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【13-05】中日戯曲文化交流史を語る

2013年 5月 9日

李暁亮 

李暁亮(LI Xiaoliang):淄博職業学院図書館 講師

中国山東省淄博市生まれ。
1999.9—2003.6 山東理工大学文学院 学士
2003.7—2008.8 淄博職業学院音楽表現系 助教
2008.9-現在 淄博職業学院図書館 講師

 中日両国は、海を隔てて互いに望む一衣帯水の関係にある。楽舞戯曲の分野での交流は、両国の文化交流の要となる一部として脈々と続けられてきた。両国の民族文化を最も端的に表す古典劇としては、日本では能楽、中国では昆曲が挙げられる。どちらも伝統的かつ斬新な芸術様式であり、国連無形文化遺産の代表一覧表にも名を連ね、アジア各国、さらには世界全体に大きな影響を与えている芸術様式である。さらに時代をくだった演劇形式としては、中国の京劇と日本の歌舞伎もまた、アジア文化の共通点を示すと同時に、双方の文化の独自の精髄を示す要素として忘れてはならないだろう。

 現存の資料から見ると、中日間の演劇文化交流は、7、8世紀頃に一度ピークを迎えている。中国の「儺祭」「伎楽」「舞楽」「散楽」などの文化が、日本の遣唐使事業の展開に伴い、日本列島に大量に伝来した頃である。中国の演劇文化は、古くからの祭祀儀式と漢唐の演芸が結びつき、宋元の「雑劇」、明清の「昆曲」「伝奇」へと発展していった。一方、隣国日本では、中国から伝来した演劇形式が「猿楽」という“第二世代”を生み、さらに「能楽」(初期は「猿楽の能」と呼ばれた)という“第三世代”を生んだ。同じ“第三世代“に属する「昆曲」「伝奇」と「能楽」「謡曲」には多くの類似点がある。現存の文献によると、中国の「舞楽」「散楽」は中国の南北朝時代にはすでに日本に伝わり、日本の芸能に大きな影響を与えていた。日本の楽舞もまた、隋朝の宮廷音楽の一つに名を連ねていた。古代の日本においては中国南方の楽舞を「伎楽」と呼んでいた。この楽舞は三国時代の呉国に由来することから「呉楽」とも呼ばれた。日本の史料によると、欽明天皇32 年(562)、三国呉人の昭智聡が『内外典楽書』『明堂図』などの書籍と仏像一体、「伎楽」の道具一式を持ち、百済から日本にやってきたとある。このほか『日本書記』にも、推古天皇20 年(612)、百済からの帰化人である味摩之が呉で「伎楽」学んだことを知った天皇が、味摩之を現在の奈良県の桜井市に住まわせ、子どもたちに伎楽を教えさせたという内容が書かれている。「伎楽」と同時期に日本に伝来し、発展した楽舞としては、唐楽や三韓楽(高麗、百済、新羅)などの外来楽舞からなる「舞楽」がある。「舞楽」は「伎楽」と同様、踊り手は喋ることなく、剣や鉾を持った「武舞」と何も持たない「文舞」とに分けられた。「舞楽」の衣装は非常に華麗なもので、正式な装束の一つである「襲装束」(「唐装束」、「常装束」とも呼ばれる)は、中国の唐代の衣装を由来としており、中国色の濃いものだった。この時期においては、「伎楽」と舞楽は同時に演じられていた。平安時代になると、「舞楽」が「伎楽」に取って代わり、仏教祭祀の儀式だけではなく、冠婚葬祭や出征、凱旋などの儀式でも踊られるようになった。

