文化の交差点
トップ  > コラム&リポート 文化の交差点 >  【14-02】中日「儺」文化小論

【14-02】中日「儺」文化小論

2014年 2月25日

董 雪

董 雪:中国山東省徳州市職員

中国山東省徳州市生まれ
2004.9~2007.6  山東師範大学文学院 修士
2007.9~2010.6  浙江大学中文系(中国語学院) 博士
2010.6~      山東省済南市総工会 科員

 日本の節分や豆まきは、全国の神社や寺、普通の家庭に浸透した重要な民俗習慣である。節分とは、二十四節気の「大寒」の最後の日であり、立春の前日であり、陽暦では2月3日もしくは4日に当たる。豆まきは、「豆打ち」「豆撒き」「福豆」などとも呼ばれる。庶民の家庭では、節分の夜に、その家の年男の男子(もしくは父親)が、「福は内、鬼は外」と唱えながら炒った大豆を家の内から外までまいて歩き、家族は自分の数え年よりも一つ多い豆を食べ、邪気を払い、福を招き入れ、幸運を願う。

写真

 厄払いや鬼払いの儀式である豆撒きは、神事「追儺」(ついな)を由来としている。「儺」(な)は日本には飛鳥時代から奈良時代にかけて登場した。701年に発布された『大宝律令』には、「儺」の儀式と関連する内容が記載されている。だが『大宝律令』の発布後にすぐに「儺」の儀式が始まったわけではなく、慶雲年間に疫病が発生して初めて実施されるようになった。『類聚国史』においては、慶雲三年(706年)に「土牛大儺」が始められたとの記載がある。『続日本紀』においては、「是年(慶雲三年),天下疫疾,百姓多死,遂作土牛,大儺」(この年に疫病がはやり多くの人が死んだため、土牛や大儺が行われるようになった)とさらに詳細な記載がなされている。『大宝律令』の儺礼に関する記載を見ると、その名称や時期、人物、手順などはいずれも、簡略化されてはいるが、中国の唐朝の顕慶年間における儺制と合致していることがわかる。顕慶年間(656--661)は日本の四回目の遣唐使が中国に到着して滞在していた期間であったことも、儺礼が中国から日本に伝わったものであることを裏付けている。

 「儺」の意味について『説文解字』は、「行有節也。従人,難声。《詩》曰:佩玉之儺」と定義している。つまり「儺」は当初、節度のある歩き方を指し、礼儀や規範に符合するといった意味しか持っていなかったということである。後世の「儺礼」や「儺俗」の意味とは大きな違いがある。清代の段玉裁『説文解字注』においては、「《伝》曰:儺,行有節度也。按:此,字之本義也。駆疫字本作難。自仮借儺為駆疫字,而儺之本義廃矣」との解説がある。厄払いの際にはもともと「難」という文字が使われていたが、後世に「儺」という字が当てられるようになり、もともとの意味が消えて行ったということである。「儺」を厄払いの意味に使った最初期の文献は『論語』である。「郷党篇」において「郷人儺,朝服而立於阼階」の記載があり、これについて何晏は『論語集解』で「孔曰:儺,駆逐疫鬼」と、「儺」が「厄払い」を指すことを明確化している。元来の「難」の文字を使っていた文献の例としては『礼記』があり、「月令篇」において、「季春之月......命国難,九門磔攘,以畢春気」の記述がある。一方で、『呂氏春秋』の『月令』に関する記載では、「季春之月......国人儺,九門磔禳,以畢春気」と「儺」の文字が当てられている。これについて後漢の高誘は『呂氏春秋注』で、「儺,読《論語》『郷人儺』同。命国人儺,索宮中区隅幽暗之処,撃鼓大呼,駆逐不祥,如今之正歳逐除是也。......『国人儺』,《月令》作『命国儺』,《淮南》作『令国難』。此疑,倒誤。『儺』疑本作『難』,故注読従《論語》之儺」と解説しており、少なくとも秦漢の時代には、「儺」はすでに「難」に代わって厄除けや鬼払いを指すようになっていたことがわかる。

