【14-03】日本における中国古代絵画

2014年 3月18日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09—2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09—2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09—2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 中国絵画には遥かな歴史があり、2千年以上前の戦国時代にはすでに、絹織物の上に描いた「帛画」(はくが)が存在していた。前漢・後漢と魏晋南北朝の時代には、支配地域の外からやってきた文化と中国本土の文化との衝突と融合が起こった。この時期には、宗教絵画を中心としながら、本土の歴史的人物を描いたり文学作品を題材としたりした作品も一定の割合を占め、さらには山水画や花鳥画の萌芽も見られた。隋代と唐代には社会や経済、文化が高度に栄え、山水画や花鳥画は成熟期に入り、宗教画はすでにピークを迎えて世俗化の傾向を示し始めていた。人物画は、貴族の生活を描いたものが中心で、時代の特徴を示す人物像が作られた。五代と北宋・南宋の時代には、さらなる成熟と繁栄が見られ、人物画は世俗の生活を題材とするようになり、宗教画は次第にすたれ、山水画や花鳥画が画壇の主流に躍り出た。さらに文人画の出現とその後の発展は、中国画の創作理念と表現方法を一層豊かにした。元・明・清の三代には、水墨山水画と写意花鳥画とが大きく発展し、文人画と風俗画が中国画の主流となった。社会経済の安定によって文化芸術分野は空前の繁栄を見せ、生活意欲が高まり、芸術への崇拝に満ちた多くの偉大な画家が現れ、歴代の画家たちが後世に名を残す名画を描くこととなった。

 日本は、中国古代の絵画作品の豊富なコレクションがある国として、また中日文化交流の過程において極めて重要な歴史的位置付けがなされる。本稿では、米国の研究者・高居翰(James Cahill、1926年-2014年2月14日)氏の観点と文章を引きながら、中国古代絵画の日本での状況と両国での鑑賞方法の違いについて紹介する。

 日本では、膨大な量の中国の早期絵画が収集されてきた。高居翰氏によると、中国絵画の日本への伝播には、主に二つの代表的な段階が存在している。二つの段階には時期的に長い間隔があり、その性質も多くの点で異なっている。最初の段階は、「古渡」(こわたり)と呼ばれる段階で、12世紀から14世紀の間に起こった。この時期に日本に伝わった中国絵画は「宋元画」と呼ばれる作品がほとんどで、当時の日本の僧侶や幕府の将軍らが鑑賞し収集していた特定のジャンルの絵画に限られていた。この段階において最も注意すべき点は、中国では重要視されていなかった絵画作品が収集されていることである。第二の段階は、20世紀初めの数十年に起こったもので、当時早期の作品を含む重要な中国の絵画作品が、日本のコレクターや買い手をめがけて日本市場に流れ込んだ。一般的な歴史書には、この第二の段階についての記載は少ない。第二段階で日本に流れ込んだ中国画には、「古渡」の時期における宋元画にはなかった南宗の名作や、中国で高い評価を受けている絵画も含まれ、そのうち多くの画家の作品は、早期の日本のコレクションには見られないものだった。

中国古代絵画の日本伝来

 これら二段階の間においても、中国画は日本に続々と伝わったが、いくつかの例外を除き、宋元絵画ではなかった。17世紀から19世紀初めの江戸時代には明清代の絵画が日本に伝わり、当時さかんだった「南画」やそのほかの流派のモデルとなった。当時は、画商が中国画を購入した後、長崎にこれを運んで売り出していた。長崎は当時、日本唯一の国際貿易港だった。中国の画商はこうした絵画を江南地区の栄えた市中で調達していた。この中には、中国人にはあまり人気はなかったが日本市場ではよく売れた作品もあった。明代の浙派や明代末の呉門、さらに龔賢らは、当時の中国人にはあまり評価されていなかった。長崎に運ばれた後、これらの絵は、競りを通じて日本の画商の手に渡り、本土の市場ネットワークへと流通した。九州から四国、関西、関東まで、日本の収集家はこうした絵がやってくるのを待望しており、芸術家らは中国から来た新たな画風をこぞって真似した。日本の名家による収集品には個人博物館にまとめられたものもあり、この種の中国絵画の収集品が充実している。

 こうした絵画に対する当時の中国人の評価が低かったことは、これらの作品の今日的な価値を損なう理由ではない。西洋で収集された古代中国画、例えば、チャールズ・ラング・フリーア(Charles Lang Freer)や大英博物館の収蔵品には、従来の中国の鑑賞基準(Orthodox Chinese Criteria)に照らせば、卑俗(“bad”)と判断されるような作品も少なくない。とっくに散逸してしまったかもしれないこうした作品が保存されただけではなく、幅広い研究の対象ともなっていることは、当時の中国の文人の絵画評価の視野を大きく超えている。当時の中国の伝統的な批評家の鑑識・判断、それに画商や収集家の極めて偏った選別によって、現在残っている中国画は、その種類やスタイル、題材、数量において、驚くほど限定的なものになっている。一方、明清代にはできのいい絵画には詩や印を添え、宋元の絵画の雰囲気を出すという習慣が広く流行した。このことは、埋もれてしまったかもしれない作品の保存に結果的に役立つこととなった。