 中国の歴代の封建統治者がいずれも礼制や楽舞を作り、儒家の雅やかな音楽で天地と祖先を祭祀し、朝賀や宴享などの儀式を行っていたことにならい、大宝元年(701)、日本の天皇は宮中に「雅乐寮」を設け、文武雅曲と正舞、雑楽の教授、男女の楽人の指導、舞者楽生の養成に当たらせることとした。当時の雅楽は、中国と三韓の舞楽を主な由来としており、題材や内容も中国のものが多くを占めていた。現在もなおよく演じられる「蘭陵王」は、中国の南北朝と隋唐の時期の有名楽舞「蘭陵王破陣楽」を由来としている。舞楽「太平楽」もまた中国が由来である。高似孫『唐楽曲譜』中の「明皇三十四曲,立部八曲,一太平安舞,二太平楽安舞,三破陣楽」との記載は、この太平楽が中国のものであることを示している。「蘭陵王楽」と「太平楽」の両曲は、中国の典章制度を学びに中国にやってきた遣唐使が日本に持ち帰ったものと思われる。黄遵憲の『日本雑事詩』は、中国から日本に伝来した「安世楽」や「六朝楽」など38 種の曲目の名称を挙げ、「然伝其譜,不伝其辞, 而以楽器出之」(譜は伝わったが辞は伝わらず、楽器によってこれに代えた)と指摘している。舞楽で使われる楽器、琵琶や阮咸、箏、瑟、琴、五弦、簫、尺八、横笛、笙、銅銭子、大鼓、膘鼓なども中国から伝わったものである。日本の仁明天皇の時代(834-850)、雅楽は左と右の両部に編成された。左側は天竺楽や林邑楽など唐楽を中心とし、踊り手は赤い装束をまとった。右側は百済・新羅・渤海楽など高麗楽を中心とし、踊り手は緑の装束をまとった。

 中国古代の「散楽」はもともと、周代の民間楽舞を由来とし、南北朝の後には百戯(多種多様の芸の集合)を指していた。「散楽」は8世紀の奈良時代に日本に伝来した。中国の散楽の多くは娯楽性の高い大衆芸能だったため、日本伝来後、散楽と類似性を持った日本の民間芸能と結合し、広範囲に広まった。散楽の演技者の動作が猿のように軽快であり、さらに日本語の「猿」と「散」との音が似ていることから、平安時代中頃から「散楽」は「猿楽」と呼ばれるようになった。内容も豊かで多彩なものとなり、呪師や侏儒舞、田楽、傀儡子、高足、一足、独楽、滑稽芸などが親しまれた。さらに猿楽を基礎として、「能」や「狂言」などの新たな芸術形式が生まれた。能と狂言は猿楽の双子の姉妹である。能は最初、祭礼時に行われ、民衆とりわけ農民に愛されていたが、室町時代からは武士階級に独占された。能の伝統演目は250種余りに達する。「白楽天」「項羽」「楊貴妃」など仏教や中国史に題材を取ったものが多い。中国の伝統戯曲の役柄は「生」「旦」「净」「醜」の4つに大別される。17世紀の元禄中期から、日本の歌舞伎の役柄も細かく分類されるようになり、多い時には50種類に達した。中国の古典戯曲の役柄の区別との相似点も少なくない。以下は、日本の役柄と中国の役柄(カッコ内)との対応例である。「立役」(生) 、「武道」(武生) 、「親仁方」(老生) 、「若衆方」(小生)、「子役」(姓娃生) 、「女方」(旦)、「若女方」(閏門旦)、「女武道」(武旦)、「花車方」(老旦)、「敵役」(净)、「道外方」(醜)。