 「儺」の起源については、学術界で大きな意見の相違があり、狩猟説や農耕説、トーテム説などさまざまな観点があるが、「儺」が、宗教性と芸術性を備えた一種の社会文化現象であるという点では、多くの研究者の見解が一致している。

 一種の原始的な文化現象である儺は、先史時代に起源を持ち、原始芸術と原始宗教の産生とともに生まれたと考えられる。中国の古代文献には、儺とかかわる神話や伝説が散見される。一つは、後漢の王充『論衡•訂鬼』が引用している『山海経』の「度朔山大桃樹」の神話である。この神話によると、東海の度朔山に大きな桃の木があり、その枝は三千里にわたって広がっていた。この枝の東北には、万の鬼が出入りする「鬼門」があった。この鬼門を守る神仙が二人おり、一人は神荼、もう一人は鬱塁と言い、悪鬼を監視していた。悪鬼を発見したら、ヨシで編んだ縄でしばって虎の餌にしていたという。黄帝はそこでこれに基づく礼節を制定し、時節に従って鬼払いを行い、桃木で作った大きな人型を立て、門には神荼と鬱塁、虎の絵を書き、ヨシの縄をかけて悪鬼をつかまえる象徴としたという。もう一つは、後漢の衛宏『漢旧儀』に記載された黄帝の孫の顓頊による鬼払いの物語である。顓頊氏には三人の息子があったが、死後にはいずれも悪鬼となった。一人は、川の中に住み、疫病を広める疫病鬼となった。一人は、泥水の中に住む魍魎鬼となった。一人は、人々の家に済んでその家の子どもを脅かす小鬼となった。そこで顓頊は十二月に方相氏(祭司)に命じ、儺の儀式によって鬼払いを行ったという。もう一つは、唐代の王瓘『軒轅本紀』に記載された「嫫母護屍」の物語である。黄帝が妻を連れて天下を周遊していた際、元の妻の嫫祖が途中で亡くなり、黄帝は儀式を行って祖神を呼んだ後、次の妃の嫫母に方相氏の役目を負わせ、嫫祖の死体を見守る役割を担わせたという。こうした神話や伝説には信じがたいところはあるが、原始的な儺の儀式の雛形を見ることができ、こうした習慣が後世の儺礼の発展に土台を築いたことがわかる。

 先秦時代(夏、商、周の三代)に入って、儺の歴史には文字の証拠が現れるようになった。儺礼はこの時期に徐々に文化体系として整っていった。戦国の史官が書いた『世本』には、夏代の「禓五祀」という儺礼についての記載がある。だが『世本』は唐代に散逸し、現在はいくつかの復元本が残っているにすぎず、確証はできない。商代の儺礼は「宄」と呼ばれ、甲骨文による記録があるが、その内容については、学者の間で意見の相違がある。史実として信用できるのは周時代の儺であり、文献の記録があるだけではなく、儺礼の種類や手順、参加する人物などの詳細な記載がある。『周礼•夏宮』には「方相氏,狂夫四人」「方相氏,掌蒙熊皮,黄金四目,玄衣朱裳,執戈揚盾,帥百隷而時難,以索室駆疫。大喪,先柾,及壙,以戈撃四隅,駆方良」といった記載が見られる。周代の儺礼の基本的な形式としては、「仮面を付けた祭司が人々を率いて無形の鬼を払う」といったものだったと考えられる。こうした形式は、後世のほとんどの時代において踏襲され、標準として採用された。

 北宋後期から南宋までの時代を除いて、ほとんどの時代には周の儺礼が踏襲されたとは言え、社会文化の発展や変化に伴い、儺礼も進化していったということは見逃してはならない。もしも儺礼の発展と進化をいくつかの段階に分けるとすれば、秦代以前は儺史の上古時代であり、儺礼が発生して次第に形を整えていった時期と考えられる。秦代から五代後周末までは儺史の中古時代であり、儺礼が神聖な宗教文化から世俗化、芸術化、娯楽化の方向へと進化し、「儺戯」「儺俗」などの異なる形態を育んでいった時期と考えられる。秦漢時代の儺礼は、①秦から前漢までの儺制、②後漢前期の儺制、③後漢末期の儺制に大きく分けることができ、この時期には中古の儺礼が世俗化、娯楽化の第一歩を踏み出していたものと捉えられる。

