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【13-02】日中伝統家具の歴史

朱 新林(浙江大学哲学系 助理研究員)     2013年 2月22日

 家具は物質文化の一部であり、国家や民族の歴史、文化の伝統を反映し、文明の変遷を示す重要な物証である。中国の伝統家具はおおまかに言って、古くて飾り気がなく威厳がある(古朴威厳)、写 実的で簡潔である(写実精煉)、豊満で華麗(豊満華麗)、上品でやさしい(典雅柔婉)、すっきりとして美しい(簡練秀美)、装飾的で豪華(繁縟富麗)といった変遷をたどってきた。中 国の家具芸術は明末から清初期にかけてピークに達し、「簡潔、程よい、優雅」という造形美が高い評価を得た。日本の家具もまた、質朴、簡潔でありながら、上品で自然なその造形によって、中 国家具とともにひときわ目を引く独特の東洋的なスタイルを形作った。

 日本の学者は「日本の建築様式は明治維新まで、中国の建築体系の一部として発展してきた」と指摘する。日中両国の伝統家具には、それぞれ固有の伝統と隣国との文化的な交流があり、さ らには西洋文化の影響も受けている。

 魏王朝が成立した3世紀初めから遣唐使が廃止された894年頃までの両国の文化交流は、日本によって唐文化を全面的に受容した時期であった。この時期の家具文化交流もまた、中 国の家具文化を日本が受容した過程と言える。

 この時代には、前述の通り、宗教・芸術、政治・律令、建築様式・技術などの分野での活発な文化交流があった。古代の文物の保存は一般に困難を極めるが、千 年以上前の木造の家具や道具となればなおさらである。その点、日本の正倉院は、世界でもまれに見る例外であろう。正倉院は8世紀に建てられ、木材を組み合わせた構造で、「校倉造り」と 称される建築様式を取っている。東大寺の正倉院は、貴重な宝物を収蔵する倉庫として用いられていた。

 正倉院は、数々の文化物を保存してきたばかりではなく、日本が古くから海外の進んだ文化を積極的に取り入れていたことを示す証拠でもある。正倉院に納められた文物は、光 明皇后が756年に東大寺に奉献した聖武天皇の遺品が最初である。遺品には、中国から伝わった芸術品、珍品が少なくない。その後、有力者たちがこれに倣って宝物を奉献した。正倉院の宝物は、保存状態の良さ、種 類の豊富さ、国際色の豊かさという特徴を持っている。

 8世紀の日本は遣唐使を派遣し、中国文化を積極的に学んだ。唐の都・長安は、地中海地域を含む各国文化の交差点であり、こうした文化が遣唐使を通して日本にも伝わったのである。正倉院には、活 発な文化交流を示す宝物が数多く収蔵されている。

 一部の宝物は日本独自の文化から生まれたものである。例えば、菊や桜の文様は、家具の飾りにも応用された。主に自然や風景、町の様子などを描いたもので、町や総画、川辺の様子、春や秋の野、水の流れ、日 の出、夕焼け、武士や町人の日常生活から題材を取ったものである。一方、中国の歴史を題材にしたものもあった。例えば18世紀の蒔絵師小川破笠(1663-1747)の作品である「玄宗楊貴妃図料紙箱・西 施図硯箱」は、中国文化に対する憧れを反映する同時に、中国文化の影響の大きさを示すものである。

 中国の伝統家具の装飾模様は、中国の文化に由来したものが多く、例えば「竜鳳呈祥」「八仙過海」「鴛鴦戯水」「歳寒三友」などがある。「西番蓮紋」のよう外国文化に由来するものもあるが、数は少ない。& amp; amp; lt; /p>

 一方、日本の伝統家具の装飾模様は、外国から輸入されたものが多く、とくに中国大陸から来た「竜鳳紋」「唐獅子紋」「歳寒三友」のほか、中国の歴史や神話を題材とした文様などがある。

