【13-09】日光東照宮に見る中国からの影響

2013年 9月18日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09—2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09—2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09—2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 日本と中国は一衣帯水の関係にある。日本は、文化の内実において中国の文化・儀礼を吸収しただけではなく、具体的な形式においても中国の古典を拠り所として自らの独特なスタイルを形成した。「日本の文明は、創造されたものと言うよりも、模倣の道を選択したものと言うべきである」。これはほぼ争いの余地のない事実と言える。しかし同時に注目すべきなのは、日本の建築が中国とは大きく異なる自然条件と文化環境の中で発展したことである。

 歴史を振り返ると、日本は隋唐と宋元の時代の二度にわたって大規模に中国文化を取り入れ、その後にいずれも文化を消化・吸収するいわゆる“鎖国”の時期を過ごした。日本の建築文化の主な源は中国の建築体系にあり、日本建築の発展と進化は中国建築の影響を絶え間なく受けてきた。しかし異なる民族の文化である限り、そこには民族の特色が必ず反映される。異なる自然条件と文化環境は、日本建築に独特な風格とスタイルを与えた。日光東照宮はそのうちの顕著な一例である。筆者は2010年1月、日光東照宮を訪れ、そこに体現された中日文化交流の証に深く感銘を受けた。

 日光東照宮は栃木県日光市に位置し、その建造は1617年にさかのぼる。日本最後の幕府である江戸幕府を開いた将軍、徳川家康を祀る神社である。徳川家康は元服後、武力によって各地の大名の領地を攻略し、天下統一を成し遂げた。死後は、江戸幕府の守護神、東照神君として尊ばれ、神社は東照宮と呼ばれるようになった。日本全国には数多くの東照宮があるが、日光にあるのは本社である。三代将軍家光の時代に、現在見ることのできるような豪華絢爛な社が建設された。現在、東照宮の建築物はすでにすべてが日本国宝・重要文化財に指定され、1999年12月には日光東照宮を含む「日光の社寺」が世界遺産に登録された。

 鎌倉幕府の時代には東照宮は東照社と呼ばれていた。古くは鎌倉幕府の日光山造営にまで遡るが、室町幕府を経て、徳川幕府の時代になり現在の主な社殿群が建造された。祭祀対象は、徳川家康を主祭神として、豊臣秀吉と源頼朝も合わせて祀られている。

 豊臣秀吉の死後、徳川家康は武力によって再度、各地の大名の領地を攻略し、全国統一を成し遂げた。家康は元和二年(1616年)4月17日に没し、江戸幕府の守護神、東照大権現として祀られるようになった。

 徳川家康は最初、現在の静岡県静岡市駿河区にある久能山東照宮に葬られた。だが翌年、下野国(現在の栃木県日光市)へと改葬された。同年4月に社殿の建造が完了した。朝廷から「東照大権現」の神号と「正一位」の位階(日本の序列制度、中国の「品秩」に相当する)が追贈され、改葬は同4月8日に行われた。さらに一周忌である同4月17日には改葬の式典が行われた。

 寛永十一年(1634年)9月、江戸幕府第三代将軍徳川家光が東照社を参拝した。寛永十三年に調査したのち、、社殿の拡大工事が始まった。正保二年(1645年)には朝廷が宮号を東照社に授与し、「東照宮」と呼ばれるようになった。慶安二年(1649年)、日光連山の一つである白根山が噴火し、社殿と祭殿に火災が発生した。1868年に戊辰戦争が勃発した際は、旧幕府軍が東照宮を拠点として立てこもったが、新政府軍の指揮官であった板垣退助が戦場を移して戦おうとの説得に成功し、文化物のさらなる損失を回避したという。

 日本の神社は、自然神や氏族の祖先、英雄を祀った建築物である。神社には建て替えの制度があり、一定期間(20年、60年など)ごとに建て替えられるのが一般的である。そのため、現存の神社の建物は最初の風格を残してはいても、いずれも後世に建て直されたものである。

 初期の神社の構成面と外観はいずれも比較的シンプルで、木造の板が使われ、下部は高床式で、屋根は木造茅葺きの切妻造で、屋根の面に曲線はなく、彩色や彫刻も施されていない。大きく分けて二つの様式がある。一つは「大社造」と呼ばれ、島根県出雲大社がその代表である。もう一つは「神明造」と呼ばれ、伊勢神宮が代表である。神明造の特徴は、幅が大きく、正面に開口部があり、切妻造であることである。

 平安時代以降、神社の建築様式は多様化し、正方形に近い構造のものや、切妻造の正面にひさしが加わった「春日造」も現れた。さらに「神明造」の正面の屋根が伸びて全面にスペースのできた「流造」、主殿の前に建物が付け加わり、両者の屋根が連結して相の間ができた「八幡造」、正面と両側面にひさしが付け加わった「日吉造」など、神社の様式は多様化が進んだ。神社の様式と数量は不断に増加し、大正時代(1912~1926)には日本全国に大小の神社約12社があったとされる。中でも有名な神社である東照宮には、日本の文化の精髄と中国文化の要素とが共に表れている。