 中国の伝統演劇においては、役者は役柄に応じた化粧をし、役柄の性格を表し、その善悪を表現する。歌舞伎の化粧は元禄時期(1688-1703)、歌舞伎の名門・市川家の第一代である市川團十郎が「荒事」に導入したのが始まりと言われる。ある日本の学者は、歌舞伎の化粧は仏像の頭部の造形をもとに生み出されたものとしている。またある学者は、市川團十郎は、中国の戯曲の化粧と日本に入ってきた『三国志』『西遊記』の人物画のイメージに触発され、日本の伝統的な仮面とこれを結びつけて歌舞伎の化粧を考案したと主張している。中国と同様、赤い化粧は人物の正義感や武勇とを示す。青色は邪悪や狡猾を示す。茶色は神霊や悪魔を示す。中国の伝統演劇は、虚構化された動作の型が追求され、「唱(歌唱)」「做(動作)」「念(セリフ)」「打(立ち回り)」などの表現手段が用いられる。日本の伝統の能ではもともと、歌唱や動作、セリフ、舞踏が重視されていたが、歌舞伎の後期にいたってはこれに加え、立ち回りの専門技術も生まれた。また「花を見る」「月を見る」「馬に乗る」「船をこぐ」といった動作もそれぞれ象徴的な表現方法があてられており、こうした特徴も中国の演劇と類似性を持っている。また歌舞伎が用いる楽器も多くが中国由来のものである。永禄5年(1562)、中国の「三弦」が琉球を経て大坂に入った。琉球では「蛇皮線」と呼ばれていたが、大坂付近では蛇皮が少なかったため、猫や犬の皮で代替されるようになった。さらに形も日本独自のものに改造され、日本の弦楽器「三味線」が誕生した。

 世界の多くの民族と同様、中日両国の演劇芸術もまた古来の祭壇が劇壇へと変化したものである。中国の現代の劇においても、「娯神」(神を喜ばせる)という色彩が完全に途絶えたわけではない。「儺戯」を代表とする祭祀劇や儀式劇が民間に存在するし、祭日に行われる廟会での雑技は「娯神」の旗が立てられ、「娯神」の名目で人を楽しませる技が披露されている。だが主流の演劇となった古典演劇の「昆曲」や「伝奇」は、「娯神」という原初形態を早くから脱し、人を喜ばせ、人を表現し、人の審美に訴えることを目的としている。一方、日本の能楽は依然として「娯神」という中心目的を保っている。能楽を鑑賞することは、神を祭りあがめる宗教儀式に参加することにも似て、観衆たちは美を味わうと同時に、魂が清められ、鎮められる体験をするのである。

 京劇と歌舞伎という二つの芸術について見てみよう。中国の京劇の前身は、清代初期に江南地区で流行した地方劇団「徽班」であり、「吹腔」「高撥子」「二黄」という「声腔」(調子や拍子、歌い方)を特徴としていた。徽班は流動性が高かったことから、他の劇との接触が多く、声腔の面での交流や影響が多かった。そのため発展過程においては、「昆腔」の演目も行われたほか、「啰啰腔」やそのほかの演劇の要素も多彩に導入された。清乾隆55年(1790)、高朗亭(名月官)を首長とする徽班・三慶班が初めて北京に入り、乾隆帝の八十歳の祝いのために演じた。これを裏付ける資料としては、『揚州画舫録』に「高朗亭入京師,以安慶花部,合京秦二腔,名其班曰三慶(高朗亭、北京に入る。安慶の花部と京・秦の二腔を合わせ、その劇団を三慶と呼ぶ)」の記載がある。道光22年(1842)に出された楊懋建『夢華瑣簿』には、「而三慶又在四喜之先,乾隆五十五年庚戌,高宗八旬万寿入都祝匣時,称‘三慶徽’是為徽班鼻祖(三慶は四喜の先であり、乾隆55年庚戌の年、高宗80歳を祝った際、“三慶徽”と称したのが徽班の始まりである)」との記載もある。また伍子舒『随園詩話』においてはさらに具体的に、「閩浙総督伍納拉命浙江塩商偕安慶徽人都祝厘」との注釈がある。この後、多くの徽班が続々と北京に入った。有名なものには、「三慶」「四喜」「春台」「和春」の4班がある。「和春」の創設は嘉慶8年(1803)と三慶の北京入りよりも13年遅れたが、後世では4つの徽班が北京に入ったと語られている。徽班がほかの演劇形式をおさえて主流の座を占めたのは、徽班そのものの芸術的特色が働いている。その声腔(歌い方)は、「二黄」の声腔が新鮮さで人気を博したほか、「聯絡五方之音,合為一致(5つの音を合わせ一つにまとめる)」(『日下看花記』)という評価を受けた。演目の題材は広範囲にわたり、さまざまな形式が導入された。演出は、素朴で親しみやすく、役柄が豊富で文武がいずれも重んじられ、多くの観衆の鑑賞願望にかなうものだった。

