【15-04】岡松甕谷と『楚辞考』

2015年 4月14日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09—2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09—2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09—2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

 岡松甕谷(1820-1895)は、幕末から明治中期にかけ活躍した肥後 熊本藩につかえた著名な儒学者である。文政3年(1820年)1月14日、豊後国大分郡高田手永上徳丸村で生まれた。父親 岡松数右衛門真友は、豊後国の代官兼惣庄屋を務めていた。名は辰、字は君盈、号は甕谷である。

 天保7年(1836年)、豊後国日出藩の儒学者 帆足万里に入門し、」仲間からは、その知識はまるで次から次へとわき上がる雲のようだ」(『文靖先生の行状』)と称えられ、帆足先生の弟子の中でも」十哲」のひとりに数えられた。弘化4年(1847年)、甕谷は帆足万里に従い京都、次いで江戸と巡り、嘉永5年(1852年)には熊本藩藩校時習館の寮生に認められたが、すでに学識は学生の域を超えており、経筵侍講(教師)、獄曹椽(典獄)、詮曹(裁判長)などを歴任した。彼はこの期間、羽倉簡堂、安井息軒などと交友を持ち、儒学への造詣をますます深めている。

 明治2年(1869年)には大学少博士に就任し、頼支峰、川田甕江、吉野金陵、重野成斎らとの親交を深め、当時、周囲からは彼と川田甕江を称し、」京都二甕」と呼ばれていた。翌年辞職すると、太政官権少史に命じられたが固辞して高田に帰郷し、文政3年(1863年)に熊本城下に構えた竹寒沙碧書屋を修復して、人々を集め講義をしている。

 その後は延岡、熊本などを回り、明治9年(1876年)には東京に私学 紹成書院を設立、教授としてオランダ語、英語などを教え、子弟の教育に尽くした。明治15年(1882年)には、文部省御用掛兼東京大学文学部教授、さらに予備門教授を兼任し、2年後には華族女学校(学習院女子中、高等科)講師も務めている。

 そして明治28年(1895年)、肺を患い病死。のちに文靖先生と呼ばれるようになった。

 甕谷の功績は、自著『自寿序』のほか、関口隆正『文靖先生の行状』(『甕谷遺稿』付録、東京吉川弘文館、1901年2月)、大家富吉『帆足万里先生門下生の伝記』(1971年、日出町教育委員会)、『高田村志』(1921年、未刊本)などから知ることができる。

 甕谷の主な著書には『初学文範』、『荘子考』、『楚辞考』、『漢訳常山紀談』、『承久記略』、『在府中覇窓漫興』、『窮理解環』、『東瀛紀事本末』、『訳文彙編』、『西客問答』、『紹成講義』などがある。そのうち、すでに刊行されているものには『初学文範』(東京府星野松蔵書点、1877年)、『地理撮要』(東京奎文堂、1883年)、『岡松甕谷先生文集』(日月星辰四巻、欄外にある羽倉簡堂、安井息軒による評価、現在大分県日出町万里図書館に保管されている星辰下巻の一冊)、『甕谷遺稿』(三男 参太郎と四男 匡四朗の編集による。東京吉川弘文館、1901年2月)、『漢訳常山紀談』(岡松参太郎の編集による。東京、1916年2月)などがある。

 『楚辞考』全四巻の写本は、各巻1冊ずつ4冊に製本され、現在は早稲田大学中央図書館の資料室に所蔵されており、保存のためすでにマイクロフィルム化されている。

 1999年、甕谷の三男、岡松参太郎の子孫である岡松浩太郎、雄次郎、壮三郎、藤本衣子の四氏により、岡松甕谷と参太郎の功績に関する文書資料や書籍の全てが早稲田大学図書館に寄贈された。その数は7000冊にも上り、「甕谷書庫」が設立された。『楚辞考』はその中に収められている。(浅古弘「岡松家旧書庫・文書資料について」『早稲田大学図書館報』第63号、1999年12月)

 上記の写本は甕谷の三男 参太郎と四男 匡四朗によって書き写され、1907年に第一版が完成した。その後、校正が繰り返され1909年には改訂版を出版、文中及び余白の朱文も校正され、全体を読むことができるようになった。大正5年(1916年)、富山房が刊行した『漢文大系』二十二巻『楚辞』では、『楚辞考』中の「考曰」を削除し、王逸、朱熹による脚注を加えている。

 本書の主な観点は以下の通りである。

 第一に、甕谷は「九歌」を後世になりあらかじめ決められた題によって作られた作品とみており、屈原が江南地域に出向いた際、その村の祭祀歌があまりに野卑だったため改作したものだとする王逸、朱熹の考え方には賛同していない。甕谷は「東皇太一と礼魂は、九歌の始めと終わりに収められ互いに補い合う詩になっており、全体を美しく整えている。その間の雲中君から国殤までは心中の悲しみや憤りが綴られており、その内容は少しずつ変化していき、突如深い悲しみが表現されるも、続く詩の中で何がそうさせるかについて説明している。しかし、王逸の見解によれば、これは江南地域の祭祀歌を改作したものだということである。」と記している。

