【14-14】橋川時雄と『楚辞』

2014年12月22日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09—2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09—2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09—2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 橋川時雄(1894.3.22—1982.10.19)は、漢学者として近代中日文化交流の大事な役割を果たした。最も知られているのは『続修四庫全書提要』の編纂を行ったことである[1]。このほか、彼は東晋末から南朝宋の文学者、陶淵明の研究[2]や中国戦国時代の詩集、楚辞の研究でも功績を挙げている。

 本稿では橋川時雄著『楚辞』を中心に、彼の楚辞学が完成するまでを考察する。著書として『楚辞』を選んだのは、ひとつには日本の学者が研究した楚辞の論理的専門書であること[3]、また、第二次世界大戦の痛ましい過去を背景に、日本の学者が『楚辞』を研究することで東アジアの未来を真に追求しようとした先駆的作品であることが理由である。

 橋川時雄は字を子雍、号を酔軒、酔軒潜夫といい、室名(室号)は提要鉤玄室、日本近現代の著名な漢学者で、福井県足羽郡酒生村(現在の福井県福井市酒生町)に生まれる。父は荘兵衛といい、母の姓は柳生で、二人目の子であった。

 1913年3月、福井師範学校(現在の福井大学)本科第一部課程を修了。同年4月、福井県内で小学校教諭の任に就く。1914年12月、福井師範学校の本多忠綱校長の推薦を受け、漢学者の勝屋馬三男(字は子駿、号は明賓)の簸水精舎に入る[4]。勝屋は佐賀の出身で、広瀬淡窓が設立した咸宜園の最後の塾長をつとめた人物である。

 1918年3月下旬、橋川は神戸から船に乗り中国大連へ渡る。1918年5月、『順天時報』(北京で発刊された漢字新聞であるが、のちに日本の公使館に譲渡された)という新聞を発刊していた新聞社の渡辺哲信社長(もと西本願寺の僧侶で、大谷光瑞が率いる中央アジア探検隊の初回メンバーであった)の紹介により、共同通信社に入社、翻訳記者となる。また当時、中国総統府法制局の顧問として招聘された有賀長雄にすすめられ、北京大学の聴講生となる。この間に北京大学校長・蔡元培や文学学長・陳独秀と出会う。

 1920年8月18日、北京を発ち陶淵明ゆかりの地や墓を訪ねている。1921年3月には東京に戻り、『陶淵明評伝』の執筆に着手。同年年末、政教社から出版された。しかしながら、『陶淵明評伝』(上中下三巻)は、1923年9月の関東大震災で書籍、原稿ともに焼失してしまい、現在では勝屋明賓が1921年にまとめた中国語の序文が残されているだけである。

 1922年に北京に戻った橋川は、日本語の刊行物を出版する『新支那』社に入社した。その後、『順天時報』社に入社し、1927年3月に退職。同年、文字同盟社を主宰し、漢文、日文併載の雑誌『文字同盟』を1931年まで発行、このことが学術研究における中日文化交流の道を開くきっかけとなった。

 1928年[5]から1945年まで、橋川は東方文化事業総委員を務め、『続修四庫全書提要』の作成に参加した。総務委員署理として、事実上の事務局長となり、『続修四庫全書提要』を推進する中心人物となった。この期間、『続修四庫全書提要』の編纂のため、柯劭忞、王国維、胡玉縉、馬衡、陳師曽、傅増湘、齊白石、沈兼士、周作人、鄧之誠らとお互い励まし合いながら交流を深めている。

 傅増湘は『中国文化界人物総鑑』の序文で橋川についてこう述べている。「学業に熱心で、物事にくじけず決断力に富み、リーダーシップもありながら、人とは穏やかに誠意をもって接し繊細な一面も持ち合わせている。最近では『続修四庫全書提要』編纂のため、寄稿文の選別に奔走し忙しくしているが、先輩とも後輩とも等しく交流し、見聞も広めている」と[6]

 1931年4月8日に日本に帰国し、江瀚や胡玉縉とともに服部宇之吉を訪ね、『続修四庫全書提要』の作成について話し合っている。1940年には、張寿林、謝国楨、班書閣、孫海波らとともに漢文の古書について調査するため、朝鮮のソウルへ出向いている。

 そして、1942年3月、橋川一家は熊本に移住。1945年10月5日、日本が敗戦したことで、橋川時雄は中国教育部の特派員 沈兼士に東方文化事業総委員会を引き継いだ。さらに『続修四庫全書提要』の原稿約3万5千本を委ね、『続修四庫全書提要』の編纂開始以来の経過と計画にかかわる約300ページにのぼる詳細な説明書を教育部に自ら渡した。この橋川個人の蔵書は今も中国に残っており、一部は中国教育部に、また山東大学に保管されている。

