【13-08】日本知識人の「屈騒」精神

朱新林(山東大学(威海)文化伝播学院)     2013年 8月16日

朱新林 

朱新林(ZHU Xinlin):文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09—2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09—2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09—2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 『楚辞』が日本に伝わってから、すでに1300年余りとなる[1]。長期的な伝承の過程で、日本の学者はこれを翻刻し、または句読し、または訓読し、または校勘するなどして[2]、日本における楚辞学の発展を大いに推進してきた[3]。海外の楚辞研究においては、日本は現在、楚辞学研究の重鎮とも言える位置を占めている。個人の生きる時代の違いやそれぞれの境遇の差異から、日本の学者は、楚辞の研究・閲読において、ある時には愛国の心情を表現し、個人の政治的また学術的な主張を述べ、またある時にはこれに慰めを見出し、楚辞を自己の精神のふるさととしたのであった。「屈騒」(屈原の詩文)の精神は時空を超え、日本の志士や知識人の心中に根を下ろし花を咲かせ、脈々と生き続け、屈騒精神の内実を地域と時代に応じて豊かなものとしてきた。日本人の屈騒精神は、中国古代のそれと相似した所もあれば、相違する所もある。本稿では、江戸時代以降の代表的な日本楚辞学研究の著作を取り上げ、日本の知識人にとっての屈騒精神とは何かを考察する。

 日本の知識人の屈騒精神を語るためにはまず、長期にわたって形成されてきた中国の屈騒精神そのものから着手する必要がある。屈原の死後、屈騒精神はすぐに、民間において根を下ろし、花を咲かせ始めた。「楚人高其行義,瑋其文採,以相教伝」「爰自漢室,迄至成哀,雖世漸百齢,辞人九変,而大抵所帰,祖述楚辞,霊均余影,于是乎在」[4]などはいずれもその精神と作品を称え、奨励するものである。『楚辞』において表現された屈原の祖国への愛や光明の追求、独立独歩の姿勢などの献身的精神や人柄・品格は、異なる時代の人々を鼓舞し続けてきた。多くの志士や知識人がそこから影響を汲み取り、屈騒精神の内実を豊かにし、それぞれの時代の変奏曲を一つ一つ書き上げてきたのである。「先覚者や奮闘者の孤独感や危機感は、『離騒』を代表とする屈原作品の基調・主旋律であり、それがまさに屈騒精神の魅力をなしている」[5]

 宋代になると、朱熹が、屈騒精神に新たな解釈を加えた。朱熹は『楚辞集注』で、「原之為人,其志行雖過于中庸而不可以為法,然皆出于忠君愛国之誠心」[6]、すなわちその志や行為には中庸を超えて行き過ぎたところもあるが、忠君と愛国の誠の心から出たものである、という解釈である。また洪興祖は『楚辞補注』で、「余観自古忠臣義士,慨然発憤,不顧其死,特立独行,自信而不回者,其英烈之気,豈与身倶亡哉!」とし、その死をも恐れない忠臣ぶりと独立独歩の気概を称賛している。これは屈騒精神の儒家社会における外延的発展の発露であり、屈騒精神に多元的発展の様相を与え、屈騒精神を一層豊かにするものとなった。

 五四新文化運動から中華人民共和国の建国までの間にも、梁啓超や王国維、魯迅、郭沫若、聞一多などが、屈騒精神に対して様々な角度からの論考を試みている。その中心は、当時の時代的背景と文芸論争と結びついたもので、祖国の滅亡を救い生存をはかるという社会的色彩の強いものであった。80年代に入ると、楚辞学界は、屈原の愛国主義精神に対する大規模な討論を展開し、社会学や文化人類学、考古学など様々な方面の知識を応用し、屈原を単一的に評価する従来の思考パターンを打破し、屈原の内的世界に対する検討をさらに重視し、屈騒精神に多層性を加えた。すなわち屈騒精神は、屈原の愛国・憂民思想を含むのみならず、詩人の強烈な自我意識に満ちたものでもある、という見解である[7]