 また彼は書の中で九歌のそれぞれの詩についてその趣旨を伝えているが、それらについては王逸らの考え方と同意見であるとしている。つまり、主君に対する忠誠を直接には表さず、別の物事に託して表現しているとした。

 「東皇太一」は神に対する崇敬の情を主君と臣下の関係に美しく例えており、「雲中君」は君臣の関係を雲の神に対する慕い悲しむ心情に例え、説明している。「湘君」「湘夫人」では、男女の相愛を君臣の関係に例え、しばしの会合を心安らかに楽しもうと「互いを慕う恋心」を唱っている。「大司命」は男神大司命を屈原に例え主君を諌め、「人々への悪」を伝えたものの、人には運命というものがあり、意のままに、と神の格式を表している。「東君」では、「助ける力がすでに自分にはない」と屈原が嘆いている。「河伯」は黄河の神である河伯と人間との神婚説話を背景としており、前後の詩の言葉遣いなどと比較すると、繊細な違いが見てとれる。「山鬼」は、山林の寂しい情景での山鬼がテーマとなっており、その山の神は河伯であることがわかる。「国殤」では、国家のために犠牲になった戦士の勇戦奮闘する様子を表現し、その功績を讃え、その霊をなぐさめている。「礼魂」では、霊魂に礼を献げ、「魂を送り出す儀式」が表現されている。

 第二に、甕谷は司馬遷以降に示された屈原の身投げ説を否定しており、林応辰や王瑗の見解に賛同している。彼は「懐沙」の解説の中で、「懐沙」とは中国北方異民族が「懐石」、つまり石を抱いて入水自殺するという意味で、汨羅を表しているとしている。懐王の時代、信任の厚かった三閭(屈原)は次第にうとんじられ、懐王の怒りを買ったことで官位も子弟の教官役にまで下げられ、沅(沅水)・湘(湘水)を巡っていた。そのため懐王が秦に監禁されるのを防げなかったともいえる。前後の詩からはこのあたりの心情を深く読み取ることができる。そして詩中では「広く大きな沅・湘の水は、分かれて流れ速い」と描写されており、これは懐王の時代と合致している。懐王は三閭を都に呼び戻そうとしなかったことで、秦で亡くなったと考えられるのである。余命10数年の頃、懐王は王の地位を退いているが、三閭は「哀郢」の中で、「九年は報復しない」という言葉を残している。三閭のために詩が編纂されたのは、それから二十年も後のことであり、三閭の死から相当の時間が経過してから、和解とも受け取れるような編纂がはたしてなされるであろうか?ただ、この詩から夷斎は首陽山で、三閭は汨羅で亡くなったと考えられる。二者は太史公の記載にも登場している。『荘子』によれば、夷斎は餓死したと言われ、三閭の死については確かなことは分かっていない。三閭に好意を持つものが永遠に彼の名を高めようと、人々の間で信じて語り継がれたものであると考えられる。

 賈生が示した「屈原苦しければ、自ら汨羅に深く沈む」という説が漢初期に定説とされ、太史公にもその事は記されている。三閭は人柄も良く学問に秀でていたが、不幸にも中傷を受け外界と隔絶され、その生涯を閉じた。三閭はどうすることもできない状況に追い込まれたのである。孔子は「貧乏と卑賤とは世間の誰もが関わりたくない、避けたいと思うものである。しかしながら、もっともな理由もないのに貧しくなったのであれば、貧乏や卑賤から逃れようとはしない」と語り、孟子もまた「早死にか長寿かは関係ない、身を正しくして天命を待つべきだ」と語っている。品行方正に振る舞えば、たとえ若くして生涯を閉じたとしてもその名は高められ、後世の人々により語り継がれていくものである。三閭のように、あれ程までに賢く、道徳的に模範的で正しい行いをできるものであろうか。

 林西仲によれば、三閭は自身の死をもって主君に忠告するため、詩にあるように進路を北の汨羅へ向け身投げをしたとされる。『哀郢』の詩にも、「官位を下げられた9年後、三閭は身を投げた」とある。それは乱心であったのか?それとも死をもって主君に進言するためであったのか?さらに、『悲回風』の最後に、「しばしば主君を諌めて聞き入れられず、重い石を背負って沈んでも何の益があろうか」と歌われているが、これは中国北方異民族のために語ったものか?それとも三閭自身のことを語ったものなのか?仮に三閭自身のことなら、何故身投げは無意味であると分かっていながら死に急いだのであろうか?

