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【13-11】中国と日本の楓情緒

朱新林(山東大学(威海)文化伝播学院)     2013年11月21日

朱新林 

朱新林(ZHU Xinlin):文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 中国では古代から、楓(かえで)の紅葉を楽しむことが知られていた。例えば、西晋時代の潘岳は、『秋興賦』の中で「庭樹槭以洒落」(庭の樹は楓が洒脱である)との句を残している。3世紀前までに中国ですでに楓が庭に植えられ、鑑賞されていたことがわかる。古代より、中国の文人や学士、詩人、書家らは、秋の楓の葉を愛し、これを主題に描かれた詩文は枚挙に暇がない。例えば、唐代の杜牧『山行』には、「停車坐愛楓林晩,霜葉紅于二月花」(車を停めて楓林の晩景を愛でる、霜のついた葉は二月の花を上回る赤さだ)との描写がある。また唐代の張志和『漁父』においては、「楓葉落,荻花乾,酔宿漁舟不覚寒」(楓の葉が落ち、荻の花が枯れる季節だが、酔って漁舟に寝ても寒さを覚えない)との句がある。明代の唐寅『我愛秋香』では、「我画藍江水悠悠,愛晩亭上楓葉愁」(藍江の悠々たる水を描く、夜のあずまやから見える楓の寂しげな様が好きだ)と詠んでいる。これらには、文人や詩人の特別な情感が含まれており、楓は彼らの心中で一種の精神的な象徴となっていたと考えられる。楓の葉が特別な様子をしていることから、人々はこれを用いて毅然さのシンボルとしてきた。また楓は、過去への追憶や人生の蓄積、感情の永遠性、歳月の繰り返し、昔日の恋人への思いなどのシンボルともなっている。

 日本の秋は、春と同様、人々の憧憬の的である。上野公園の桜について書いたことのある魯迅は、日本人の友人を送り出す際に、「扶桑正是秋光好,楓葉如丹照嫩寒。却折垂楊送帰客,心随東棹憶華年」(日本は秋の季節がすばらしく、楓の朱色の葉が初冬を彩る。柳を折って日本に帰る人を見送ると、心は日本に向かってかつての日々が思い出される)との詩句を送っている。紅葉に染められた日本の秋を懐かしむ魯迅の気持ちが表れた作品である。

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 日本は、世界で紅葉が最も美しい国の一つとされる。日本の秋は長く、楓やブナなど秋に葉の色を赤く変える樹木が茂り、山や水の豊富な風土に映えて美しい風景が形作られる。日本の紅葉の風景はほとんどが原野や庭園で鑑賞される。一部は、原野の自然景観として鑑賞され、一部は、寺などの文化的景観と融合した庭園で鑑賞される。紅葉の旅は、日本の秋の有名な観光旅行である。

 日本文化を形作ってきた要素の一つが、大自然に対する細やかな観察と感覚である。小さな土地の中で草一本、木一本を大事に思う気持ちは、日本人の民族的習慣と言える。「楓の国」と呼ばれるカナダのような広大な楓の風景は日本にはないが、日本人は楓の美しさを鑑賞し、情緒を生み出すことを心得てきた。日本の国土は細長く、四季がはっきりして、寒暖差が大きいため、国内で栽培されている変色落葉樹の種類はとても多い。このため毎年9月中旬から12月上旬には、春の「桜前線」と同様、日本気象庁が全国の「紅葉前線」を発表している。最北端の北海道から始まって南は九州まで、この前線は、すばしっこい猛獣のように一日約27kmの速度で駆けて行く。赤色や黄色、褐色、緑色の混じった衣をまとったこの猛獣が通った場所では、国民はこれを歓迎するだけではなく、華麗な猛獣の姿を追いかけるのに祝祭のように夢中になるのである。紅葉鑑賞は「紅葉狩り」とも呼ばれる。古代から、このような「狩猟活動」は、上は王公貴族から下は平民百姓に至るまでの人気を呼んできた。その熱心さは、サッカー日本代表のサポーターにも劣らないだろう。

