【13-06】京都建築漫談

2013年 6月20日

>于春鵬

于春鵬(YU Chunpeng):
山東海化集団有限公司土建主管

2004年9月―2008年7月 山東建築大学 学士
2008年7月―現在 山東海化集団有限公司 土建主管

 京都は794年、唐の都の長安を真似てつくられた。ただその規模はずっと小さい。その後、19世紀半ばまで日本の都であり、文化の中心であった。日本伝統文化の集大成は京都をおいてほかにない。794年に奈良から遷都して以来、1867年の明治維新まで、1000年余りにわたって都が置かれた地であり、古代日本の政治・経済・文化の中心であった。京都はその歴史において宗教文化の中心であっただけでなく、政治の中心でもあった。当時の徳川幕府の拠点であった二条城は市の中心部にあり、城でもあり、庭園でもあった。屋根の装飾からは、宮殿式建築の特徴が見て取れる。内部の広間や壁、屏風、床は木造であり、唐朝の様式をほぼ踏襲している。日本民族は近現代化を追求する一方で、根底において伝統を守り続けている。京都は、日本民族文化の象徴であり、日本人が誇る精神の故郷である。今日の京都は日本の大都市の一つであり、近代的な建物も林立しているが、街道の配置は依然として1000年以来の基調を保っている。町の至る所に、数多くの寺や庭園などの古建築遺産が見られる。これらの歴史的遺跡をめぐる時、我々は、中国文化の全面的な影響を見て取ることができると同時に、日本独自の美的感覚の織り交ぜられた絶妙なスタイルを発見するのである。同じ料理でも調味料が違えば独自の味を出すのと同様である。

 京都の都市配置は、当時繁栄のピークにあった唐の都、洛陽を模している。進んだ文化に対する当時の日本人の憧れは、形式面での自我喪失にもつながり、京都の中心部はそのまま洛中、洛陽と呼ばれるようになった。建築の材料やスタイルも中国を起源としている。自然に近い木材の構造や、翼のごとく飛んで行きそうな屋根の形がそれである。異なる文化の融合が体現化された建築物は、哲学的理念の結晶であり、悠久の歴史を物語る証人でもある。

 京都は、日本古建築の“博物館”であり、1200年余りの歴史がはくぐんだ古都らしい趣を現在にまでとどめている。古寺や庭園は京都の町中に真珠のように散らばっている。京都の多くの古建築は世界文化遺産に指定されている。龍安寺の枯山水庭園は独特の奥深い空気をたたえ、桂離宮の日本式大庭園は落ち着きある静けさに満ち、華麗な金閣寺は京都のシンボルとなり、大覚寺の大沢池は中国古代庭園建築の風格を感じさせる。清水寺、三十三間堂、銀閣寺、平安神宮、西本願寺、西芳寺、京都御所、二条城などの神社仏閣の建築や庭園の美しさは、多くの観光客を引きつけてやまない。日本式の古建築は京都の精髄であり、京都の魅力のありかでもある。日本の仏閣建築は中国建築の影響を大きく受けているとは言え、屋根の弯曲の角度が小さい、軒が長い、曲線と直線の対比が目立つなど、日本独自の特徴も見て取れる。

 京都中心部の道路は碁盤状を呈し、南北を貫く朱雀大路が都を左京と右京に分けている。多くの名所旧跡があり、古い趣のある寺や神社、建物が、近代的な建物に混じって存在し、美しい都市風景を描き出している。ここには日本全国で最も豊富な歴史と文化の遺産が集中している。著名な旧跡には、京都御所、二条城、平安神宮、桃山城、修学院離宮、鹿苑寺、慈照寺などが含まれる。京都は、宗教の影響を大きく受けた地でもあり、西本願寺や東本願寺を初めとして寺が1500カ所以上、平安神宮など神社が200カ所余りあり、教典や文化財を数多く収蔵している。

 京都の多くの寺には、秀麗で雅やかな庭園が設けられている。市内の西北部にある鹿苑寺は、金箔で装飾した舎利殿、金閣で名を馳せている。市西部の龍安寺の石庭は330㎡に及び、白い砂礫が敷き詰められ、故事に基づいて彫刻が施された15個の巨大な石が配置され、独特な雰囲気を醸しだし、山水庭園の代表作とされている。京都の多くの建築物は、中国の隋唐時代と仏教建築の様式を取っている。室町時代の北山文化の代表作である鹿苑寺金閣は、同時期の文化の結晶である慈照寺銀閣と並び立ち、金銀両閣は京都の西と東とに位置し、互いに呼応し合っている。金閣は三層の楼閣建築であり、大きさの異なる一層と二層は日本様式、三層は中国様式となっており、禅宗の風格を体現している。