 日本は紀元1世紀ごろ、典型的な中国南方の建築様式を取り入れている。こうした建築様式は欠点があるものの、日本の気候に適しており、取り入れられた。この時期の日本の建築様式は高床式と呼ばれ、雲 南地方に生活していた人々が農耕とともに日本に持ち込んだものと考えられる。この点は、日本で出土した家屋文鏡や銅鐸に描かれた稲作文化圏共通の建築様式からも判断できる。日本で記述された最古の住宅は、天 平年間の近江国紫香楽宮(しがらきのみや)の藤原豊成の板殿である。内部の空間は屏風や御簾(みす)、几帳などで区切られ、室内には簡単な装飾がなされ、日用品が置かれ、簡単な家具も置かれていた。

 552年、仏教が朝鮮半島を通って日本に伝来すると、中国南北朝の建築技術と様式も同時に伝わり、その後、隋や唐の建築様式が伝わった。寺院建築は日本の主要な建築様式の一つとなり、宮 殿や神社に影響を与えた。

 日本の文献には、宋の陳和卿・仏寿兄弟が東大寺再建を指導した史実が記載されている。この頃、床に畳を敷いて、天井を張り、角柱を用い、違い棚、書院などを設けた「書院造」が確立した。あ る部屋を選んで書斎として整え、僧侶や武士の暮らしに合う造りになっていた。この部屋の床はほかの部屋よりもやや高く、香炉や燭台、花瓶を一対にして床の上に飾った。

 安土桃山時代(織豊時代)になると、城郭建築や本格的な書院造が確立した。中国から伝わった茶の文化が次第に普及し、禅宗によって「闘茶」(利き茶)が広まり、それを背景に茶道が確立した。茶 道は日本人の美意識を反映した芸術となり、書院造にも影響を与え、茶室が流行した。最も人気があったのは草庵風茶室で、土壁茅葺屋根や下地窓などを設け、周りに小さな庭を作る。竹垣や役石、手水鉢、石 灯篭などが置かれ、茶室までの小道には木々が植えられる。茶道の「和敬清寂」の心得を表している。

 茶室の建築様式から数寄屋造が生まれた。書院造と茶室のスタイルが融合してできたこの建物は、木造部分を黒く塗り、襖や衝立などには水墨画が描かれた。桂離宮は、人 工物と自然が相互に溶け合った数寄屋造の傑作である。庭と一体化した建築スタイルは日本建築の基本であり、数奇屋造の伝統は現在の家屋にも見られる。

 明治時代に入り、政府は欧米と並ぶ近代国家建設を目標とした。外国の建築家を招いて西洋建築を建て、室内装飾も和洋折衷になっていった。明治21年(1888年)に建てられた「明治宮殿」(皇居内、戦 災により焼失)は、日本の建築と内装のモデルとなった。日本の住宅は一般的に、リビングやダイニングなどはソファやいすなど現代家具を置いた洋室とし、寝室などは畳や砂壁、杉板、障 子など伝統家具を用いた和室としている。

 日本の建築は、一般的にシンプルなものが多く、室内の装飾もすっきりとしたものが多い。だが内装には細かい配慮が施されている。和室の設計は、伝統的な日本建築を由来としている。床や柱、壁は、バ ランスの取れた設計となっている。

 日本人はまた伝統文化の雰囲気を醸し出すことも重視している。現代の和風建築では、地域の気候風土に合わせた設計がなされており、太陽光や風、緑と一体化した住宅が追求されている。木 や紙といった天然素材、長方形の優美な線、自然な光、植物のおだやか色は、静寂と美との感覚を住む人に与える。和室は、実用的な家具や飾りを室内の中央に置くことで、より自由な空間を作り出している。庇 と縁側によって直射日光が差し込まないようになっており、壁はぼんやりとした光に照らされている。

 日本の伝統文化は中国文化の衣鉢を継ぎ、発展してきた。日本の和風建築とその内装にもそれが表現されている、自然で、あっさりとした上品で静かな世界、自然との調和を追求する意識は、日 本の伝統建築と内装の本質である。

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朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学系 助理研究員

中国山東省聊城市生まれ。
2003年9月~06年6月 山東大学文史哲研究院 修士
2007年9月~10年9月 浙江大学古籍研究院 博士
(2009年9月~10年9月)早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010年11月~現在 浙江大学哲学系 助理研究員
2011年11月~現在 浙江大学博士後(ポスドク)聯誼会 副理事長