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 毎年初秋になると、気象庁は紅葉が始まる前に、全国に「紅葉前線」を大々的に発表し始める。紅葉の始まりの時刻表である。日本では、紅葉の鑑賞期は9月から11月までの気温と密接な関係がある。通常、最低気温が8度より低くなると、葉に色がつき始め、最低気温が5度よりも低くなると、葉は急速に赤くなっていく。紅葉の色が美しくなるためには、十分な日照と適度な水分、気温の急速な低下という3つの条件が同時に満たされなければならない。その年の夏の気候と秋の昼夜の気温差、晴天の日数はいずれも紅葉の質に影響を与える。一般的に、陽光と水分が十分で、気温が涼しいことが、山いっぱいの紅葉を作り出す最も重要な条件となる。9月中旬、北海道地区の紅葉がまず始まり、紅葉の季節の到来を告げる。日本の東北部と北部の紅葉エリアは、最も代表的な原野での紅葉景観である。大雪山は、北海道の短い夏が終わるとすぐに、紅葉の季節に入る。9月に入ると、色彩の波は山頂から流れ始める。10月になると、目のくらむような紅葉が山の斜面を覆うようになり、一方、山頂にはすでに真っ白な初雪が眺められる。大雪山地区では、季節の移り変わりはまたたく間である。

 11月、秋の葉の景色が最も美しい時、日本全国各地では各種の紅葉祭が開かれる。京都の嵐山で開催されるもみじ祭は最も有名な紅葉祭の一つである。大堰川には、細やかな飾りつけがなされた小船が浮かぶ。船上では、特別の衣装を着た音楽家たちが日本の琴や尺八を演奏し、踊り手たちが伝統舞踊を踊る。毎年10月1日から11月30日までは、奈良県の談山神社で2カ月にわたる紅葉まつりが開かれる。談山神社で最も有名なのは、橙色の建築物と木造の13層の塔である。神社には多くの楓の木が植えられ、毎年秋になると、これらの楓の葉は深い赤色に染まり、神社の建築群と相まって、秀麗な美景を作り出す。和歌山県の熊野那智大社は毎年、11月中旬に紅葉祭を開催し、大自然の恵みに感謝を捧げる。人々は、秋の風景を詠んだ詩を短冊にしたため、これを木の枝に結び、那智の滝とともに流す。那智の滝は、那智大社にある神聖な自然景観として名を馳せている。毎年11月初めには、香川県の金刀比羅宮と熊本県の阿蘇神社でも大規模な紅葉祭が開かれる。このほか、日本全国各地の都市や町、村などでも公園や庭園でこのような祝賀活動が行われている。

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 日本の楓には、イロハカエデやオオモミジ、イタヤカエデ、ハウチワカエデ、中国から来たトウカエデなどがある。さらにシラカバやイチョウなどの大ぶりな落葉樹の金色に染まる葉も、秋の景色に欠かすことのできない要素となっている。落葉喬木のほかには、バラ科やアオイ科、ツツジ科などの落葉灌木も、秋になると葉を赤く染め、山と水の美しい風土にさらに彩りを加える。

 日本の楓には中国からやってきたトウカエデがあるが、中国の楓文化は別の様相を呈している。中国には、北から南まで広まった日本のような楓林はない。紅葉によってもたらされる秋の気配をどこにいても感じ取れるような日本のような環境はない。日本が楓を特別な植物として愛でることを知ったために、日本にはそのお返しとして豊かな楓の環境が与えられたのかもしれない。日本と中国の楓に対する情緒の違いとしては、楓の葉が赤い由来として伝えられる中国古代の伝説が参考となる。「黄帝殺蚩尤于黎山,棄其械,化為楓樹」(『山海経』より)。黄帝が蚩尤を殺した後、血のついた兵器を捨て、その兵器が楓となった――これによれば、楓の赤は血の赤ということになる。