 京都は都の設置から19世紀までの1000年余り、文化の中心としての役割を果たした。日本の木造建築、とりわけ宗教建築と、庭園芸術とが発展した京都は、世界中の庭園の設計に影響力を誇ってきた。この地においてはさらに、各種文化の融合が促進され続けてきた。歴史ある建築と庭園を有する京都には、日本の各時代の歴史が刻まれている。

 例えば本願寺は、日本最大の仏教宗派の一つである浄土真宗の大本営であり、京都の堀川通りを挟んで東西に位置する東西本願寺は、信者の多さと建築の壮大さ、収蔵品の豊富さで、日本で最も有名な寺に数えられ、国宝とされている。西本願寺の寺門の正面には唐代様式の獅子があり、側面には、中国古代の尭舜の禅譲と許由洗耳の故事が彫られ、唐文化の色彩を色濃く表現している。

 多くの古建築が木造構造であることから、京都の多くの遺跡は火災による損失や国内戦争による破壊に遭ってきた。だが四方を山に囲まれていることで、こうした破壊的な事件の影響はそれほど大きくはない。10世紀中期から建てられてきた古建築と庭園とは現在まで存続し、保存状態も良好なのは、自然の形成した地理環境に負う点も大きい。

 市中心には、多くの16世紀後期の建築が、火災による破壊を逃れて現存し、現代の環境と融合している。欧州の歴史的都市では、石造の古建築が近代都市に囲まれた様式が一般的である。京都がとりわけ特徴的なのは、古建築が近代化された都市を取り巻く形となっていることである。さらに京都は日本文化の中心であり、伝統的な文化活動、節句や茶道、花展などが、近代都市のリズムに溶け込んでいる。このことは京都の人々にとって、暮らしの上でも精神の上でも、消し去ることのできない意義を持っている。

 例えば、鹿苑寺である。この寺は、京都市北山の小さな湖の上に建っている。幕府将軍足利義満の別墅北山殿として1397年に作られ、その後、寺院となった。この建築物の外側に金箔が貼られていることから、金閣寺と呼ばれるようになった。三層構造の楼閣建築であり、第一層は法水院、第二層は潮音洞、第三層は究竟頂と呼ばれる。三層の様式はそれぞれ異なる。一層は日本伝統の寝殿造であり、すっきりとした間取りの寝室(畳敷き)となっている。素朴な色彩で、一面は池に面しており、居住者が山水に親しめる工夫がなされている。二層は、きっちりとした固い書院式で、理性的だが生気に欠けた印象も与える。三層は、三間四方の禅宗仏堂様式で、水面に浮かぶかのごとき宝形造りの屋根が印象的である。上二層には金粉が塗られ、水上にゆらゆらと落ちる影は色鮮やかで、動と静との結びつきを実現している。楼閣全体は、変化に富んでとらえがたく、同時に軽快な印象も与える。中国の仏教建築にも金殿があり、色彩もこれに似ているが、金閣寺は、日本の建築独自の軽妙な味わいがある。

 三島由紀夫の小説「金閣寺」は、この美しい建築が1950年に焼失した事件を扱ったものである。放火したのは一人の僧侶であった。この僧侶は法庭において、金閣寺を焼かざるを得なかったのはそれがあまりにも美しかったからだと証言したと言う。こうした思考は、世俗的な中国文化からは理解しがたいものである。西洋のキリスト教文化の超現実的世界観は積極的な追求につながるものだが、日本の超現実世界観は悲劇的な色彩を帯び、死地において初めて生まれるものなのかもしれない。西洋には、「a thing of beauty is a joy forever」(美しきものは永遠の喜び)ということわざがある。だが日本人はおそらくそうした感覚は持たないのであろう。なぜなら彼らは、悲劇の中に生存の道を探す民族だからである。例えば桜の花は、その命が短いからこそ美しい。これは、日本人独自の奇怪な弁証法と言えるのかもしれない。