 21世紀に入っても屈騒精神は継承されている。崔富章は『屈騒精神 亘古常新』の中で、屈騒精神を三点に総括している。第一に、政治的理想。「挙賢授能,循縄墨而不頗」、すなわち、賢者に権力を与え、偏りのない法にのっとって政治を行うという理想である。第二に、独立独歩。小人と世間に迎合して汚れることを拒否し、死をも辞さないという覚悟である。第三に、愛国の心情。すなわち、賢者による政治という理想と独立独歩という人格によって形成された、愛郷・愛民・愛国の心情である。屈騒精神の核心的内実を構成するのはこれら三点であり、これこそが、屈原が後の世の人々に残した重要な文化遺産であるという見方である。

 屈騒精神は脈々と生き続けている。今後の歴史の大河においても、それぞれの時代の知識人や志士らは、国家が危機に立った時、また個人の志が困難に直面した時、屈原の作品に答えを見出し、精神的な慰めを求め続けていくだろう。屈騒精神の形成が後世にもたらした形式上の影響は主に二つに分けられる。一つは、楚辞注釈する著作が大量に蓄積されたこと。もう一つは、屈原の詩文を用いて心情を表現する「紹騒」と言われる作品の創作である[8]。楚辞作品の注釈や紹騒作品の創作は、屈原に対する作者の評価が示されると同時に、これら後世の知識人自身の価値理念を表現するものでもあった。

 屈騒精神は、中国における個人の品格と文学の創作に巨大な影響を与えただけではなく、遠く日本においても、影響力を持った『楚辞』のテキスト、注釈本、訓読本、紹騒作品を生み出し、日本の知識人の心中に根を下ろし、実を結んだ。日本の知識人の心中の屈騒精神は、ある時は才人の不遇に起因したものであり、またある時は戦争に起因したものであり、そしてある時は忠君勤王を表現したものであった。中国古代に形成された屈騒精神とは相似もあれば、相違もある。以下では、具体的な著作を取り上げてこれを紹介する。

一、政治的失意と不遇の才人の精神的故郷―蘆東山を例に

 政治生命の終結と人生の歩みの挫折は、知識人の心に深い烙印を押すものである。政治的前途に対する幻滅の中で、知識人は往往にして『楚辞』をひもとき、自分なりの答えを見つけ、自らの心理の均衡を取ろうとする。また屈原の文学的業績を確かめることで、政治的失敗に対する埋め合わせをしようとする。崔富章はこう指摘している。「歴代の文人や学者、志士ら、国家のために手柄を立てようとした人々は、多くが屈原精神の熏陶を受けていた。これらの人々が困難に遭遇し、鬱憤を抱えた時には、往往にして屈原に知己を見出し、屈原を模範とし、屈騒精神を自らの拠り所とし、屈騒の伝統を受け継ぐことを選んだのである」[10]。蘆東山や亀井昭陽の『楚辞』に対する研究や屈原の評価もまた、この範疇に属する。

 蘆東山(1696-1776)は名を徳林、字を世輔または茂仲と言う。号は東山が有名だが、渋民や玩易斎、赤蟲、貴明山下幽叟などの別号も持つ。本姓は岩淵氏、通称は幸四郎で、盤井郡渋民村(現在の岩手県東盤井郡大東町渋民)に生まれた。幼い頃から聡明で、稗史を良く読んだ。幼少の頃、明石藩松平家の家臣であった桃井素忠に師事し、終生敬慕の念を忘れなかった。仙台藩に儒者として奉じ、第五代仙台藩主伊達吉村に仕えた。主要な著作には、『無刑録』[10]『楚辞評園』『玩易斎遺稿』[11]などがある[12]。元文三年(1738)、東山は、藩校における席次と儀礼などの問題に関して上書し、従来の家柄に応じた席次や間違った儀礼を改めるよう主張し、当時の忌諱に触れ、加美郡宮崎への移動を命じられ、二十年余りにわたって幽閉された。この期間、主著となる『無刑録』の著述に打ち込んだ。

