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【13-03】中日「動漫」漫談

2013年 4月 8日

董 雪

董 雪:中国山東省徳州市職員

中国山東省徳州市生まれ
2004.9~2007.6  山東師範大学文学院 修士
2007.9~2010.6  浙江大学中文系(中国語学院) 博士
2010.6~      山東省済南市総工会 科員

 世界一の漫画大国である日本にとって、「動漫」(アニメ・漫画)は支柱産業であるだけではなく、対外文化交流という重要な役割を担っている。『スラムダンク』や『ドラえもん』『NARUTO -ナルト-』『クレヨンしんちゃん』などの有名作品は、各国の青少年の間で幅広い人気を博し、さらに大人の間でも忠実なファンを獲得している。

 「動漫」という言葉は中国人の造語で、日本語や英語ではこれにすっきりと当てはまる単語はなかなか見つからない。「動画(アニメーション)」と「漫画(コミック)」の二つの言葉を合わせたこの言葉は、映像作品や印刷物などさまざまなメディアをカバーしている。二つが合わさったのは、アニメ作品の多くが漫画に基づいて作られているためであるが、昨今のメディア技術の発展に従い、両者は芸術表現手法の面で多くの相似性を持つようになっており、一つのジャンルとして語られることがますます多くなっている。

 「動漫」にはアニメーションと漫画という異なる芸術形式が含まれるが、現実的には、漫画こそがアニメの魂であると言えるだろう。日本が名実ともに「漫画帝国」であるということは疑いの余地はないが、この「漫画」という言葉、実は中国を起源としている。

 「漫画」はもともと、ヘラサギという鳥を指した言葉であった。北宋の晁説之『嵩山文集』には次のような記載がある。「黄河多淘河之属,有曰漫画者,常以嘴画水求魚;有曰信天縁者,常開口待魚(黄河には河魚を食す鳥が多くいる。このうち『漫画』と呼ばれる鳥は、水面をなぞって魚を求める。『信天縁』と呼ばれる鳥は、くちばしを開けて魚を待つ)」。さらにこれに基づいた詩『右淘河』においては、「漫画複漫画,河尾沙軟喙一尺。天生剛喙不解禿,倦魚薄浅幸有得。謀拙力百費,何処有金翅。饑腸倚暮煙,慙愧信天縁(『漫画』、川面をつつきまわす。下流の土は柔らかく、鳥のくちばしは一尺もある。固いくちばしは頑丈だが、川の浅瀬ではなかなか魚は見つからず、ひたすら探しても、金色に光る魚の姿はなかなか現れぬ。腹を空かせたまま夜を迎えて、『信天縁』のように鷹揚としてなかったことを恥じる)」との記載がある。さらに南宋の洪邁の『容斎随筆五筆』においては、「瀛、莫二州之境,塘濼之上有禽二種。其一類鵠,色正蒼而喙長,凝立水際不動,魚過其下則取之,終日無魚,亦不易地。名曰信天縁。其一類騖,奔走水上,不閑腐草泥沙,唼唼然必尽索乃已,無一息少休。名曰漫画。信天縁若無能者,乃与漫画均度一日無饑色,而反加壮大。二禽皆稟性所賦,其不同如此(瀛と莫との境にある塘濼に、二種類の鳥がいる。一種は鵠で、真っ白く長いくちばしをしており、水際に立って動かず、魚が来ればこれを取り、魚が来なくても動かず、『信天縁』と呼ばれている。もう一種は鶩で、水上を駆けまわり、腐草と泥もお構いなしにつつきまわり、一息も休むことを知らず、『漫画』と呼ばれている。信天縁は無能のように見えるが、漫画と同じ一日を過ごしても腹を空かせた様子を見せず、漫画よりも大きい。両者はこのように異なる性質を与えられている)」とある。