 中国で楓が集中している場所は比較的少ないが、楓の紅葉鑑賞の名所としては、北京の香山、蘇州の天平山、南京の棲霞山、湖南長沙の岳麓山の四山が有名である。

 香山(Fragrance Hill)は静宜園とも呼ばれ、北京海淀区の西の郊外にあり、市街地からは25km離れ、面積は160ヘクタール、最高峰の海抜は557mで、全国に名を馳せる森林公園である。1186年、金朝の皇帝がここに大永安寺、又の名を甘露寺という寺を作った。寺のわきには皇帝が滞在するための宮が設けられ、歴代の拡張を経て、乾隆10年(1745)に静宜園と呼ばれるに至った。1860年と1900年には強奪と焼き討ちに遭ったが、1949年から大部分の名勝が次々と修復された。主な見どころとしては、「鬼見愁」や「玉華山荘」、「双清別荘」などがある。このうち玉華山荘は、山脈中部に位置し、庭園型の景勝地で、園内の古樹は天にまでのぼろうかというほど高く、榕樹が列をなし、泉がちょろちょろと流れ、東屋が立ち並び、静かで落ち着くことのできる場所である。香山の紅葉はとても有名で、毎年秋になると、山肌を覆うハグマノキの葉は火のように赤く色を変える。このハグマノキは、清代の乾隆年間に植えられたもので、200年を経て、9万4000株を誇る大林区が形成されている。毎年10月中旬から11月上旬は紅葉鑑賞に最高の季節となり、紅葉は通常1カ月前後継続する。半山亭や玉華山荘、閬風亭はいずれも紅葉鑑賞に最適の場所である。

 蘇州の天平山は、蘇州市街の西15kmの場所にあり、海抜は221mである。歴史的人物として有名な範仲淹が山の東麓に葬られていることから、範墳山とも呼ばれる。北宋の王朝が天平山を範仲淹に与えたことから、賜山との別名もある。楓と泉、石で知られ、「三絶」と呼ばれる。さらにここは太湖の鑑賞の名所でもある。山麓には大規模な楓林があり、古いものは樹齢400年を超える。秋の日に霜が降りた林が隅まで赤く染まった様子は圧巻で、「万丈紅区」と呼ばれる。山の途中にある白雲泉は「呉の国で最高の水」と呼ばれる。その西には二つの崖があり、門のように向かい合っており、「竜門」や「一線天」などと呼ばれている。山には特異な形をした峰や岩が多く、山腹の「筆架峰」(筆置き峰)を始め、変わった形の地形が集中しており、「万笏朝天」(空に突き出る万の笏)と形容されることもある。山頂には湖を見下ろす展望地があり、ここには太湖に表を向けた丸い石があり、「照湖鏡」と呼ばれている。怪石と清泉、赤い楓は「天平三絶」と称される。山上には奇石がごろごろと並び、いずれも上に向かって立っており、古代の大臣が皇帝に会う時に手に捧げた朝笏(ちょうしょう)にも似ていることから、この景観は「万笏朝天」とも称される。泉は白雲泉と言い、泉水が竹筒で雲泉精舎の石壁の下の鉢へと流し込まれることから「鉢盂泉」とも呼ばれる。味は甘くすっきりとしており、唐代の茶聖陸羽はこれを味わって「呉の国で最高の水」と評したという。楓は、範仲淹の17代の孫である範允臨が福建から持ってきたもので、176株がまだ残り、すでに400年余りの歴史を持っている。毎年秋の深まった時期が来ると、青空の下に赤い葉が燃え立ち、その華麗な姿で行楽客の目を奪う。

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 天平山の楓は、中国語の学名を「楓香」と言い、葉は三角型を呈し、ほかの場所よりも大ぶりでまっすぐにそびえ、幹の高さは10階建てのビル並みで、根本の周囲は3人でやっと抱えられるほどの太さがある。近年、天平山風景管理所は、2000本余りの「世代交代のための楓」を植えたが、古い楓林と一体となり、秋が深まった頃には、新旧が互いに照らし合い、壮観をなす。これらの楓香の木は、樹齢の違いや地勢の違いによって生長具合に強弱があり、さらに山の場所によって受ける寒気が違うために、その葉の色彩の変化は前後に交錯し、赤色の深い木と浅い木とが入り混じってみられ、時には緑の茂みの中に赤色の木が出現したりもする。さらに一本の木の大小の枝葉の中にも、薄い黄色や橙色、赤茶色、薄桃色、真紅などが同時に見られ、花々があでやかさを競っているかのような光景で「五彩楓」と呼ばれることもある。楓の紅葉する季節には、天平山麓を紅の霞に覆う華やかな楓の光景が見られる。

