【13-07】中国と日本の「端午節」

2013年 7月11日

朱 国巧

朱 国巧(ZHU Guoqiao):
山東金星書業文化発展有限公司 編集者

中国山東省聊城市生まれ
2002.9-2007.6 聊城大学 学士
2007.9-2009.8 山東省図書館 館員
2009.9-現在 山東金星書業文化発展有限公司 編集者

 中国の端午節は毎年、旧暦の5月5日に祝われ、「端陽節」「午日節」「五月節」「五日節」「艾節」「端五」「重午」「午日」「夏節」などとも呼ばれ、疫病退散や厄除けのための夏季の節句として重んじられてきた。端午節は、中国漢民族の伝統行事である。粽子(ちまき)を食べたり、竜舟(ドラゴンボート)の競争をしたり、菖蒲(しょうぶ)やヨモギを吊るしたり、蒼術(ソウジュツ)や白芷(ビャクシ)を燻したり、雄黄酒を飲んだりすることは、この日に欠かすことのできない慣習となっている。

 このうち、ちまきと竜舟は中国古代の偉大な詩人、屈原を記念する慣習とされる。「楚辞」という文体を作り出し、「香草美人」の伝統を開いた屈原は、中国で最も偉大なロマン主義詩人の一人であり、中国最早期の著名な詩人であり、世界的に有名な文化人でもある。。

 現在に至るまでこの種の伝説は1500年以上も語り継がれている。言い伝えによると、屈原が汨羅江に身を投げた後、現地の人々がすぐに船を出してこれを探し、洞庭湖にまで捜索の手を広げたが、屈原の遺体を見つけることはできなかった。この日は雨が降っており、湖の岸辺のあずまやの側には雨を避けた舟が集まっていた。人々は、賢臣屈原の捜索が行われていると知り、雨にもかかわらず、視界の悪い洞庭湖へと漕ぎだしていった。川に舟を出して屈原に思いを寄せる習慣はここから生まれ、ドラゴンボートへと発展していったとされる。人々はまた、屈原の遺体を川魚が食べてしまうことを恐れ、握り飯を持って来て川に投げ入れたという。これがちまきの習慣の発端という。

 端午節のちまきはすでに、中国人の伝統的風習となっている。ちまきは中国史上、文化的色彩の最も濃い伝統食品と言えるだろう。春秋時代にはすでに、菰葉でキビを牛角状に包み、「角黍」と呼んで食していたという記録がある。竹の筒で米を密封して作るものは、「筒粽」と呼ばれた。晋代に至ると、ちまきは正式に端午節の食品となった。この時代、ちまきの原料はモチ米のほか、漢方薬材の益智仁(ヤクチニン)も加えられ、できあがったちまきは「益智粽」と呼ばれた。 米の中には家禽や家畜の肉、クリ、ナツメ、アズキなども加えられるようになり、種類が増加した。唐代の最盛期に、ちまきに使われる米は「玉のように白く輝く」と形容されるようになり、ちまきの形も円錐形や菱型などと多様化した。日本の文献にも「大唐粽子」に関する記載がある。宋代には「蜜餞粽」が現れ、果物が加えられたものも出てきた。詩人の蘇東坡の詩にも「時於粽裏見楊梅」(今時の粽には楊梅が入っている)という言葉が残っており、ちまきの中に楊梅などが入れられていたことが伺える。

 現在も、旧暦五月五日の端午節には毎年、人々が家でもち米を水に浸し、葉を洗い、ちまきを包んでいる姿が見られる。そのスタイルや種類は非常に豊かである。餡の材料から見ると、北方においては、小さなナツメを入れた「北京棗棕」が主流である。南方においては、小豆や肉、八宝、ハム、卵の黄身などさまざまな材料で餡が作られる。ちまきの風習は1100年にわたって中国で栄え続け、朝鮮や韓国、東南アジア諸国にも広がっていった。

 端午節はいつ、日本に伝わったのだろうか。諸説あるが、確かなのは、端午節が相当早くに日本に伝わっていたということである。このことは日本の「六国史」(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『文徳天皇実録』『三代実録』、9世紀までの史事を記録)にも関連する記載を見つけることができる。1000年余りの年月を経て、日本の端午節は独自の発展を遂げた。日本は敗戦後、この日を「子供の日」と定め、子どもの成長を祈願する日とした。そのため、日本の「端午節」を外国語に直す際には「男の子の祝日」と訳すのが一般的となっている。もしもこの日に日本を訪れた人があったのなら、空を舞う鯉のぼりを町のあちこちで見ることができるだろう。

 日本の古文献をひもとくと、端午節についての明確な記載があるのはまず、『続日本後紀』である。仁明天皇承和六年(839年)の五月の部分には「乙酉、是端午之節也。天皇御武徳殿,観騎射」(乙酉、これ端午の節なり。 天皇、武徳殿に御し、騎射(うまゆみ)を観る)と書かれている。もっとも日本における端午節は最初、支配階級であった貴族の楽しむ節句であり、活動は一般的に、宮廷内に限られていた。平安時代(794—1192)の貴族階級がまず、中国の端午節を取り入れたのである。その後、この節句は民間にも広がっていった。江戸時代に入ってからは、端午節の各要素が日本の庶民の生活の中に見られるようになる。端午節はこうして、皇室から幕府、武士、庶民、農民までが楽しむ節句となり、ちまきを食べる習慣も広く行われるようになった。