 唐代と宋代は、中日文化交流が盛んだった時代であり、大量の中国の書籍が日本に伝わった。この中に『容斎随筆』も含まれ、「漫画」の名称も日本文化に足跡を残した。日本の文献において「漫画」という言葉が使われた最初期の例の一つは、江戸時代の儒者、鈴木煥卿が記した読書ノート『漫画随筆』(1771年)である。書名の由来は、書中の「撈海一得自敍」と題された文章に次のように示されている。「瀛、莫有鳥名漫画,終日奔走水上,撈捕小魚而食之,猶不能飽。又有鳥名信天翁,立水上屹然不支,遊魚至前,因以食之......余性弗霊,琴棋書画,凡技藝莫一所能,又不能飲,因与人不款曲,越在僻邑無可与語者,唯有読書,終日汲汲,唯多是貪,猶如漫画(瀛と莫とに『漫』という鳥がいる。水上を一日中動きまわり、小魚を捕まえてはこれを食らい、飽きることを知らない。もう一種の鳥は『信天翁』といい、水上に屹立し、魚が来ればこれを食らう。......私には才能というものがなく、音楽や将棋、書画といった芸は何もなく、また酒も飲めないので、人と交わるのも苦手で、田舎に住んでいるので語り合う友もいない。ただ一日中本を読むだけ、それもむやみに多読するだけなので、まるで『漫画』のようだ)」。この文章に『容斎随筆』の影響を見出すのは難しくない。鈴木煥卿は、鳥の「漫画」があくせくと魚を求めて水面をついばむ様子を、書物に向かう自身になぞらえ、書名として採用したのである。ただこの中で「漫画」という言葉は、まだ現在のような意味を持ってはいない。だが、これよりもわずかに早い時期に中国において、「漫画」という言葉は、「心のままに絵を描く」という意味で使われ始めていた。清代の文人画家で「揚州八怪」の一人である金農(号は冬心先生、1687-1763)の記した『冬心先生雑画題記』において、「予家曲江之浜,五月閑時,果以蕭然山下湘湖楊梅為第一。入市数銭,則連篭得之,甘漿沁歯,飽啖不厭。視洞庭枇杷不堪,恣大嚼也。時已至矣,輒思郷味。漫画折枝数顆,何異乎望梅止渇也(故郷の曲江の浜では、五月になると湘湖のヤマモモが食べ頃になる。市に行って籠で買ってきて食べると、歯にしみる甘さで飽きることがない。洞庭の枇杷のようで、よく食べたものである。時は過ぎて、故郷の味を思い出す。気の向くままに枝を描いてみたが、『望梅止渇=梅を望んで渇きをいやす』と何の違いもない)」と記されている。これよりやや後に、日本でも類似した用法が見られる。風俗画家の英一蝶が1769年に出版した『漫画図考 群蝶画英』がそれである。しかしこの時の「漫画」はまだ現在に連なるような絵のジャンルを形成することはなかった。「漫画」をジャンルとして発揚させたのは、浮世絵の大家、葛飾北斎だろう。北斎は1814年に『北斎漫画』を出版し、誇張したイメージと自由なタッチによる絵のスタイルを「漫画」という言葉で表現した。これ以降、「漫画」という言葉は正式に絵画に用いられ、新たなジャンルを形成することになった。

 だが日本の漫画は風俗画としてだけ発展していったのではなく、西洋漫画の要素を取り入れて革新的発展を遂げた。このことには、英国の漫画家チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman)やフランスの漫画家ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(George Ferdinand Bigot)らによる漫画雑誌の創刊が大きく寄与した。彼らが日本で創刊した雑誌や画集では、時事画や風刺画が内容として取り扱われ、明治時代から大正時代にかけて大きく流行した。このスタイルは、一衣帯水の中国にも深い影響を与えた。1904年、『警鐘日報』(上海)は「時事漫画」をタイトルに、時の政治を風刺した画作を発表し、漫画を一つのジャンルとして中国に登場させた。この後、「諷喩画」や「滑稽画」、「諧画」と呼ばれる大量の類似作品が、多くの中国の新聞や雑誌に発表された。有名画家の豊子愷による絵画コラム「子愷漫画」が『文学週報』(上海)に連載され、1925年に『子愷漫画』として出版されるに至って、このジャンルが「漫画」という名前で統一され、普及することとなった。この後の20年間、漫画は、中国の民主革命運動の高揚に伴い、時代の悪弊を批判し、時の政治を風刺する手段となり、教育と宣伝の重要な役割を担っていった。