 南京の棲霞山は、南京市街の北東22kmにあり、又の名を摂山と言い、南朝時代に山中に「棲霞精舎」が設けられていたことからこの名が付いた。棲霞山には3つの峰があり、主峰の三茅峰は海抜286mで、又の名を「鳳翔峰」と言う。北東にある山は、伏せた竜のような形をしているため、「竜山」と呼ばれる。北西にある山は、伏せた虎のような形をしており、「虎山」と呼ばれる。棲霞山の史跡名勝は数多く、深い秋の紅葉は美しく、とりわけ2000年に発見された「東飛天石窟」は、国内外に知られた観光名所となっている。棲霞山は静かで趣があり、魅惑的な風景が楽しめ、史跡名勝が諸峰に散らばり、「金陵第一明秀山」(南京地区で最高の美しい山)と呼ばれている。山の西側は楓嶺と呼ばれ、まとまった規模の楓の林がある。深秋の棲霞山は楓林が火のように山全体を赤く染め、華麗な絵巻のようになり、高所に登って遠くを眺めるととりわけ壮観で魅惑的な景色が見られ、古くから「春牛首、秋棲霞」(春は牛首山、秋は棲霞山がいい)という言い方がある。

 湖南長沙の岳麓山は長沙市街の西にあり、東は湘江に臨み、約8平方kmにわたって広がり、古くは「碧嶂屏開,秀如琢珠」との誉れを受けた。唐宋の時代から、岳麓山は幽玄とした山林の美しさで名を馳せてきた。六朝時代の羅漢松、唐宋時代の銀杏、明清時代の松やクスは非常に有名である。「愛晩亭」や「清風峡」、「蠎蛇洞」、「禹王碑」、「岳麓書院」などの見どころも知られている。ここにはさらに黄興や蔡鍔などの著名人も埋葬されている。岳麓山は、春は山中が薄緑色に染まり、ヤマツツジが咲き誇る。夏は静かで涼しい。秋は楓の葉が赤くなり、林を何重にも隅々まで染める。冬は木々の美しい枝並が楽しめ、雪が降れば銀世界となる。四季折々にわたって風景が楽しめる地である。

 中国観光業の発展に伴い、近年は遼寧省本渓県でも豊かな森林環境を活用し、日本とカナダの楓を大量に植え、中国の新たな紅葉の名所となりつつある。2011年までに、本渓市は7回にわたって「楓祭」を開催し、特色のあるその観光資源は国内外の観光客の幅広い評価と歓迎を受けている。2009年、本渓楓祭は中国国家級観光祝祭活動と認定され、「楓の都」の知名度は大きく高まった。秋の紅葉鑑賞は本渓の民俗的特色となり、楓文化は本渓エコ文化建設に不可欠な重要な内容となっている。本渓県は中国国家工商総局によって「楓の里」と命名され、本桓公路は国家林業局によって「中華楓の道」との称号を受けた。また楓を売りにした農村体験ができる農家も1000軒余りに達し、楓の美しい20カ所余りの村が中央美術学院などによって生態文化写生基地とされている。

 中国における楓の紅葉文化は、興隆、衰退、再興という揺れの大きな発展過程をたどってきた。このことは、中国古代の文人が楓に対して濃厚な文化的情緒を持っていたことを示すと同時に、近現代以来の中国人が楓を象徴として楽しむ精神を失ってきたことも表しており、このことは遺憾と言わざるを得ない。

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 日本は、紅葉の価値を見出した鋭敏な民族的情感によって、毎年秋が来ると紅葉がもたらす豪華な宴を楽しみ、大自然の豊かなめぐみを享受する。日本人の楓を大切にする気持ちと楓の繁茂とは互いに呼応しているかのようだ。中日両国における楓の異なる運命は、中日両国の民族の性格の違いを示している。現代の中国人は、文化的な情感と自然への態度について、日本民族に積極的に学んでいかなければならないだろう。