 やはり「惜往日」にあるように「そのまま心に堪え忍んで流れに沈み、ついに身を没して名を絶ってしまおう」、しかし、「主君の耳目をふさぐものがあるのを明らかにできないことが残念だ」ということなのだろうか。「漁父」の詩に「むしろ揚子江の流れに身を投げて魚の腹の中に葬られたほうがましだ」とあるように、居たたまれずに身を投じたのであろうか。「懐沙」の詩にも同じような表現が認められるが、「漁父」は情感に溢れ、とりわけ悲しみ嘆くさまが伝わってくる。この詩が歌われた当時、心情の変化や詩のストーリーを思えば、死は避けられなかったとも考えられるが、汨羅の蓋伊尹負県、百里奚飯の東野人が伝えていることなので、信ぴょう性に欠ける。また「惜往日」の解説には、「この詩は懐王の在職時、江南で作られ・・・」とあるが、詩には「そのまま心に堪え忍んで流れに沈み、ついに、身を没して名を絶ってしまおう」、しかし「主君の耳目をふさぐものを明らかにできないことが残念だ」とあり、身を投じる前に急いでこの詩をまとめたということには若干の疑問が残る。懐王の時代、屈原は江南に左遷され、数年後に再び郢に戻ったが、憤懣をぶつけこの詩を残したと考えられるからである。

 しかしながら、この見解は客観性を欠いているため『史記』屈原列伝の記載事実を変えることはできない。町田三郎は「この客観性の欠如の背景には、この見解の原点となっている甕谷の信念、堅固に守ろうとする彼の考えがあるからであろう」と述べている。(『岡松甕谷のこと』、1986年)

 第三に、甕谷は「天問」について「文体が周公の爻辞と酷似しており、その顕著な変化と特徴的な組み立てからは、屈原よりも先立ってその技法を残した草分け的な人物の存在がうかがえる。『天問』の筆者には独特の感性が欠けており、そこに弁解の余地はない。古今の専門家が述べているように、痴人に夢の話をしているようなもの、つまり無益なものと言わざるを得ない」、また、「『天問』は屈原による一種の画賛のようなもので、廟に描かれた天地山川の森羅万象の図を見て、国を憂い、懐かしむ気持ちから、それに詩を供えた」などと記している。

 第四に、甕谷は「九章」を屈原の創作の原点としており、特に重要視している。「『九章』は庶民を連想させ」、「それぞれの詩には多くの人々の意見が語られている」と述べている。また甕谷は「惜誦」について「懐王の時代にはじめて罪を得たが、なお郢都にあって書かれたもの」で、「渉江」については「懐王の時代に(追放され)江南に遷った際に書かれた」もので、「哀郢」は「襄王(頃襄王、懐王の子)の時代に作られ」、「抽思」は「懐王の時代に南遷したときのもの」、「懐沙」、「思美人」および「惜往日」も懐王の時代のものであり、「橘頌」については特に甕谷の論考はなく、「悲回風」は「襄王が即位した後、再び貶められ」、その時に作成されたと考えている。

 本書について考察すべき主な背景は以下の二点である。

 一つは、甕谷が明治3年(1870年)に退官し帰郷した後に、自身の不遇を憂い、政治生命の終結と人生で経験した大きな落差を心に深く刻んだ時である。彼は政治の前途に幻滅し、自らの心情を『楚辞』、『荘子』に投影した。例えば『竹寒沙碧書荘記』では「東へ西へと幾度か引っ越しをし、苦しむ人々も目の当たりにした。庭に美しく咲く花を、果たして来年誰が見るのだろう」と述べており、屈原の心情と重ね合わせている。『楚辞』、『荘子』の中に精神の安らぎを求めていたといえるであろう。

 二つ目は、明治維新となり、時代が大きく変化しながら進む様子を目の当たりにした時である。人々は精神的支柱の中心的役割を果たしてきた儒学を時代遅れとみなし、このことが漢学と日本の国学間論争に発展していった。甕谷は心を痛め、伝統ある儒学の復興に力を注いでいる。当時の社会においては、自分の漢学研究こそが局面を打開する突破口になると信じていたのである。例えば、「風のごとく変化に合わせて生きることが正道である(『紹成講義序』)」と述べ、『楚辞考』弁言では、「素早く時勢を読み、時代の流れに沿うために『荘子』と『楚辞』が助けになる」と述べている。『楚辞考』はこうした時代、社会が変化していく様と個人の境遇が変化していく様のもとで完成されたのである。

 竹治貞夫は『楚辞研究』で「本書は王注・朱注の要説を交え取り、まま洪興祖補注・林雲銘燈の説を引き、『考曰』で自らの見解を示しているが、旧説の不足を補い、その是ならざるものを正すことに主眼を置いて、注解の煩絮に陥るのを避けている。行文簡潔にして所説穏健というのが、本書の特色であると言ってよいであろう」と述べている(『楚辞研究』風間書房、1978年、350頁)。また稲畑耕一郎は「本書の注釈は明快で筋道を立て体系化されている。この『楚辞』は、日本人によって編集され全面的な注釈が加えられた唯一の漢語『楚辞』である」と評価している。


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