 中国画が日本に伝わった第一段階である「古渡」はさらに二つの時期に分けられる。第一期の伝来は、12世紀後期から始まり13、14世紀にピークに至った。当時、日本の禅宗とその他の宗派の僧侶は、中国南方の有名な寺に仏法を求めに出かけ、主に浙江地域、少数は江蘇地域で仏法を学んだ。中国の僧侶が日本に伝道に赴くこともあった。宋元代には250人余りの日本の僧侶が中国で学び、約10年から15年滞在した。同時期には、中国からも約10人余りの僧侶が日本に渡った。こうして往来した両国の僧侶が日本に持ち込んだ絵画の一部が、伝統的な宗教的な性質を持つ「道釈画」であり、僧侶の肖像や仏教や道教の人物像などがあった。そのほかにも、こうした僧侶自身が好んだ作品や、贈り物とした作品が持ち込まれた。当時、江南地区で流行していた画家の作品もこれに含まれ、こうした作品は現在、日本以外にはほとんど残っておらず、毘陵派の無名画家による花鳥草虫画などが含まれる。この時期には、絵画は批評や収集の対象ではなかったため、画家の名声はほとんどこだわられなかったものと見られる。「古渡」の第二期は、室町時代早期の足利幕府であり、とりわけ初代将軍の足利尊氏(在職1338-1358)と第三代将軍足利義満(在職1368-1394)は、中国画の収集に大きな情熱を注ぎ、寺院もしくは再開された中日貿易を通じて作品を手に入れた。足利氏の当時の収集目録も残されており、さらに『君台観左右帳記』にも中国画家に関する簡潔な記録が残されている。この段階においては、特定の大家の作品が重んじられる傾向が見られ、宮廷画院の著名な大家のほか、作品上の署名や押印によってのみ確認できる大家の作品もあり、日本でだけ知られる大家も存在している。

 古代中国絵画の日本流入の第二段階は20世紀初めの30年間に起こった。この段階の中国画収集ブームの大きな推進力となったのは、当時の中日の学者間の実り豊かな交流であり、とりわけ我々が「前芸術史家」(Proto-art-historians)と呼ぶ人々で、こうした人々によって中国絵画史の構築の第一歩が踏み出された。1920年代に中国で出版された中国美術史は、日本人学者の早期の研究に負う所が大きく、日本を通じて西洋の発展史観の影響を間接的に受けていた。日本では、こうした新たな歴史的書籍やこれまでの関連知識の講演や雑誌での紹介などによって、豊かな財力を持つ日本の収集家が、自らの中国画のコレクションに大きな空白があることに気付き始めた。中国の鑑定家や収集家などによって定番とされた作品、南宗の文人や士人の絵、南宗文人画の源流となった宋元代の大家の作品は、「古渡」時代の「宋元画」のコレクションには欠けていた。

 日本の収集家はこうして、これらの代表的な中国画をぜひとも手に入れたいと考えるようになった。これらの収集家を啓蒙・教育し、中国画を日本で輸入販売するという二重の役目を負ったのが、京都で活躍していた学者や画商の集まりである。有名な人物としては、中国人学者で画商でもあった羅振玉(1866-1940)、画商の原田悟郎(1893-1980)、中国史家の内藤湖南(1866-1934)などが挙げられる。この時期に日本で規模を拡大した重要な中国画コレクションには、後に大阪市立美術館に収められた阿部房次郎の収蔵品、現在の京都国立博物館に専門の陳列場所が設けられた上野理一の「有竹斎」と名付けられた収蔵品、京都の小川睦之輔が持っていた王維の作とされる山水巻物、現在は惜しくも散逸してしまったが大阪の斎藤董盦が持っていた「董源」や「巨然」などの重要作品が含まれる。重要な個人コレクションの中には現在、私立博物館となったものもある。兵庫県の黒川古文化研究所には、大阪の黒川一族が持っていた董源の早期の作とされる絵画が収められている。しかし山本悌二郎の収蔵品にあった李公麟の「五馬図」はすでに破損してしまったものと考えられている。四日市の私立美術館「澄懐堂美術館」には、李成が描いたとされる「平林遠樹図」などの重要作品が収められている。

 日本にある中国画コレクションには、このほかにも明らかに不足していると思われるものがある。例えば、董其昌の流れを汲む正統派山水画家の作品や、さらに早期の元四家の作品は、日本ではほとんど収集されていない。