 これに対し、日本の漫画は、伝統継承の土台の上に急速な発展を遂げた。1902年、日本の現代漫画の祖とされる北澤楽天は『時事新報』に漫画欄「時事漫画」を開き、漫画という呼称を定着させた。北澤はその後、1905年に日本で最初の漫画雑誌『東京パック』を創刊し、さらに『楽天パック』『家庭パック』を次々と創刊するなど、日本漫画の発展を大きく推し進めた。第二次世界大戦に至るまで、日本ではストーリー漫画やユーモア漫画、少年漫画などのジャンルが続々と開拓され、漫画界には、百花斉放の局面が現れた。

 この時期の中国漫画は、形式と内容において大きく発展することはなかったが、西洋のスタイルが東洋に流入する中で、もう一つの西洋の芸術形式が中国の伝統文化と結合し、異彩を放つこととなった。つまりアニメーションである。1920年代初め、米国のOut of the Inkwellを初めとして、海外のアニメーション作品が中国に流入し、中国人の芸術創作意欲を大いに刺激した。中国アニメの開拓者である万氏四兄弟(万籟鳴、万古蟾、万超塵、万滌寰)は1926年、中国初のアニメ作品『大閙画室』を制作し、1935年には中国初の発声アニメ作品『駱駝献舞』を制作した。さらに1941年には中国初の長編アニメ作品『鉄扇公主』を制作したが、この作品は、米国の『白雪姫』に次ぐ世界で2作目の長編アニメとなった。中国のアニメは開始まもなく、世界のトップレベルに入っていたのである。この後の20年余り、中国のアニメ制作は繁栄期に入り、中国の独自性を備えた作品が次々と制作された。人形劇『皇帝夢』は伝統的な人形劇の表現手法を活用した作品であり、『驕傲的将軍』は京劇のキャラクターと動きを生かした作品だった。切り紙細工を使った『猪八戒吃西瓜』は、民間の切り紙芸術の魅力を輝かせる作品となった。カラーアニメ長編『大閙天宮』は、民間芸術の年画(旧正月に貼られる華麗な絵)や廟堂の壁画からインスピレーションを得た。水墨アニメ作品『小蝌蚪找媽媽』は、優雅な中国の水墨画とアニメーションと結合したもので、線と色による通常の制作方法を超えた新たな表現が用いられ、優美で生き生きとしたイメージが高い評価を得た。この時期の中国アニメ作品は、水墨画や彫刻、戯曲、切り紙、影絵、人形、年画などの独特な民間芸術の要素を積極的に吸収し、世界的に評価の高い「中国アニメ学派」を形成し、国際映画祭でさまざまな賞を獲得した。だがこの後の60、70年代、中国は「文革」という特殊な時期に入り、アニメ制作の発展は大きく妨げられ、後退した。その後中国アニメは80年代に復活し、国際的な評価は再び高まったものの、芸術スタイルにおける革新は乏しかった。日本や米国の漫画・アニメ文化の衝撃も大きく、市場を活用したオペレーションも難航し、中国アニメは短い繁栄の後、徐々に活気を失い、現在も昔日の輝きを取り戻すには至っていない。

