山麓にも「徐福」を祭る「徐福碑」が建てられている。

 秦の始皇帝28年(紀元前219年)、始皇帝は初めて東方の郡県を巡回した。泰山を越えて梁父山に行き、北東に向かい、黄県(現在の山東省竜口市)、月垂県を経て、渤海に面した成山、之罘(しふ)に到着。之罘から南西に折り返し、琅琊(現在の山東省膠南市)に到着。この間、海州湾内に蜃気楼が現れたのを目にした秦の始皇帝は、仙人のしわざだと思い、「辟穀」(修行のための断食)や気功、仙術、武術に精通した戦国時代の思想家「鬼谷子(きこくし)」門徒の徐福に対し、童男童女を率いて海を渡り、不老長寿の薬を探すよう命じた。

 皇帝の命を受け、海に出た徐福は、不老長寿の薬を見つけることはできず、9年後の紀元前210年、真の始皇帝は再度、東巡を行い、徐福を訪ねた。皇帝からのお咎めを恐れた徐福は、「海の中に大きなサメがおり、薬のある仙山に船が近づくことができない。サメをしとめる弓の達人が必要だ」と嘘をついた。

 徐福の話を信じた皇帝は、弓と武器を持って自ら海に出た。船が之罘島の近くまで到着すると、確かに大魚に出くわした。皇帝は弓で魚を殺した。これで妙薬探しの障害はなくなったと考えた皇帝は再び、徐福に対し、童男童女と技術者、兵士、射手ら500人余りを率い、五穀の種、食糧、食器、水などを携え、不老長寿の薬を探す旅に出るよう命じた。

 東方に渡った徐福は、不老長寿の薬を見つけることはできなかったが、「平原広沢」(筆者注:日本の九州を指しているとも言われる)を発見した。不老長寿の薬を持って帰らなければ、死罪になる可能性があるため、中国へは帰らず、ここに住み付いた。徐福らは人々に農耕や漁、鍛冶、製塩などのほか、医療技術など秦朝の進んだ文化を伝え、「農耕を司る神」「医薬の神」として尊敬された。和歌山県、佐賀県、広島県、愛知県、秋田県、富士山は、いずれも徐福ゆかりの地である。

 「徐福東渡」に関する最も古い記述は、『史記・秦始皇本紀』と『淮南衝山列伝』(注:徐福の氏名は、『秦始皇本紀』では「徐市」、『淮南衝山列伝』では「徐福」となっている)。司馬遷『史記』は魯迅から「史家の絶唱」と呼ばれことからも分かるように、信憑性や史料的価値が高い。司馬遷が『史記』の執筆にあたったのは、当時の漢武帝の太史令を務めていた時期で、徐福東渡から70年余りしか経っていない。編纂時に誤りが生じた可能性は排除できないが、複数の章・節に、同じ内容の虚構が登場する可能性は極めてわずかである。

 日本の文献で徐福が日本に渡ったとするものには、『神皇正統記』、『林羅山文集』、『異称日本伝』、『同文通考』などがある。松下見林は『異称日本伝』の中で、紀州の熊野山下に徐福の墓がある、と記している。また、新井白石は『同文通考』の中で、熊野の付近に徐福が住んでいた、と言っている。このほか、歴史文化的な角度から徐福らが日本に渡った事実を研究する日本人学者もいる。

 日中両国の徐福研究者の間には、「徐福が率いたのは完全武装の植民隊ではなく、善意ある交流を行う船隊で、徐福らが訪れた場所には恨みでなく、文明・平和・友情の種がまかれた」という見方もある。

 日本で稲作農耕と環濠集落文化が発展した理由は、中国の影響を受けたためである、というのが日中学界での一般的な見方となっている。徐福は、中国の稲作文明、特に江南の稲作文化を日本で広め、稲作の発展を促し、当時に古代日本の農耕村落の形成と発展を促した。その功績は永遠に歴史に刻まれ、徐福は日本で「農業を司る神」として崇められている。北宋の詩人・欧陽修の『日本刀歌』には、「徐福の行く時、書は未だ焚かず、逸書百篇今尚存す。令厳しくして中国に伝わるを許さず、世を挙げて人の古文を識るもの無し」とある。

 江戸時代初期の朱子学者・林羅山の『羅山文集』には「徐福之来日本、在焚書坑儒之前六七年矣、相蝌蚪篆籒書添竹牒、時人知者鮮矣。其後世世兵燹、紛失乱墜、未聞其伝、嗚呼惜哉」(徐福が日本に来たのは、焚書坑儒の五、六年前のことで、小篆と大篆で書かれた竹簡を持ってきたが、当時の人で知る者は少なかった。その後、兵火で紛失し、伝承されているとは聞かない。惜しいことである)と書かれている。

 徐福は方士の出身で、医術に長けていた。医学者の富士川游は『日本医学史』の中で、秦の徐福が仙薬を求め、日本に来てさまざまな文物を伝え、医人も同行していた、との記述がある。日本の医学は、中国医学に学び、それは漢医や漢方と呼ばれた。日本には現在も治療に伝統的な中国医学を用いる医師がいる。徐福が日本で「医薬の神」と崇められる理由はここにある。徐福東渡は日中両国民の友情の絆と文化・経済交流の懸け橋となっている。

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参考文献:

  1. 蔡豊明「徐福東渡与東亜民聞文化」中国海洋大学学報(社会科学版)2002年4月
  2. 羽田武栄「日本学者看徐福」《海洋世界》1995年7月
  3. 安志敏「論徐福和徐福伝説」《考古与文物》1997年5月
  4. 楊斌「徐福東渡之謎」吉林文史出版社1989年3月
  5. 王錦鴻「徐福東渡之謎新探」江蘇人民出版社1990年1月
  6. 飯野孝宥「弥生的日輪—徐福的伝説与古代天皇世家」光明日報出版社1994年10月
  7. 張煒「徐福文化的思索」山東友誼出版社1996年1月
  8. 壱岐一郎「徐福集団東渡与古代日本」天津人民出版社1996年10月
  9. 李艶祥「徐福東渡」中国広播電視出版社2005年4月
  10. 張良群「中外徐福研究」中国科学技術大学出版社2007年10月

PROFILE

王笑天

王笑天(Wang Xiaotian):山東七星策画有限公司勤務

中国山東省煙台市生まれ。
2008年6月~  山東七星策画有限公司経営企画担当


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