 金閣は陽光の下で輝き、豪華で立派な姿を見せる。その影は静かな湖に落ち、目を楽しませる。鹿苑寺のある場所にはもともと、鎌倉時代に西園寺家が所有していた邸宅が建っていた。藤原公経(西園寺公経と改名)の建立したもので、一時は栄華を極めたが、数代の後には手入れを欠き、見捨てられた。応永元年(1394年)、足利義満は西園寺家と、当時「北山第」と呼ばれていたこの山荘を、河内国にあった領地と交換し、改造を開始した。義満はその後、征夷大将軍の地位を子の足利義持に譲って出家し、太政大臣の肩書きだけを保って政治に参加するようになる。応永四年(1397年)、義満は北山第を「北山殿」と改称し、主要建築物を「舎利殿」として自らの修禅の場所とした。義満が舎利殿をきらびやに作ったことから、当時の人々はこれを「金閣殿」と呼ぶようになった。義満の死後、その子は義満の遺言に従い、夢窓国師に頼み、邸宅であった北山殿を禅寺に改め、義満の法号を以って鹿苑寺と命名し、山号は「北山」とした。その後の応仁の乱において、鹿苑寺境内の大部分の建築物は焼失したが、主要建築物の舎利殿は焼失を逃れ、北山文化唯一の現存建築となった。日本政府はこのため、戦前にはすでにこれを国宝としていた。昭和62年(1987年)、外壁の金箔を完全に取り替え、現在の状態となった。金閣寺(舎利殿)は、鏡湖池に面した三層の楼閣建築である。一階は、当初の藤原時代の様相を残す「法水院」(平安時代の貴族建築である寝殿造)、二階は鎌倉時期の「潮音洞」(武士の建築様式である武家造)、三階は中国(唐朝)の様式の「究竟頂」(禅宗仏殿建築)となっている。屋根は宝塔状の構造となっており、頂には吉祥を象徴する金の鳳凰の装飾が施されている。時代の異なる三種の様式が一棟の建築物に調和的に統合されていることは、金閣寺の魅力の理由の一つとなっている。このほか衣笠山を借景とした庭園には独特の日本式の風景造りが施されており、室町時代の最も代表的な庭園となっている。

 金閣を中心とする庭園は極楽浄土を表現するものとも言われる。鏡湖池に影を落とす金閣の姿は、京都を代表する風景となっている。晴れた日には,華麗に輝く金閣と水上の影が澄み渡った青い空に映え、まるで絵葉書の中にいるような情緒が味わえる。金閣寺では入場券の代わりに、祝福の言葉の書かれた札をもらえる。場内の不動堂の隣には、中国語と韓国語のおみくじもある。

 外国人にとっては金閣寺は、富士山や芸者と並んで日本を表すシンボルの一つである。金閣寺は世界文化遺産であり、正式名称は鹿苑寺という。1379年に建てられ、もともとは足利義満将軍の山荘であり、後に禅寺に改められた。寺の前は、鏡湖池を中心とした庭園であり、華麗な金閣が鏡湖池に影を落とす風景は京都の代表的な景観となっている。金閣寺は、国家級特別史跡・特別名勝に定められている。独特の数奇屋造りとナンテンの床柱で有名な茶室、夕佳亭も是非訪れたいところだ。

 このほか19世紀末に作られた京都国立博物館には、日本の古代から中世までの文化財と中日文化交流を示す貴重品が収蔵・陳列されている。1966年、博物館は独特な西洋古典式の建築として建て替えられ、現在まで保存されている。京都の自然環境と都市の構造は依然として昔の面影を保ち、古跡の保護と現代建築のイノベーションとが絶妙に融合されている。京都は、自然・歴史風土保護区域と中心部新旧調和混合区域、都市新機能強化区域の3つに分かれる。新たに発展している工業は、都市西南部と衛星都市に位置している。高速道路や新幹線の線路は都市の地下を走る。6階建て以上の建築は禁止され、屋根瓦の色も審査・認可が必要である。マクドナルドのマークの黄色も京都では統一感を出すために小豆色にされ、テレビ塔もお香をともすロウソクの形となっている。世界文化遺産のリストには17の建築物が名を連ね、1700余りの国宝と重要文化財がある。

 日本は長年にわたり、侵略されることなく、植民地支配を受けることもなかった。日本の独特な文化は、外来文化の侵入を受けることなしに発達したのである。さらに世界大戦期間中においても、京都は空爆を受けることなく、その古建築も破壊されることはなかった。類似した木造建築の都市の中で、京都は、文化の中心として1200年余りにわたって機能した唯一の都市として、とりわけ輝きを放っている。


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