 中国に渡っていた橋川は、1946年4月には日本に帰国し、1947年4月に熊本から福井に移り、松岡町に寓居した。京都女子専門学校(現在の京都女子大学)教授、大阪市立大学教授を歴任。1957年4月、関西大学文学博士学位を取得。学位論文は『中国文史学序説第一篇読騒篇』。この後、二松学舎大学講師、二松学舎大学教授、図書館館長を歴任。1971年に二松学舎大学教授を引退し、二松学舎大学名誉教授となる。

 晩年になっても、『続修四庫全書提要』への思いは断ち切れず、王雲五が台湾で『続修四庫全書総目提要』を出版すると、これをたたえ詩を贈り、感謝の意を伝えた。

 1982年10月19日、急性心不全のため長野県野尻山荘で死去。享年八十八歳。死後、漢籍蔵書約3300冊は二松学舎大学に寄贈され、二松学舎は「酔軒文庫」を設けて記念とした。

 橋川の研究は広範囲に及び、主要な業績としては、陶淵明研究や『続修四庫全書提要』の編纂、楚辞、敦煌曲写本、詩歌などが挙げられる。

 橋川はこれまでに梁啓超『清代学術概論』(1922年 東華社刊本)、胡適『近年の支那文学』(原題『五十年来の中国文学』)(1924年 東華社)、馮至『杜甫―詩と生涯』(原題『杜甫伝』)(1977年 筑摩叢書)を翻訳した。代表的著作には、『陶淵明』(1925年 東京政教社)、『陶集源流刊布考』(1926年 北京文字同盟社)、『異国物語』附『校読記』、『異国物語』附『考訳』(1935年 東京三秀社)、『中国文化界人物総鑑』(1940年 満州行政学会)、『楚辞』(1943年 日本評論社本)等がある。

 代表的論文には、「陶淵明の品格及びその環境」(『日本及び日本人』第八一八号)、「陶集版本源流考」(1957年 二松学舎大学自費出版)、「宦官備忘録」(『文芸春秋』第三十七巻第十二号)、「屈原賦二十五篇について—<漢書藝文志>に編目」(『神田喜一郎記念論集』1957年)等がある。これ以外にも『摯虞<叢文章流別集>及び<志論>考察』、『四庫全書纂修考』、『新修四庫総目提要大系解題』、『儀征劉氏学録』、『楚辞源流刊布考』、『漢魏六朝集本及び<文選>源流刊布考』、『李充<翰林論>考察』等、未刊行の手記もあり、その一部は現在、中国東北師範大学に収蔵されている。(李慶『日本漢学史』第二部、380ページ、上海人民出版社、2010年12月版を参照)

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 中国戦国時代の楚の詩人、屈原は『楚辞』の代表的な作者であり、『楚辞』が編集されると数百種類の注釈書が世に出回った。橋川は『楚辞』を執筆するにあたり、これら注釈書を広く収集し、中国で仕事に就いていた頃から屈原研究序論を書き始めている。そして学術界に屈原問題論争が起こっていることも聞き及んでいた。

 橋川が『楚辞』を研究対象としたのは特異な歴史的背景に着目したからであり、『楚辞』の自序において「現在、我々日本人の頭は『亜細亜をどうするか』に対する激情で満ちている。小生もまた、戦後の東亜が作るべき文化の諸問題について悩み、これに尽力する所存である。数多くの創作の後に汨羅の深淵に身を投じた楚国の詩豪屈原は、『東君』において、青雲の上衣に白霓の裳をまとった東君を望んだ喜悦を描き出し、歴史に対する希望を表現した」と述べている。

 さらに自序には、「この『楚辞』は、6月20日に執筆を始め、2か月をかけ、蒸し暑い中、草稿を書き上げた。筆者の頭の中では、汨羅の英霊と真珠湾の底に沈んだ英霊とが重なって見える。本書が時代性と大衆性とを備えるのにこうしたことが役立つかはわからない。筆者が求めているのは歴史の真理と真相とを追求することであり、それ以外にはない」と記されている。

 橋川時雄は『楚辞』の執筆に際し、中国文化を知るためには2つのことを正しく認識しなければいけないと考えた。ひとつは人口が多いこと。「天下に3人集まれば、そこには必ず中国人がいる」と例えられたほどである。もうひとつは、歴史が古く、紀元前十七世紀頃の殷王朝まで遡ること。

 橋川は40年代の中国は政局が不安定で多種多様な文化が共存していたが、その複雑化した背景を理解するためには、中国古代まで遡る必要があると考えた。しかしながら、文書による資料は不明瞭で、当時の状況を把握するには難しく、古代の歴史を知ることは、フィルターがかかって大事な成分が取り除かれてしまったかのようだと言っている。

