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【14-11】曜変天目茶碗と日本の茶道

2014年11月20日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

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 曜変天目茶碗は茶人の間ではよく話題に上り、憧れるだけで手の届かない高嶺の花でもある。それは珍重され、現存する曜変天目茶碗は多くの人の心に刻まれ、脳裏に焼きついている。本来、曜変は「窯変」「 容変」と表記され、十五世紀前後に「星の瞬き」「輝き」を意味する「曜」の字が当てられるようになった。

 一方、天目とは鉄質黒釉のかかった陶器の総称で、天目茶碗の代表的な物として建盞と呼ばれるものがある。これは中国宋代の名高い陶器のひとつであり、中国福建省にあった建窯で産出され、唐 時代に築窯された建窯は宋代にその全盛期を迎えた。建盞天目は宋朝時代の皇室に御用達品として愛用され、代々と受け継がれた結果、今では日本で4点の曜変天目茶碗が国宝級の指定を受けており、世 界に名高い貴重な秘宝となっている。

 日本の裏千家茶道資料館学芸顧問の赤沼多佳氏らの研究によると、日本では1335年(建武ニ年)の史料に「天目」の名が初見されるが、「建盞」という名も同じ時期に確認されている。この当時の「建盞」と「 天目」は明らかに区別されており、「建盞」は建窯産の正当な茶碗を指す用語であった。それが十六世紀中期になると、「建盞」からは「曜変天目」「油滴天目」などが派生し、他にも「河南天目」が産出されるなど、後 に「天目」と「建盞」は同類の物となった。

 中国の国立故宮博物院研究員 耿宝昌氏によると、「曜変天目」は宋代の陶芸家の作とされる。漆黒の器の内側の釉面に、星のようにも見える大小の斑文が散らばる陶器で、手 間暇かけて作られた極めて貴重なものである。釉薬が焼かれる時に化学変化を起こし、その結果、独特な青が入った文様がその焼き物に残り、角度によっては虹色に光彩が輝いて見える。――これが、曜変天目が宝光、あ るいは仏光を放つと言われる所以でもある。

 中日両国の茶人が曜変天目茶碗を突き詰めたいと願うのは、宋代に発展した新しいお茶のたしなみ方と密接な関係があるからである。それは、闘茶である。

 闘茶とは、茶葉の品質や点じた時の茶碗の中の様々な模様の図柄の美しさと変化などを競い、勝ち負けを決めるものである。そのため闘茶では、茶器にも質の高さが求められた。

 闘茶はまず茶葉を入れることから始まる。餅茶をあぶり乾燥させ、砕き、粉末状にする。次に、「ふるい」にかける。宋代の文人 蔡襄は『茶録』の中で、「ふるいの目が細かすぎると茶が浮き、粗 すぎると湯が浮く」と述べており、茶葉の浮き沈みは闘茶の勝負の分かれ目でもあった。

 あらかじめ温めておいた茶碗に、十分に細かくなった粉状の茶葉を入れ、湯の温度は高すぎず低すぎず、茶葉に対する湯の量は多すぎず少なすぎず、すべてがちょうどよい頃合いで湯を注ぎ、茶筅で撹拌する。そ の際、手首をよく動かし、滑らかになるまでしっかり撹拌することで、碗の中の粉茶が舞うように混ざり合い、とろりとした状態になる。この時、茶湯の表面の色は黄色で、光を跳ね返し銀光を放ち、一筋の湯気が漂う。浮 かび上がった粉茶は碗の縁に集まり、そのまま椀の形に沿って移動する。茶湯が泡状になり碗の縁を覆っている様は、まるで茶碗を噛んでいるかのように見える。(『大観茶論』)。このように茶を入れると、茶 碗に茶湯のあとを残さないのである。梅堯臣は詩で歌っている。「新しく闘茶を入れたら碗を噛ませることである」と。茶葉(粉)が粗いと碗の下に沈み、散らばってしまい、茶 と湯が分離し滑らかなとろりとした状態にはならない。その結果、茶湯のあとが残ってしまう。闘茶は作法に則りきちんと茶を入れないと、負けてしまうのである。