 20世紀前半に日本でも西洋文化の影響を受け、いくつかのアニメ作品が制作された。下川凹天の『芋川椋三玄関番之巻』や政岡憲三の『桃太郎 海の神兵』などがそれである。だが全体的に「漫画映画」と称されるこの時期の日本アニメは未成熟段階にあり、飛躍的な発展を遂げていたのは漫画制作であった。第二次世界大戦の終結に伴い、日本漫画界は活気を取り戻した。とりわけ「日本漫画・アニメの父」とされる手塚治虫の活躍は、日本漫画・アニメ界の新たな一章を切り開いた。手塚治虫は医学部出身だが、1943年、上海で中国アニメの『鉄扇公主』を鑑賞してこれを称賛し、医学の道を歩むのをやめ、漫画やアニメの制作に向かうことになったという。1947年に発表された手塚治虫の漫画作品『新宝島』は、映画的なコマ割りとモンタージュ手法を導入し、漫画の表現力と影響力を大きく高め、漫画とアニメとの結合の土台を築いた。この後、日本の漫画とアニメは相互に影響を与え合う形で進歩し、石ノ森章太郎や藤子不二雄、宮崎駿、鳥山明、井上雄彦などの著名漫画・アニメ作家を生み、「漫画の雑誌への連載―人気作品の単行本出版―優秀作品のアニメ化―関連商品の開発」という産業チェーンを徐々に形成していった。この構造は漫画をアニメに改編する際の投資リスクを軽減させると同時に、アニメの成功が漫画制作の発展を推進することにもなり、産業発展に内的動力を生み出し、漫画とアニメとの相互発展と共同繁栄を実現させた。

 日本の漫画やアニメの世界的な流行を可能とした要因の一つは、その題材が多岐にわたっていることである。歴史物の『三国志』から推理物の『名探偵コナン』、神話的テーマの『聖闘士星矢』、ファンタジー系の『犬夜叉』まで、多様な読者のニーズに応える作品がそろっている。このことは、日本が世界の文化を吸収し、自らの物としてきたことと関係している。中国の影響もその一つであり、手塚治虫のほかにも、中国からインスピレーションを与えられたクリエーターは多い。例えば、『三国志』や『西遊記』は、日本の漫画家が好んで用いるテーマである。『三国志』を背景とした作品としては、横山光輝『三国志』、王欣太『蒼天航路』、山原義人『龍狼伝』などが挙げられる。『西遊記』の影響はさらに幅広く、手塚治虫は『鉄扇公主』に触発され、孫悟空のキャラクターをもとにアトムを創造したとされる。1981年に手塚治虫が訪中した際、ただ一つの願いは『鉄扇公主』と『大閙天宮』の監督である万籟鳴に会うことであった。二人は、孫悟空とアトムが固く手を結んでいる絵を描き、両国の文化的友情の象徴とした。手塚治虫は帰国後、最後のアニメ作品『ぼくは孫悟空』のプロットを完成させ、扉には『これがぼくの孫悟空』との文字を書き、長い作家人生の最後の作品を飾ったという。もう一人の不動のアニメ界の巨匠である宮崎駿も、『大閙天宮』を見て、アニメを自らの生涯の事業とすることに決めたと言われる。鳥山明の有名作品『ドラゴンボール』も『西遊記』にヒントを得ており、中国の書物が日本に与えた影響の大きさがわかる。さらに皇名月(すめらぎ なつき)の作品にも中国史を題材としたものがあり、渡瀬悠宇『ふしぎ遊戯』や篠原千絵『蒼の封印』などでは、古代中国で方角を表していた青龍・白虎・朱雀・玄武をもとにしたイマジネーションが表現されている。魅力的な中国的要素の発掘は、本場中国よりも盛んであると言ってもよく、中国の漫画・アニメのクリエーターにとっては耳の痛い話でもある。だが日本の成功の経験を汲み取り、民族の記憶を受け継ぎ、中国の特色を備えた漫画・アニメ産業の道を切り開いていくことこそが、現代の中国の漫画・アニメ作家にとっての重大な責任であり、歩いて行くべき長い道のりであると言えるだろう。