 東山は狷介な人であり、権力を恐れず、仙台藩主に対して「国政は直からざれば、必ず政体を失す」と進言したこともあった。三宅尚斎は、「彼、剛直人に過ぐ、恐らくは自ら全すること能わざらん」といったという。また鳩巣は、「彼、終りを善くするものに非ず」と語ったとされる。東山の政治生涯と人生の歩みは屈原と相似しており、幽閉時には、厳密な監視を受け、手紙のやり取りも厳しく制限されていた。さらにこの間、東山は、一男三女二婢を失うという悲劇にも遭った。人柄の面でも政治的失意の面でも、東山と屈原とは多くの相似点を持っている。政治的失意と悲痛な経歴は、東山をして『無刑録』の著述に専念させるのみならず、その目を『楚辞』へと向けさせ、日夜これを熟誦し、手放さなかった。屈原の悲劇を東山は自らのものと受け止め、「吾はすなわち今日の屈原なり」[13]と言ったという。屈原と『楚辞』とは東山の生命の一部となり、東山は晩年、『楚辞』の注釈を自ら行おうと試み、『楚辞評園』をその書名としていた。この書の巻頭には、「楚辞総評」と「各家楚辞書目」が置かれ、前者は、司馬遷から金蟠までの四九家の楚辞評を抄録し、後者は、王逸楚辞十七巻や楚辞釈文一巻などの改題を録したものである。『楚辞』本文の版框外には、数は多くないが自らの按語も見られる。惜しいことに、東山はこの書が未完のうちに世を去ることとなった。

 『楚辞評園』のほかにも、東山の詩文創作には『楚辞』を典拠とした表現が数多く見出される。東山の境遇は屈原と酷似しており、これらの詩文では屈原に寄せて自らの状況がうたわれている。宝暦六年(1756)、藩主の交代に伴い、東山の謫居地も加美郡宮崎から栗原郡高清水へと変更となった。この時、東山は屈原の『哀郢』に思いを寄せ、「厳譴投荒二十年 今春此去転凄然 誰知孤客東遷日 哀郢吟成最可怜」(厳譴に荒に投ぜられて二十年 今春此を去るにうたた凄然 誰か知らん孤客東遷の日 哀郢吟成る最も憐む可きを)との詩を作っている。さらに自ら、「楚国凶荒之後、仲春屈原東遷、作哀郢詞。輿余同懐者、千古唯有屈大夫耳」(楚国凶荒の後、仲春に、屈原東遷して、哀郢の詞を作る。余と懐いを同じくする者は、千古に唯だ屈大夫有るのみ)[14]と注釈している。このほかの詩作でも『楚辞』を典拠とする作品は数知れない。

  • 也詠屈子頌、倣佛如有神、乃知洞庭橘、化為忠貞臣、在周採薇客、在楚懐沙人[15]
  • 一朝承厳譴、二紀忽流奔、白首竹渓畔、傷春欲招魂[16]
  • 未向東山招隠士、尚望南浦憶佳人[17]
  • 懐人誦楚辞、対酒涙空垂、千古貞臣涙、貞臣隻自知[18]
  • 衆女謡諑謂善淫、君王終不察其心、……黄昏望絶不禁愁、中夜狂走滄池頭、遂懐砂石自沈没,波漂雲鬟無人収[19]
  • 蒼狼未得濯吾纓、濁酒聊堪慰此生[20]

 東山の上述の詩文創作における『楚辞』の模倣と引用は、字句の表面における踏襲にはとどまらず、自己の境遇と重ね合わせ、異なる時空を結びつけ、命運と時局とを嘆き、「全面的に自己の境遇と心情とを『屈原』に一体化させたもの」[21]となっている。東山は、『楚辞』の中に自己の精神の拠り所を見つけ、世を嘆き邪を嫌う知己を見つけた。「東山ほど楚辞の影響を深く受けて詩文を創作した者は日本には数少ないだろう」[22]

二、忠君勤王の愛国的心情―河野鉄兜を例に

 江戸時代には、朱子学思想が幕府によって正統とされ、その忠君勤王の側面が強調された。この種の忠君勤王の思想への『楚辞』の影響は、実際に『楚辞』を研究して屈騒精神を評価した上述の蘆東山のようなケースにとどまらない。このほかにも、『楚辞』に対する注釈や解読は行わなかったが、これを誦読し、収蔵した文人は数知れない。河野鉄兜はその一例である。