 こうした事からもわかるように、闘茶では茶湯のあとが残っているか否かが問われ、模様のようなその白いあとは、黒い陶器において最もはっきりと見分けられるのである。宋代の『方輿勝覧』には、「 茶の色が白いので、黒い碗に入ると、そのあとがはっきりと確認できる」と記されている。ゆえに宋代では、黒い碗が最も珍重されたのである。

 その中でも、現在の福建省建陽市水吉鎮にある建窯で作られたものが最も有名である。『茶録』には、「建安(現在の福建省)で作られたものは若干青みを帯びた黒色で兎の毛のような一種の流斑があり、そ の素地にはたっぷりの釉薬をかけて焼かれており、蓄熱性にすぐれ保温力も高く、最も価値が高い」と記されている。建窯で作られた天目茶碗には兔毫盞の他にも油滴天目があり、俗に「一碗珠」とも呼ばれる。釉 面にある斑点が水に浮かぶ油のように見えることからこの名があり、黄土色の斑点のものが「金油滴」、銀白色の斑点のものが「銀油滴」と呼ばれる。

 明代の曹昭による『格古要論』七巻には、「福建の建窯の器は、その口縁の多くが、碗の立ち上がりが深く口縁で一度内側に絞ってある鼈口と言われるもので、色は黒くつややかで、黄土色の斑模様があり、そ の模様が大きいものほど良いとされる。器本体は艶のある黒釉が厚く掛かっており、薄いものはほとんど見当たらない」と記されている。この斑文の周囲に瑠璃色や虹色の光彩が取り巻いているものを「曜変」と言い、天 目茶碗の最高峰として位置付けられている。

 また、現在の江西省吉安市永和鎮にあった吉州窯も宋代の黒い碗(天目碗)の素晴らしい名品が遺された産地であり、黒い施釉から羽根のような模様が現れるしゃこ斑、施釉黒・黄などの色を混合したべっ甲斑、木 の葉焼き付け、切り絵の貼り付け焼きなどが有名である。特にしゃこ斑の黒磁盞は、黒い施釉に鉄分含有量の異なる釉を重ね掛けし焼くことで、その独特の装飾をもたらした。宋代の小説『清異録』の中で、陶谷は「 閩(現在の福建省を中心に存在した国)で作られたしゃこの羽根状の装飾が施された茶碗は、茶を試飲する人々に特に愛用された」と述べている。

 さて、このように珍重される曜変天目茶碗はどのようにして中国から日本に伝わったのだろうか? 1941年、蒋大沂は考古学の研究成果として、日本は宋代に何人もの禅僧を浙江省・天 目山の禅寺に留学させており、その時に中国の陶磁器の生産技術を学んだのではないかとしている。この禅寺 は規模が比較的大きく、唐代あるいはその以前より開院しており、宋代には修築も行われた。& amp; amp; lt; /p>

 宋末から元初にかけては、西天目山の仏教活動の最盛期であり、国外の高僧が次々と入山し西天目山にある寺で修行している。中でも日本は最も熱心で、参 内した日本僧の多くは西天目を臨済宗の発祥地と考えている。

 そして多くの日本の留学僧は帰国にあたり、黒釉の掛かった茶碗を持ち帰り、中日文化技術交流の使者として、曜変天目茶碗を日本にもたらしたのである。これらまばゆい精彩を放つ茶碗を、日 本人は国宝として珍重し、今なお世の人々から高い注目と関心を集めている。

 曜変天目茶碗が日本に伝わると、十四世紀頃から日本人はこれを真似て作るようになったが、十七世紀頃まではその多くは量産されるようなごく普通の黒釉盞であり、曜 変天目茶碗のような高品質な茶碗は作ることができなかった。それでも曜変天目茶碗の神々しい輝きに魅了された日本人の憧れは特別のものがあり、果敢に取り組む陶芸家たちは、こ の魅力的で神秘的な曜変天目を何とか作りたいと苦心し、努力を重ねた。しかし、成功した者は一握りに過ぎなかったのである。

 現存する日本の文献を紐解くと、多くの日本の文人たちがこの分野について研究し、記述を残していることがわかる。室町中期に生まれた東山文化には、千利休の名が知られる以前の茶道文化が見られ、そ の多くは宋代茶文化の本質、真髄を受け継いでいる。たとえば、茶器は本場中国から伝わったものであり、唐物と呼ばれ、もてはやされた。当時の足利将軍に仕え、東山文化を代表する画家で茶人でもある能阿弥は、そ の著書『君台観左右帳記』の中で、「曜変天目は建盞の中では最も価値ある逸品であり、世界でも大変貴重な作品である」と称賛している。