 秦から前漢にかけての儺制に関する文献記載は少なく、特に正史には儺に関する記載がないため、秦代において儺があったかには疑問もある。だが学者の中には、秦と前漢に儺は確かにあり、秦代には「軍儺」という新たな形式も生まれ、兵馬俑に見られる「緑臉跪射俑」(緑色の顔をした跪いて弓を射る土偶)はその証拠だと主張する者もいる。後漢前期の儺制は、前漢を土台として発展したもので、儺礼の中に初めて鬼払いの言葉を加えたことに特徴がある。ただ儺の儀式においては言葉のみが念じられ、謡などはなかった。後漢末期は後漢前期よりもさらに進化し、儺戯『十二獣』をひな形とする演劇の形式によって、百官官府(首都の朝廷の各役所)における儺礼の先例を作り、桃木で作った箒で鬼を打ったり、役所の門に桃の枝やヨシを飾ったりする「桃儺俗」が生まれた。漢末の儺制は当時漢朝の版図にあったベトナムの北方にまで普及された。

 魏晋南北朝の時代には、三国においては儺礼への関心が徐々に薄らぎ、南朝の王宮における儺礼は廃れ、北朝の正式な儺礼は盛り上がりを見せた。さらに南北両側の軍隊と民間においては、多くの新たな儺の種類が作り出された。乞食による儺、役所の儺、儺を専業とする民間団体、葬礼を専業とする祭司、儺と仏教とが結合した儺の儀式、儺と道教とが結合した儺の儀式などである。

 隋唐五代の時代には、朝廷と民間の儺礼活動はいずれも明らかな世俗化の方向を示し、神壇を降り、娯楽が重要な目的となり、儺礼の演芸化に堅固な土台を準備した。ここでは唐朝の顕慶儺制について着目しておこう。この時代の儺制が過去と異なる点は、月の神を祭るという儀式を作り出したこと、司祭が「右手に矛を持ち、左手に盾を持つ」という方式を「右手に盾を持つ」という方式に変えたこと、「春儺」の開催を始めたことなどにある。

 日本の『大宝律令』に記載されている儺礼にも、順番は儀礼の最初に移されてはいるが、神を祭るという同じ手順が見られる。方相(祭司)も「右手に盾を持つ」ことになっており、通常の「右手に矛を持ち、左手に盾を持つ」という方式とはなっていない。儺礼が祭りと鬼払いの二部構成となっているのも一致している。『大宝律令』を記した伊吉博多は、中国の顕慶年間にあたる659年から661年まで、日本の第四回遣唐使の主要メンバーとして長安への視察を行っており、後には唐使を見送る送唐客使も務めている。このことから日本の儺礼は、伊吉博多が唐から日本に伝え、現地の実情に応じて修正を加えて完成させたものと考えられる。

 北宋から清代にかけての中国封建社会の後期には、封建自然経済が資本主義商品経済に発展していったことを受け、儺にかかわる活動も徐々に経営的な性質を帯びるようになった。さらに市民階層の出現と文化芸術の大きな発展によって、公的な儺礼は徐々に廃れ、民間の儺礼が複雑化と演芸化をますます示すようになった。「晩古時代」と呼ばれるこの時期、儺制は大きく変化した。