 日本は、外来文化を受け入れる際、独自の色を付け加えるのに長けている。中国の端午節には菖蒲を吊るし、菖蒲酒を飲む習俗があるが、日本でもこの厄除けの習俗が採用された。さらに「菖蒲」の読み方が「尚武」と一致することから、端午節に大和民族ならではの要素が付け加えられた。毎年、端午節が訪れると、男の子のいる家庭では「五月人形」を飾る。日本の端午節の独特な点は、鯉のぼりを立て、武者人形を飾ることである。日本では、端午節は主に男の子の節句であり、女の子の節句は三月三日に祝われる。このため、毎年端午節には、男の子のいる家庭はどこでも、鯉の形をした旗を飾る。男の子の数だけ鯉を飾るので、鯉のぼりの鯉の数でその家に男の子が何人いるかがわかる。家の中には武士の人形を飾り、子どもが立派な武士になれるようにと祈願する。もっとも日本の学者の中には、武士の人形はもともと、穢れと災いを移して取り除くものとして、川や海に投げ入れていたという。これが事実だとすれば、中国の厄除けの習慣と一致する。

 日本の端午節「子どもの日」は現在、新暦5月5日に祝われ、ゴールデンウィークの最後の祝日となっている。西暦834年にはすでに、日本の文献『霊義解』に、中国から伝わった1月1日(元旦)と3月3日(上已)、5月5日(端午)を祝日とすることが定められている。日本に住んだことのある人は皆知っているように、毎年子どもの日には、色とりどりの多くの鯉のぼりが空を舞う美しい光景を見ることができる。14世紀の室町時代においては、武士の家だけがこうした旗を竹竿に掲げることができた。江戸時代になってから、庶民の間にもこうした習慣が広がった。形もさらに美しくなり、現在の姿が形成された。鯉の形をした旗を立てる習慣は、中国ではすでに姿を消しているが、「鯉魚跳竜門(鯉が竜門を跳ねる)」という伝説を由来としている。鯉は毎年3、4月になると、黄河中流の竜門に集まってくる。もしも流れに逆らって川を上り、北山の滝を越えることができれば、竜になることができるという伝説である。風を受けて舞う鯉のぼりの1本1本は、子どもたちが立派に成長することを願う年配者たちの願いを示している。日中両国の端午節の習俗に違いが生まれたのは、日本の伝統文化と切り離せない関係を持っている。とりわけ戦乱の激しかった室町時代においては、端午節は武士によって提唱されたものである。日本語では「菖蒲」と「尚武」が同じ発音である。毎年この日が来ると、武士たちは自らの鎧やかぶとを日光の下に干す。江戸時代になると、男の子が小さい頃から尚武の精神を磨き、将来は高度な武芸を身につけ、立派な英雄となることができるようにと節句が広く祝われるようになった。この日、七色の矢車と赤黒二色の「真鯉」と「緋鯉」からなる鯉のぼりが、青い空に高々と舞う。家の中には、古代の鎧兜をまとった武者人形と武士の道具が飾られ、男の子の健康な成長が願われる。鯉のぼりを立てるのは、子どもが、鯉と同じように健やかに成長することを願うもので、中国の「望子成竜」(子どもが竜となることを願う)と同じ意味を持っている。下から鯉のぼりを見上げると、青い空を背景に風に舞う鯉は、まるで水の中を元気に泳いでいるかのように見える。「五月人形」は、尚武の精神を表す人形で、次のように分類される。まずは「大将飾り」と言われるもので、神武天皇や歴史的な英雄、有名な武将、桃太郎のような伝説上の人物を中心に飾る。人形の両脇には、武器や弓矢、刀などを配する。次に、「兜飾り」と呼ばれるもの。人物をかたどった人形はなく、手の込んだ作りの兜だけを台の上に置き、両側に弓矢や刀などを飾る。第三に、「鎧飾り」といわれるもの。これも人物をかたどった人形はなく、台の上に華麗な鎧兜だけを置き、両側に弓矢や刀を配する。第四に、「童人形」といわれるもの。かわいい男の子の人形であり、菖蒲刀などの武器を手にしていることが多い。

 このほか厄除けのため、軒下に菖蒲を飾ったり、菖蒲湯に浸かったりするのも端午の節句の習慣である。厄除けと言えば、日本ではこのような伝説がある。昔、平舒王という君主がおり、不忠の臣を殺したが、これが死後に毒蛇となって、人々を悩ませた。知恵のある大臣が、赤色の蛇の頭をかぶり、菖蒲酒を体にかけてこの蛇と戦い、最後にはこれを倒した。このことから、端午の節句の時期となると、菖蒲を挿し、ヨモギを燻し、菖蒲酒を飲むようになり、これが広まって伝統的な風俗となった。日本人は、ヨモギは百の福を招き、菖蒲は千の厄をはらうとして、この習慣を受け継いできた。

 時代は進み、日本の習慣も時とともに変化している。現在の端午節はすでに男の子だけの節句ではなく、女の子も含めた節句としても定着しつつある。天空を舞う鯉のぼりのうち、黒い「真鯉」は男の子、赤い「緋鯉」は女の子とされる。ただ女の子には、この子どもの日とは別に、中国の上巳節から発展した三月三日の「ひな祭り」がある。日本は4月終わりから5月初めにかけ、国民全体の長期休暇「ゴールデンウィーク」を迎える。昭和の日、メーデー、憲法記念日、みどりの日、子どもの日まで祝日が重なり、時にはこれに臨時休暇が追加され、日本では珍しい1週間にわたる休暇の機会となるのである。

 いかなる伝統的な節句も、その時代の要素を加えなければ、存続していくことは難しい。日本の子どもの日は、ビジネスやイベントの機会としても重んじられている。販売業者や市民団体、政府部門、公共施設は早くから準備を始め、さまざまなイベントを展開する。こうした人々の活力を動力として、日本では子どもの日が現在もにぎやかに祝われているのである。


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