鑑賞方式や収集方式の違い

 中国の「鑑古図」(古物鑑賞図)に見られるように、中国人は、巻物や画集を机の上に広げて近距離から座って鑑賞するが、日本人はこの方法をあまり好まない。日本人が好むのは、単面の掛け軸を壁にかける鑑賞方法で、茶室の床の間に飾って鑑賞するのが理想とされる。その原因の一つは、一般の日本人の住宅には、大型の巻物をかけることのできるような壁や施設がないことにある(幕府や朝廷はもちろん別で、こうした場所には広い空間があり、もともと独立した中国画の掛け軸を組み合わせた三面画を飾ることもあった)。例えば、馬遠の「寒江独釣図軸」は、大型の掛け軸の一部を切り取ったものと見られ、絹本に横向きの亀裂があることがそれを裏付けている。絵の背景には波以外には何も見られないが、馬遠がこのような単一的な構図を取ることはない。また馬麟の「夕陽秋色図軸」はもともと見開きのもので、一方に書、一方に画を配したものだった。中国の収集家ならば書画を左右に置いて鑑賞するのが自然である。だが日本では、茶道の大家によるものか、これが上下の掛け軸にまとめられた。これまで宋代の絵画について講義をしていた学者は、この傑作について、水面の上空に書が置かれたこの掛け軸の構図にのっとって解説してきた。

 物語を語る絵巻を除けば、巻物は早期の段階において、日本人にはあまり好まれず、一部分の絵を切り出し、掛け軸として飾ることが多かった。牧渓が描いた野菜や果物、その他の品々を描いた巻物も、日本人が裁断し、こうして組み直され、柿や松の実などが単体で表現された現在の掛け軸となったと見られる。玉澗の「洞庭秋月図」や牧渓のものと伝えられる溌墨山水の傑作「遠浦帰帆図巻」は、もともと巻物の一部だったが、現在は単独でゆっくりと味わうよう掛け軸に作り替えられている。玉澗の「廬峰図」は、禅宗の影響を受けた収集家にとっては大きく複雑すぎたのか、画面左側の滝の部分が切り取られ、独立の掛け軸となり、禅の瞑想のために使われた。後世から考えればこうした手直しは惜しいことと思われるかもしれないが、これが保存されてきたということにまずは感謝しなければならない。

 中日両国の異なる文化の中で、絵画の収集にはどのような違いがあるのかという問題については、おおよそ次のように説明することができる。20世紀初頭の第二段階においては、日本の収集家は、中国の評価や収集の伝統に倣い、中国の収集家とほぼ同じ趣向で作品を購入した。これに対し、早期の「古渡」の時期には、両国の収集文化は大きく異なっていた。元代から、中国で影響力を持つ批評家は収集家に対し、熟練した技巧や真に迫った描写、高い気品など、南宋院体画に独特で別格な地位を与えていた要素には、もはや大きな価値はないと繰り返してきた。これに取って代わり、筆使いの絶妙さや個性的なタッチ、伝統的な流派の優雅な視覚的要素の再現、作中に表現された捉えどころのない「気韻」(Spirit Consonance)が、作品の価値をはかり、収集品を選ぶ基準となった。こうした評価基準は、当時の日本人にとっては到底理解されるものではなく、宋代院体画のスタイルは日本では依然として人気を保ち続けた。また「古渡」の時期に輸入された「宋元画」のうち、「禅宗画」と言われるジャンル(何をもって「禅宗画」とするかは意見が分かれる)も注目に値する。中国では、こうした作品はほとんど例外なく批判・排除され、収集・保存されることはなかった。少なくとも重要な主流の収集品の記載の中にこうした作品の痕跡を探すのは難しい。

 中日両国の絵画収集方法には、このほかにも大きな違いがある。中国の収集家は、蔵品に大家の署名や捺印があることを望んでいる。もっとも、こうした署名や捺印は必ずしも信頼できるものではなかった。また彼らは、優れた作品を作っていても名の知れていない芸術家(Small-name Artists)には、目を向けようとはしない。王季遷氏は「偉大な作品は偉大な芸術家の手によるのだ」としている。すなわち、正統として名を馳せた(Orthodox Canon)芸術家だけが偉大な芸術家だという見方が中国では根強い。日本ではこれとは逆に、中国の歴史書にはいかなる記録もない画家も含めてあまり名の知られていない芸術家の優秀な作品も大切にされている。宋代の宮廷画院の作品について言えば、中国の収集家は、大家・巨匠と言われる画家の署名や捺印のある作品や重要な人物の題跋の添えられた作品を重視し、その収集・保存に力を入れてきた。

 これに対し、「古渡」の時期に中国絵画を愛した日本人、僧侶や幕府の将軍たちはいずれも、南宋院体画風の作品を評価していた。これらの作品はいずれも画院には属さない無名画家の手によるものだったにも関わらずだ。現在、そのうちの多くは逸品とされ、その時代の傑作として正当な評価がくだされている。現代の人々は、過去の中国と日本の鑑賞・収集家に感謝しなければならないだろう。いつの時代にあっても、どこにいても、これらの収集家らは、互いに異なる趣味と信条をもって、これほどに豊かで多様な中国絵画を現在まで伝えてきた。中日両国のそれぞれ異なる収集の伝統に支えられ、古代中国の絵画はその壮大な様相を見せてくれている。我々としては実に幸いなことである。


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