 ただ残念なのは、曜変天目が日本にのみ存在しており、中国には完全な形での曜変天目は残されておらず、その文献上の記述も収蔵記録もないことである。しかしながら2009年、浙 江省杭州市上城区で曜変天目の陶片が発見されていたことが発表された。恐らく出土場所から、南宋の宮廷用に献上されたものと推察され、全体の4分の1程が欠け完全な形とは言えないが、高 台(卓に接する足の部分)は揃っており立派であった。現在、出土品は民間収集家の手元で大切に保存されている。この発見を曜変天目研究の千載一遇の好機ととらえたい。

 宋代の天目茶碗には、焼く際に「しゃこ斑」「油滴」「兔毫」などの文様が見られるが、中でも中国古代で最も高く評価される陶器「曜変天目」は古くから詩文や書画など風流に親しむ文人墨客に珍重され、歴 代にわたり数々の賛美の詩句が寄せられたのである。

 さて、天目茶碗の中でも曜変天目がとりわけ美しいことは述べてきた通りであるが、世界を見ても現存する曜変天目茶碗は極めて少ない。現在知られているのは、世 界にわずか3点しかない宋代の曜変天目が日本に収蔵されているということである。これは、曜変天目三絶(御三家)と呼ばれている。そのうち1点は東京の静嘉堂文庫に、2点目は大阪の藤田美術館に、3 点目は京都の大徳寺龍光院に収蔵されている。さらに、鎌倉の大佛次郎氏が収蔵していた曜変天目は、前述の3点とは異なり、曜変天目の亜種として有名である。油滴天目とする意見もあるが、釉 薬の表面が放つ光は虹彩にも類似しているものの、僅かな偏光性を見せ、通常の虹彩とは別物であることがわかる。中には、これを「半曜変」と呼ぶ者もおり、1953年、日本政府により重要文化財に指定された。こ れら4点の曜変天目はすべて建窯で作られもので、黒釉茶碗(天目)では大変希少な最高傑作であり、世界でも貴重なものである。

 静嘉堂文庫に収蔵されている建盞「曜変天目茶碗」は最も星紋が鮮やかに現れており、瑠璃色の光彩が取り巻き神々しい光を放っている。黒い釉面が窯変の作用を受け、大小の斑文ができた。そしてそれは、光 線が反射する方向により、その色を変える。垂直方向から見ると斑文は青く、斜めから見ると黄金色の光を放つのである。日本人はこれを曜変天目と呼び、国宝とした。

 これら曜変天目は、陶磁器の歴史においてこの上もなく貴重な作品である。数十万~数百万個の黒釉の中から偶発的に生まれたもので、自然に起きた窯変により形成されたものと言える。決 して陶芸家が意図したものではなく、試行錯誤の果てにわずかに完成をみた作品であったからこそ貴重なのである。

 後世になり、曜変天目茶碗を復元したいという陶芸家は後を絶たない。彼らがたゆまず復元を願うのは、日本人特有の自然や美術品の持つ本当の美しさを見極めようとする心情や、緻 密な茶道の作法と大きく関係している。

 しかしながら、復元に成功した陶芸家は数える程しかいない。

 林恭助氏はそのうちの一人である。彼は、ニ度焼きするという手法を用いて曜変天目に近づいた作品を発表した。中国古陶磁研究会名誉会長でもある厦門大学 葉文程教授は、「林恭助氏が復元した作品は、建 窯で窯変し生み出された茶碗の素地、釉、斑文に類似点が見られ、器の形、姿、色味も酷似していた」と評価した。2007年3月18日から26日まで、『曜変天目――林恭助展』が中国美術館で開催され、日 本の陶芸家として林恭助氏の新作24点が展示された。このうち12点は彼が復元した中国宋代曜変天目茶碗で、他12点は彼独自の創作性が発揮された作品であった。彼 の作品が私たちを茶器全盛の宋代建盞の時代に引き込んでいく。これらの茶器 で茶をいただくと、私たちの心に、何とも言えないなつかしさと、帰りがたい名残惜しさを感じる。