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【15-06】忠君勤王から見た屈騒精神―浅見絅斎を中心に

2015年 6月 3日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11--2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11--2013.03 浙江大学ポスドク連絡会 副理事長
2013.03--現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

 「東方諸国、とりわけ朝鮮人と日本人、中国人は長期にわたって、漢や唐、さらには宋の歴史、伝統、文化を共有していた」[1]。だが豊臣秀吉の朝鮮侵略や明代から清代への移行、明治維新などを経て、東方諸国は、研究方法や価値観、認識の視座などの面で徐々に違いが大きくなっていった[2]。20世紀末には、葛兆光氏を代表とする学者らが「周辺から中国を見る」「方法としての漢文化圏」などの問題に取り組み始めた[3]。葛氏によると、こうした取り組みは学術史の変化を促すだけでなく、哲学史・思想史・文学史などの分野にも同様の作用を及ぼすものとなる。「中国文学・史学界も、中国と周辺の各文明との文学・宗教・学術・芸術などでの相互作用を研究する必要がある」[4]。「巨大な『他者』を欠いたことで中国は『鏡』をなくし、自己を中心とした『天下観念』(周辺に対する蔑視と傲慢)や自己を宗主とした『朝貢体制』(宋代から状況は変化)を形成した」[5]。葛氏は、「他者」の精神世界や研究方法、思考の角度が大きなインスピレーションを与えることを重視すべきだと主張し、「周辺国家」の学者やその精神からこれを探すべきだとした。筆者の見るところ、日本の「士人」[6]が長期にわたって「楚辞」を朗読・研究する過程で形成した「屈騒精神」は、「周辺から中国を見る」という大命題の下で注目に値する研究対象の一つと言える。

 「楚辞」が日本に伝わってから、すでに1300年余りとなる[7]。長期的な伝承の過程で、日本の学者はこれを翻刻し、または句読し、または訓読し、または校勘するなどして[8]、楚辞学の日本における発展を大きく推進してきた[9]。海外の楚辞研究においては、日本は現在、楚辞学研究の重鎮とも言える位置を占めている。時代やそれぞれの境遇の違いから、日本の学者は、楚辞の研究・閲読において、ある時には愛国の心情を表現し、個人の政治的また学術的な主張を述べ、またある時にはこれに慰めを見出し、楚辞を自己の精神のふるさととしたのであった。「屈騒」(屈原の詩文)の精神は時空を超え、日本の士人の心中に根を下ろし、花を咲かせ、脈々と生き、屈騒精神の内実を地域と時代に応じて豊かなものとしてきた。日本人の屈騒精神は、中国古代のそれと相似した所もあれば、相違する所もある。本稿では、浅見絅斎を中心とし、日本の士人の忠君勤王の時代環境における屈騒精神が何だったのかを探る。この試みによって、「もともと混沌とした『同』と『異』を通じてそれぞれの文化の違いを確かめ、そうしたわずかな文化的差異が歴史と時間の流れに伴い、東アジア諸国のはっきりと分離したふさぎようのない文化的な溝へといかに発展したかを理解することができる」[10]

 屈騒精神は本質的に、儒家の主張する「内聖外王」という理想的な人格とは矛盾する[11]。「屈騒精神は、自我と社会という二重の精神の基点を体現している。その道徳主体と自律精神の表しているのは、社会に関心を持って自らの社会的価値を実現しようとすると同時に、社会の中で自らの独立した品性と自らの良知を保とうとする姿勢である。その愛国精神の表現や政治への批判、一切を懐疑する理性の精神、自らの人格と良知の死を賭した堅持は、伝統的な儒家の理想人格の現代的な転換に大きな参考価値を持つ」[12]。日本では江戸時代に朱子学思想が幕府によって正統とされ、忠君勤王が強調された。浅見絅斎はその代表的な学者である。

 浅見絅斎[13](1652-1711)は江戸時代早期の著名な学者である。名は安正、幼名順良、通称重次郎、絅斎は号。近江国(現在の滋賀県高島市)の人。山崎闇斎の門人として儒学と医学を学んで頭角を現し、門下生の中に右に出るものはなく「崎門三傑」の筆頭とみなされた。闇斎は神道を提唱し、これに従う人も多くいた。絅斎は闇斎の「敬義内外」説に従わず神道を好まなかったため、師弟は疎遠となった。絅斎は懐が深く、貧しかったが生涯藩主に仕えることはなかった。弟子の三宅観瀾が水戸藩に仕えた際には、絅斎はその志は道を行うことにないと絶交した。絅斎は武事を好み、その刀には「赤心報国」の4文字が刻まれていた。若いころには佐藤直方と厚い友情を交わしたが、直方が親の喪の明けないうちに招聘を受けたことから絶交した。直方は再び交友関係を結ぶことを願ったが、絅斎は決して首肯しなかった。絅斎は程朱の学を提唱し、程朱学の正統的な地位の回復を求めた。絅斎は著述においても生活においても、程朱の学をたたえることに努めた。現実の政治に対しては尊王を主張し、覇道を退け、王権がほかの勢力の手に落ちていることを批判した。日本の武士道精神の重要な理論的源泉である。明治維新になると、日本の士人は西方列強に対抗するため、「尊王攘夷」を主張したが、絅斎の「靖献遺言」はその思想的源泉とみなされている。