 河野鉄兜(1824—1867)は初名を羆、後名を維羆、字を孟吉、号を秀野、通称を俊蔵、後の通称を絢夫と言い、播磨国(現在の兵庫県南西部)の人であった。河野家が「越智南海之着姓,出干孝霊帝」[23]と言われ、越智氏の系統であるとされることから、漢土の風をならって越孟吉とも自称した。鉄兜という名については、「及豊太閣征南海,河野氏喪其土彊,宗族播遷于諸州,亦皆以旧日之所称為氏。郡国之士,慕其華冑,詐称河野者,亦不少雲。特伝祖宗之遺物者為真,如夢吉之鉄兜是也。兜,精鉄所成,彫為獅子形……蓋祖宗所着以臨陣之物,世世相承,有明証焉」[24]、すなわち、太閤征伐によって各地に散らばった河野氏の正統であることを示すため、鉄製の兜をその証として継承していたことから取られたものとされる。

 鉄兜は幼い頃から聡明で、豊富な知識と強い記憶力を見せた。天保十一年(1840)、鉄兜は、丸亀の儒官であった秦其淵の門下に入る。その後、林田藩の儒学者となり、嘉永四年(1851)、当時の藩校の敬業館の責任者となり、後には同地に私塾を開いた。河野氏は、中国の古詩詞の創作に長けており、「詩宜有動人処,不必屑屑界唐宋,但邦人短処在虚字斡旋,不可以不猛省也」[25]と詩のさらなる学習を主張し、頼山陽の再生との誉れを受けた。1899年、鉄兜の子である天瑞が『鉄兜遺稿』を出版発行した。野口松陽(鉄兜の弟子、字は常共)は同書の序において、「先生之草角入浪華也,為篠崎小竹所愛。弱冠東遊,梁川星岩一見奨引,以藝苑仲華、公瑾目之」[26]と記している。『鉄兜遺稿』のほか、随筆『掫觚』などが伝わっている。天瑞は1901年、鉄兜の蔵書を京都大学附属図書館(当時の館長は島文次郎、野口松陽の子)に寄贈した。合計3641冊あり、『楚辞玦』はそのうちの一冊だった。この写本の巻端には「楚辞玦」とあり、末尾には「楚辞玦下 終」とあるが、上下巻の別は記されていない。慶応大学の蔵本は異なるが、内容は似通っており、版本の異なる抄本とみられる。河野鉄兜は強い忠君勤王思想を持ち、「南朝忠臣河野之後」と自認していた上、詩作においても忠君政治の愛国的理想を吐露しており、「小籌大策漫紛紛、一挙誰能掃海雰、聖慮焦思無昼夜、微臣争不効忠勤」[27]などの忠君の心情を吐露した詩句が数多くある。これは河野鉄兜が《楚辞玦》を収蔵し研究していた大きな原因であろう。

三、戦争反対と平和の追求―目加田誠を例に

 第二次世界大戦終結後、日本では民主化が進み、戦争で災難を受けた学者らは天皇制や軍国主義への批判を始めた。戦時に抑えつけられていた憤慨が一気に表出し、強烈な批判精神と平和追求の理想として表現されたのである。屈原とその作品の研究を通じてそれをなしたのが、目加田誠の『屈原』であった。

 目加田誠(1904-1994)は福岡県留米市生まれ、原籍は山口県岩国市である。1929年、東京帝国大学文学部支那文学科を卒業し、同校で研究を続けた。1933年、九州大学の助教授となる。この後、1933年と1936年、1942年の3回にわたって中国に留学し、この間、東京帝国大学東洋文化研究所が購入した徐則恂「東海楼」蔵書の整理に参加する。さらに黄節から顧炎武詩を、楊樹達から『説文』を学び、郁達夫や魯迅、周作人らとも交遊があった。1943年に帰国。1950年、文学博士の学位を得る。小倉外事専門学校講師、福岡女子大学講師、東京都立大学院講師、九州大学文学部長、佐賀大学講師、長崎大学講師、九州大学文学部教授、早稲田大学文学部教授、山形大学講師、大正大学講師を歴任した。