 『楚辞』は中国文学史上最も早期の詩集であり、その大部分が屈原の作品で、一部が後人の作品で編纂されている。楚辞がその由来となった「楚辞体」(社会や政治に対する憂憤を述べたもの)は、世間で広くもてはやされ『楚辞』の影響力が大きかったことを表している。その中に収められた漢人の作品には、楚人の民族性や政治社会、文化が反映されており、このことは中国大陸で楚が栄えていたことの証しでもある。楚の「血」(民族性)、

 「地」(地理風土)、「国」(政治)が一体となり、新たな文化が生まれ形成されていく。これは本稿で探究したいテーマである。橋川は、楚は秦に滅ぼされたが、その後興った前漢、後漢はともに楚国の文化を伝承していると考えている。

 橋川は、ある一面から中国文化を見ようとしてはならず、政治史、文化史の両面から見るべきであるとしている。政治史の面からみると、中国は王朝の興亡を繰り返し、王朝が変わるたび領土も変わる。王朝は並立したり交代したりの歴史であるが、一方で文化は絶えることなく継承されている、と。司馬遷は『史記・六国年表序』で次のように述べている。「物事や発想は東方で生まれ、西方では事を成し遂げる。創造する者はいつも東南に、それを享受する者は西北にいる。たとえば、夏王の創始者 禹は西羌(西北部に住む民族)とともに事を成し、湯(湯王)は亳に都を置き、秦帝は雍州で、漢も蜀漢をきっかけに栄えた」と。これについて、橋川はこう考える。東北から西南にかけ線を引き、西北部は「華」、東南部は「夷」である。華系人は政治能力に長け、夷系人は文化創造能力に長け、その文化は殷代文化を起源とする。彼は、司馬遷の記述に歴史的な意義を見い出し、独自の見解を示したのである。これが橋川の「華夷思想」である。

 殷文化の中心はトーテム文化であり、例えば殷人が自分の祖先は「太陽鳥」であると信じれば、以降の古代青銅器、骨器、甲骨文には「太陽鳥」が彫られた。このことは、『楚辞』に収められた屈原、宋玉、景差らの作品が、殷文化が発展したものであることを示しており、『楚辞』が漢代に編纂された証しとも言える。また、華系文化の起源は周代であり、孔子の教えもこれに由来する。『史記・楚世家』、『三代世表』、『六国表』、『十二諸侯年表』には楚国の興亡史が描かれている。

 橋川時雄が『楚辞』を執筆したのは、ちょうど日本が第二次世界大戦に敗戦した後であり、日本の学者の中で東アジア文化圏について考え始めた先駆者と言える。

 この書籍は上、中、下三編、計八章二十八節からなる。上編では華系と夷系という2つの中国文化を、「楚」と「辞」という観点に分け、屈原及びその作品が生まれた文化的背景に迫る。中編では『楚辞』の目次の編纂、注釈等の面から『楚辞』が書籍となり広く行き渡った背景を探求し、楚辞文学の文学的性質と影響を分析、『離騒』、『天問』、『九歌』を解釈した。下編では楚の三閭大夫、淮南王劉安の『楚辞』上の伝説、楚の俗説という3つの問題を取りあげ、三閭大夫の楚での役割、淮南王劉安への注釈等、『楚辞』と民俗学との関係を分析している。ゆえに本書は「日本の学者のなかで楚辞を研究した論理的な専門書」である(崔富章『楚辞書録解題』、 778ページ、高等教育出版社、2010年1月)。

 橋川時雄が屈原及びその作品を専門的に研究したのは、当時の学者が日本や東アジアの発展と運命に注目していたからである。そしてこれら文学者が中日文化において果敢にも歴史と向き合ったからこそ、中日文化の友好交流は一歩一歩確実な足取りで前に進んでいる。未来に向け、中日両国の学者には先代が取り組んだ中日文化発展の貴重な歴史的遺産を受け継ぎ、これをたゆまず開拓し、新しい成果を得る責任と義務がある。


[1] 薩仁高娃「『続修四庫全書総目提要』に関する通信」『文献』2006年7月第三期を参照。郭永芳「<続修四庫提要>纂修考略——<続修四庫提要>専門研の一」『図書情報与工作』、1982年第五期。

[2] 橋川時雄『陶集版本源流考』文字同盟社、1931年を参照。本書は陶淵明を研究する学者の必携書となっている。朱自清は本書を「とてもためになる」と言った。

[3] 崔富章『楚辞書録解題』、778ページ、高等教育出版社、2010年1月。

[4]今村与志雄「橋川時雄著訳年表」『文字同盟』第三巻、汲古書院、1991年11月参照。

[5] 梁容は1927年であると考えている。同氏著書『中日文化交流史論』、商務印書館、1985年。

[6]『中国文化界人物総鑑』、北京中国法令編印館、1940年10月を参照。


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