 東照宮の正門を入ると、「神厩舎」と呼ばれる素朴な木造建築が見られる。徳川氏の天下統一に戦功を挙げた軍馬を記念したものと言われる。当時、猿は馬の病気を防ぐと言われていたため、門の枠には、平安を願うための8匹の猿の神が彫られている。

 日光東照宮内には多くの有名な文化財があるが、いずれも中国の要素を強く受けているものばかりである。例えば、中国から運ばれた木材を用いて、さらに中国の達人による彫刻が施された「唐門」である。その名前を見ただけでも、色濃い中国の影響を受けていることは明らかである。

 唐門に彫刻されているのは、「許由洗耳」や「竹林七賢」などすべて中国の故事である。東照宮入り口にある厩舎には、眼と耳と口をふさいだ猿が彫刻されている。これは『論語』における「君子非礼勿言,非礼勿視,非礼勿聴」、さらに『礼記』における「楽者,天地之和也;礼者,天地之序也。和故百物皆化,序故群物皆別」の精神を表したものである。すなわち、礼の教えを失した物は見ず、礼を欠いた話は聞かず、話しもすべきではないという心得である。

 『論語』は人であるための規則を示し、社会の調和と安定の大切さを訴える。こうした精神は、東照宮の建設者にも学び取られ、日本人の克己という規範と理想とを十分に表現した彫刻を生んだのである。

 「洗耳」の故事は、漢蔡邕『琴操•河間雑歌•箕山操』を典拠とする。許由は、尭帝が帝位を自らに譲ろうとしているということを聞き、耳が汚染されたと感じ、水で耳を洗ったという。このことから、俗塵に触れることを恥とし、世俗を超えた心性を尊ぶ「洗耳」「許由洗耳」といった表現が生まれた。

 また「竹林七賢」とは、三国魏の正始年間(240-249)における嵇康・阮籍・山涛・向秀・劉伶・王戎・阮咸の七人を指す。彼らは当時の山陽県(現在の河南輝県、修武の一帯)の竹林の下に集まり、酒を飲み、詩を詠み、自由な境地を楽しんだ。いわゆる「竹林七賢」という表現が表しているのはまさに、東照宮が体現しているような静寂で平和な境地、俗に染まって汚れるべきでないという信念である。このほか、唐門に彫られた「眠り猫」なども非常に有名な芸術品であり、日本の国宝となっている。

 東照宮では毎年、徳川家康が葬られた時の場面を再現する大祭が春と秋とに行われる。日光東照宮秋季大祭の規模は春季大祭よりも小さく、盛装した800人の武士の大行列が見られるのは同じだが、秋祭には神輿が一基しか出ない。神輿を先頭にして、鎧兜を身につけた騎兵や鉄砲兵、長槍兵、弓兵などの武者たちが続き、二荒山神社から市の中心へと行進する。当時の武士たちが家康の遺体を静岡から日光東照宮まで運んだ盛大な場面を再現する祭りだ。

 日光東照宮の大祭には、祇園祭や天神祭のような豪華絢燗さはない。しかし武士たちの威勢は、これを見守る人々に忘れ難い印象を与える。こうした春祭と秋祭の伝統は依然として中国古代の祭祀の伝統を受け継いだものである。

 『礼記•祭統』は、「凡祭有四時:春祭曰礿,夏祭曰禘,秋祭曰嘗,冬祭曰丞」と説いた。漢代の偉大な儒学者である鄭玄によると、夏商の両王朝は春に祭りを行い、周王朝は夏に祭りを行ったという。そのねらいは、その一年がすばらしいものになるようにとの祈りであった。『春秋穀梁伝・桓公八年』には「春正月乙卯烝」との記載があり、晋代の範寧は「春祭曰祠」と注釈している。『管子•禁蔵』には「挙春祭,塞久祷,以魚為牲,以糵為酒,相召」の記載がある。

 秋祭は、秋の休息と祭祀を指す。秋祭の頃には、外界との関係が分断される。なぜならこの時期は、家で休息し、心身を調整する時期に当たるからである。もちろん、東照宮の春祭と秋祭は中国の祭祀文化の要素を汲み取りながらも、具体的な形式においては多くの新たな変化が付け加わっている。例えば、葬式の儀礼形式を盛り込んだことなどである。

 東照宮の建築群全体には、古代の中国と日本の文明の熱い息吹が感じられる。その中に身を置くと、幕府の時代にタイムスリップしたかのような感覚を覚える。当時の盛大な祭祀に思いを寄せると、日中文化の同文同種という特殊性がさらに親しみをもって感じられる。建築史から考えれば、5000年の歴史を持つ中国にはさらに豊富な特殊性が見て取れる。中国の建築は上古の時代に発し、唐宋の時代に成熟し、明清の時代にはさらに栄え、幾代にもわたって受け継がれ、完全な体系を形成するに至った。

 だが現在の中国の建築レベルは日本をはるかに下回っている。中国の建築家は往々にして、唐宋時代の様式の建築を研究するのに、日本の建築における唐宋の要素を参考にしている。このことは、両国が文化の面において相互に補い合っていることを示す象徴的な現象であると言える。


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