 一方、日本の歌舞伎は日本を代表する上演芸術であり、17世紀の江戸時代を由来とし、400年近くにわたって能楽や狂言とともに現在まで続いてきた。歌舞伎の元祖は、島根県の出雲大社の巫女、阿国である。出雲大社の本殿の修理費を集めるために京都に来た阿国は、「念仏踊り」に手を加え、簡単な筋をつけて興行し、京都や大坂で民衆の人気を博した。「歌舞伎」という名称は「かぶき」に漢字をあてたもので、本来は傾くという意味を持っている。変わった動作が演出に多く取り入れられたことからこの名がついた。この音に、音楽を表す「歌」、舞踏を表す「舞」、技をあらわす「伎」の3文字をあてたのが「歌舞伎」という名称である。歌舞伎が民間芸能から日本の国粋となるには紆余曲折があった。男性役者だけによって演じられる現在の純粋芸術となるには、「遊女歌舞伎」から「若衆歌舞伎」、現在の歌舞伎の原型である「野郎歌舞伎」となるまでの発展の歩みがあったのである。歌舞伎の誕生後、京都・大阪一帯の遊女がその影響を受け、「遊女歌舞伎」を行うようになった。こうした女性たちは興行のほかに売色も行っていた。徳川幕府はこうした風紀の乱れをただすために取り締まりを始め、1962年に女性による上演は禁じられ、遊女歌舞伎の時代は終わった。女性の上演は禁じられたが、歌舞伎の発展は止まらなかった。劇団は、若く美しい男子に女性の役を演じさせるようになり、歌舞伎の“女形”が生まれた。こうした歌舞伎は「若衆歌舞伎」と呼ばれた。若い男子の役者は武士にかわいがわれ、役者の生活は乱れ、観衆との同性愛も横行し、心中や駆け落ちなど社会を揺るがす事件も多発した。幕府は多くの措置を取ってこれを改善しようとしたが効果はなく、1652年に若衆歌舞伎の演出を禁じることとなった。だが歌舞伎はすでに庶民の娯楽の中心となっており、幕府の禁止は庶民の情熱を削ぐことはなかった。劇団側は禁令への対策を考え、若い男子による上演を成人男性による上演に変え、「野郎歌舞伎」が生まれた。現在の日本の歌舞伎の原型である。歌舞伎はこれにより、美貌によって観衆に訴えかけるのに偏っていた演出方法を転換し、演技面での追求を始めた。歌舞伎はこうして、男性役者だけによって演じられる純粋芸術として徐々に発展した。現在もなお、歌舞伎の役者は男性に限られている。明治時代以降、西洋帰りの知識人や政治家らは、西洋社会で芸術が国家文化の象徴とされているのにならい、歌舞伎を日本文化の代表とみなすようになり、歌舞伎は現代的な意味での芸術となった。日本の歌舞伎の音楽も、日本の戯曲音楽に決定的な影響を与えている。

 中日の戯曲文化の差異は、中日両国の思想・文化の差異と直接の関係を持っている。日本文化に中国文化が影響していることは確かだが、日本文化の魅力は、その生き生きとした独自性にある。中日戯曲文化の芸術的特徴をさらに明確に理解するには、我々は、それぞれ異なる歴史・文化の制約を受けた両者の形成過程をさらに深く認識する必要がある。今後の両国の戯曲の演出者と研究者の重要な任務と言えるだろう。(淄博職業学院図書館)