 宋代の儺礼は、唐代の儺礼の世俗化と娯楽化を土台として継続発展したもので、演劇形式の儺戯も徐々に普及した。この時期の儺礼は演芸を主要な形式としており、とりわけ北宋の政和年間となると、儺礼には大きな変化が起こり、漢唐の時代に行われていた方相(祭司)による厄除けがなくなり、大勢の仮面を着けた人々が練り歩いてパフォーマンスを行う「埋崇」と言われる儺制が作り出された。孟元老の『東京夢華録』には、「至除日,禁中呈大儺儀,併用皇城親事官、諸班直戴仮面,繍画色衣,執金槍竜旗;教坊使孟景初身品魁偉,貫全副金鍍銅甲装将軍;用鎮殿将軍二人,亦介胃,装門神;教坊南河炭醜悪魁肥装判官;又装鐘馗、小妹、土地、竃神之類,共千余人。自禁中駆祟出南熏門外転竜灣,謂之『埋祟』而罷」との記載がある。この時代の儺礼においては方相(司祭)や侲子(祈祷師)がもはや設けられず、供え物や祭祀なども行われることはなく、金メッキを施した銅の鎧の将軍や門神、鐘馗、土地、かまど神などの人物が置かれ、さらに軍人が扮装した仮面の大隊総計千人余りも現れ、宮中の各処をパフォーマンスして歩き、熏門から出て転竜灣に至るまで活動が行われた。厄払いと鬼除けの神事という従来の形式とはまったく異なるものとなり、清代の『続通志』では、戯れとみなされていたとの評価がある。

 元代の朝廷は、民間のあらゆる集合活動を禁止したため、儺儀も取り締まりを受けるようになり、見世物や演劇の中で形を変えて生き残っていくしかなくなった。元代の宮廷に儺の儀式がなかったことから、明代初期の宮廷も儺礼を復活させることはなく、司祭が葬礼を行う時の儺の習俗のみが保たれ、明代中頃になってやっと宮中儺礼が再開されたが、衰退の傾向をとどめることはできなかった。一方、民間の儺事活動の回復は速く、市場化の方向への発展を開始した。

 清代は儺の儀式を取り入れることはなかったが、民間の縁日で儺は普及しており、南方では祈祷師による「儺壇」も形成された。清代末期は戦乱の頻発により、儺の習俗は衰退していった。封建王朝の崩壊と新文化運動の高まりによって、儺は中国では「封建的迷信」として文化領域から完全に追い出された。

 儺の習慣は中国からは消失していったが、ベトナムや朝鮮半島、日本などに伝わったこの習俗は、現地の民族文化と融合して大きく発展していった。日本の飛鳥・奈良時代の儺礼は、伊吉博多が中国から導入して修正を加えたもので、大宝儺礼と呼ばれる。平安期になると、これに変化が起こり、侲子(しんし)という役回りが加わり、桃の木で作った弓や杖などの物品も出現した。さらに重要なのは、967年の『延喜式』から、「大儺」の名称が「追儺」に改称されたことで、この名称はこの後、継続的に用いられることとなった。平安後期になると、方相は、鬼を払う英雄から追い払われる鬼の役割に替わり、鬼を払う主役は上卿や殿上人などが担うようになった。方相の役割がなぜ英雄から悪鬼に替わったかという問題について、日本の研究者の広田律子は、「仏教で盛んだった修正会に追儺の儀式が取り入れられた際、恐るべき風貌の方相氏が仏事において追い払われる邪鬼のイメージと同一視されるようになったため」と分析している。

 将軍が政治を行う幕府の時代に入ると、悪鬼として追われる側となっていた方相さえもが消えてしまい、追儺の時期も大寒に変わり、上卿が鬼を追う方式となった。この頃にはまだ、土牛を立てたり、桃木の人形を置くなどの習俗が残っていたが、江戸時代になると、豆まきが盛り上がりを見せ、ついには追儺の唯一の形式とさえなっていった。明治維新後は、仏教や儒教を廃して西洋文明を重んじる風潮となり、公式行事としての追儺は完全に姿を消し、現在にいたるまで、日本の皇宮には追儺の活動はなくなった。

 追儺は公式行事としてはなくなったが、神社や寺、村、庶民の家庭では生き続け、豊富な習俗を保ち続けている。とりわけ桃と追儺の結びついた習俗はさまざまな実をつけている。日本の多くの習俗や芸能も儺の要素を吸収しており、その一つは能楽という著名な芸術形式として結晶している。

参考文献:

  1. 銭茀『儺俗史』広西民族出版社,上海文芸出版社,2001年
  2. 曲六乙、銭茀『東方儺文化概論』山西教育出版社,2006年