 目加田によると、屈原のイメージが二千年以上にわたって中国の知識人の心中で生命力を保ってきたのは、屈原自身の愛国的理念とそのロマン主義的作品のためである。このため、目加田は屈原精神を高く評価する。「屈原は、楚国が危難に陥った時、堅固な信念を持ち、祖国を愛し、人民を愛し、世間に迎合することなく、潔白を保ったが、悪臣の計略にはまり、投水して自殺した。こうした精神は同情に値する。それだけではなく、その作品『楚辞』は、絢爛な文辞と独特な風格を備え、ロマン主義的精神に富み、人を惹きつけてやまない。二千年以上にわたって、屈原の姿は中国人の心に生き続けてきた」(引言)。目加田は、民間の文学から話を始め、中国人にとっての屈原像を生き生きと描き出していく。後記にはこう書かれている。「屈原に関する詳しい事跡ははっきりとしていない。その作品も同様である。一体どの作品が屈原の手によるものなのか、我々ははっきりとはわからない。しかし二千年以上にわたって、『離騒』の作者としての屈原の人物像は、中国の学者や文人、一般庶民の心中に鮮やかに生き続けてきたのである」

 目加田はさらに、王夫之と郭沫若の二人を分析の基点として、屈原の不屈精神は中国の士大夫のうちに脈々と生き続けていると主張する。王夫之は明の遺民を自認し、義軍を組織して清政府に抵抗し、最期まで著述の日々を続けた。これは、屈原の憂国精神とつながるものである。郭沫若は、中日戦争期間中、敵に対抗するための団結を呼びかけるため、歴史劇『屈原』を創作し、空前の影響を生み出した。これもまた中国の近現代において屈原精神が生き続けていることの証である。目加田は、同書でこのように主張することによって、中日戦争に対する自己の態度を間接的に表現し、中国人民の抵抗をたたえた。屈騒精神が時空を超え、日本の知識人のうちに開花したものとして、銘記されるべきだろう。

四、道義と愛国の衝突―橋川時雄『楚辞』を例に

 橋川時雄(1894.3.22—1982.10.19)は号を酔軒と言い、日本近現代の著名な漢学者である。福井県足羽郡酒生村篠尾第五十二号七番地(現在の福井県福井市酒生町篠尾41-20-3)に生まれる。父は荘兵衛、母の姓は柳生であり、二人目の子であった。1913年3月、福井師範学校(現在の福井大学)本科第一部課程を修了。同年4月、福井県内で小学教諭の任に就く。1914年12月、福井師範学校の本多忠綱校長の推薦を受け、漢学者の勝屋馬三男(字は子駿、号は明賓)の簸水精舎に入る。

 1918年3月下旬、橋川は神戸で中国行きの船に乗る。1928年から1945年まで東方文化事業総委員を務め、『続修四庫全書』の摘要作成に参加した。1931年4月8日に帰国し、江瀚や胡玉縉とともに服部宇之吉を訪ね、『続修四庫全書提要』の作成について話し合っている。1942年3月、橋川一家は熊本に移住。1945年10月5日、橋川時雄は、中国教育部の特派員沈兼士に東方文化事業総委員会の移管を行った。さらに『続修四庫全書提要』の原稿約3万5千本を委ね、『続修四庫全書提要』の編纂開始以来の経過と計画にかかわる約300ページにのぼる詳細な説明書を教育部に自ら渡した。中国にわたっていた橋川は1946年4月には日本に帰国し、1947年4月に熊本から福井に移り、松岡町に寓居した。京都女子専門学校(現在の京都女子大学)教授、大阪市立大学教授を歴任。1957年4月、関西大学の文学博士学位を取得。学位論文は『中国文史学序説第一篇読騒篇』。この後、二松学舎大学講師、二松学舎大学教授、図書館館長を歴任。1971年、二松学舎大学教授を引退し、二松学舎大学名誉教授となる。1982年10月19日、急性心不全のため、長野県野尻山荘で死去。享年八十八歳。死後、漢籍蔵書約3300冊は二松学舎大学に寄贈され、二松学舎は「酔軒文庫」を設けて記念とした。橋川時雄は中国近現代の学術界で活躍し、康有為や梁啓超、胡適、魯迅らとも親しく交流した。橋川の研究は広範に及び、主要な業績としては、陶淵明研究や『続修四庫全書提要』の編纂、楚辞、敦煌曲写本、詩歌などが挙げられる。

 橋川の楚辞に対する研究は主に、「自沈」に関する話題に着目したものである。入水自殺した王国維を「現代の屈原」としたり、真珠湾事件で犠牲となった兵士を屈原の自死と関係付けたりもした[28]。橋川は『楚辞』の自序において、「現在、我々日本人の頭は、『亜細亜をどうするか』に対する激情で満ちている。小生もまた、戦後の東亜が作るべき文化の諸問題について悩み、これに尽力する所存である。豊富な創作の後に汨羅の深淵に身を投じた楚国の詩豪屈原は『東君』において、青雲の上衣に白霓の裳をまとった東君を望んだ喜悦を描き出し、歴史に対する希望を表現した」[29]と書いている。「筆者の頭の中では、汨羅の英霊と真珠湾の底に沈んだ英霊とが重なって見える。本書が時代性と大衆性とを備えるのにこうしたことが役立つかはわからない。筆者が求めているのは歴史の真理と真相とを追求することであり、それ以外ではない」[30]

五、むすび

 上述のように、日本の知識人の心中の屈騒精神には、中国の伝統的な士大夫の屈騒精神との相似点がある。第一に愛国忠君、第二に才人の不遇、第三に独立独歩である。だが特殊な状況における相違もある。橋川時雄は『楚辞』において、屈原に対する尊敬を表すと同時に、太平洋に沈んだ第二次大戦の兵士に対する同情を述べ、これを「英霊」とし、道義と愛国との矛盾を体現した。日本の知識人における屈騒精神のこうした「異化」は、全世界の屈原研究でも唯一のものではないだろうか。


[1]稻畑耕一郎「日本楚辞研究前史述評」『江漢論壇』,1986年第7期,55頁。

[2]竹治貞夫「楚辞の和刻本について」(『德島大学学芸紀要』(人文科学)第15巻,1966年)参照。

[3]藤野岩友「楚辞の近江奈良朝の文学に及ぼした影響」(『東洋研究』第40号,1975年4月)参考。

[4]範文瀾『文心雕龍注』人民文學出版社,2006年,672頁。

[5]崔富章「屈騷精神 亘古常新」『甘肅社会科学』,2006年第1期,46頁。

[6] 朱熹『楚辭集注』上海古籍出版社,1979年,第2頁。

[7]趙輝『楚辞文化背景研究』湖北教育出版社,1995年7月。

[8]姜亮夫『楚辞書目五種』(上海古籍出版社,1993年2月)および崔富章『楚辞書目五種続編』(上海古籍出版社,1993年2月)参照。

[9]崔富章前掲論文,48頁。

[10]『尚書』大禹謨、刑期無刑より。

[11]凡そ十九巻。その中の第七、十、十三、十五、十六、十九巻所収の詩歌雜文類の多くは『楚辞』を出典としている。

[12]東山の事蹟としては、多田東溪『芦東山先生事實』、田辺希文「蘆世輔碑銘」等も挙げられている。植木直一郎「蘆東山の伝」(『國學院雑誌』第24巻第8号,1916年)参照。

[13]斎藤竹堂撰『蘆東山傳』,五弓雪窓編『事實文編』三十七。

[14] 『玩易斎遺稿』巻七。

[15] 『玩易斎遺稿』巻七。

[16] 同上,巻七「幽懐投知」。

[17] 同上,巻七「辛己元日懐先師作并序」。

[18] 同上,巻十三「日暮対酒有所思,因次学山韻」。

[19] 同上,巻十三「答仲賓」。

[20] 同上,巻十三「采女怨」。

[21] 同上,巻十三「謫居新歲作」。

[22]稻畑耕一郎「蘆東山と楚辞―『楚辞評園』のことなど」『中国文学研究』第9期,1983年12月。

[23]稻畑「日本楚辞研究前史述評」。

[24]内海青潮『詩人河野鐵兜』東京龍吟社,1932年11月,秦其淵「河野書院記」より。

[25]内海前掲書,野口松陽「鐵兜遺稿序」より。

[26]同上。

[27]同上,11-24頁。

[28]橋川時雄「今屈原王国維先生のことども」『古代学』第三巻第二号,1954年。

[29]橋川時雄『楚辭』日本評論社,1943年3月。

[30]同上。


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