 「靖献遺言」は1684年から1687年にかけて書かれた。この書には、屈原・諸葛亮・陶淵明・顔真卿・文天祥・謝枋得・劉因・方孝孺の8人に関する伝記や評価が収録されている。この8人は中国史上でも尊王の志向が強い人物である。その筆頭と言えるのが屈原で、この南宋の民族的英雄に対してはとりわけ高い評価が与えられている。この8人の特徴として際立っているのは、尊王と忠君の思想であり、決して自らの利益を考えない献身の精神である。南宋末期の志士たちの業績は「本朝武士の鑑」としてあがめられた。同書は世に出ると、江戸時代の武家社会でベストセラーとなった。「士農工商」という階級制度がまだ廃されず、「国民国家」が実現される前、すなわち明治維新が実行される前の日本においては、敵陣に突っ込む武士や負けて自死する武士の多くが、文天祥の不朽の詩篇「人生自古誰無死,留取丹心照汗青」を高らかに詠ったという。明治時代前夜の幕末、同書は尊王思想の鼓舞に大きな役割を担い、多くの日本の武士の「聖書」となった。明治時代になっても、同書は繰り返し印刷され、研究された。日本の武士の死を恐れない精神や理想に対する強烈な信仰の源泉と模範はこの「靖献遺言」であった。「明治維新の志士たちの胸中には、南宋の忠臣・文天祥の英姿が鮮明にあったに違いない。これが彼等の精神を支え、逆境下での粘り強い行動の力となった」[14]

 「離騒懐沙賦」は、「靖献遺言」の巻頭に置かれている。同書の重点は「離騒」と「懐沙」の注釈にはなく、程朱学を広く伝え、屈原の忠君と勤王をたたえ、死んでも変節することのない献身の精神を強調し、「三綱五常」の重要性を発揚することにあった。「東漢の人才、大義その心に根ざし、利害を顧みず、生死もその節を変ぜず」と士大夫精神がたたえられている。「書靖献遺言后」(靖獻遺言の後に書す)には次のように書かれている。

 「古今、忠臣義士、素定の規、臨絶の音、衰頽危乱の時に見はれ、而して青史遺編の中に表する者、昭昭たり矣。捧誦して之を覆玩する毎とに、其の精確惻怛の心、光明俊偉の気、人をして当時に際(まじ)はり、其の風采に接(つ)ぐが如く、而して感慨歎息、歆慕奮竦、自ら已む能はざる者有ら使む。其れも亦た尚ぶ可きかな矣哉。間々竊かに其の特に著しき者を纂めて、八篇を得、謹みて謄録すること右の如し。且つ其の事蹟の大略を稽へ、諸れを本題の下に紀し、其の声辞に発するの各々然る所以の者をして、以て并せ考ふること有ら令む焉。其の他、一時同体の士、因りて附見すべき者と、先正の格論、綱常の要に関ること有ると、以て夫の生を偸(ぬす)み義を忘れ非を飾り售るを求めて、以て天下後世を欺かむと欲する者に及ぶに至りて、又た率ね類推究覈、以て巻後に属することを得。嗚呼、箕子、已に往けり矣。而して其の自ら靖んじ、自ら先王に献ずる所以の者、万古一心、彼此、間無きこと、此の如し。然らば則ち後の遺言を読む者、其の心を験す所以、亦た豈に遠く求めむや也耶。浅見安正敬書」[15]

 幕末という特殊な時代を背景として、浅見絅斎は皇権の衰退を目の当たりにし、局面を変えることのできない無力さを痛切に感じ、屈原らの忠君勤王をたたえることによって世論に呼びかけようとした。その本質から言って、絅斎の境遇と忠君の情は屈原と酷似している。


[1] 葛兆光『想象の異域―李朝朝鮮漢文燕行文献札記を読む』,北京:中華書局,2014年1月,p25。

[2]日本人学者の研究方法と研究成果については李慶『日本漢学史』(全五部)を参照。上海:上海人民出版社,2010年12月。同書においては、日本漢学の形成や日本漢学の研究方法、各時期の日本人学者の成果などについて詳しい説明がなされている。

[3] 葛兆光『宅茲中国--「中国」に関する歴史論述の再建』p278参照。北京:中華書局,2011年6月。又前出『想象の異域―李朝朝鮮漢文燕行文献札記を読む』参照。又張伯偉『方法としての漢文化圏』(中華書局,2011年9月)参照。

[4] 前出『宅茲中国--「中国」に関する歴史論述の再建』p295参照。

[5] 前出『宅茲中国--「中国」に関する歴史論述の再建』p278参照。

[6] 中国において春秋時期の士は貴族の最低ランクの呼び名であり、貴族の総称でもあった。その後は「文化人」としての意味が濃くなり、道徳と礼楽の代表者とみなされるようになった。身分の高貴な人を指すこともあったし、道徳の高く才能に秀でた人を指すこともあり、「君子」と同様に使われた。詳しくは閻歩克『爵本位から官本位へ―秦漢官僚ランク構造研究』第五章第一節(北京:三聯書店出版社,2009年3月)、閻歩克『士大夫政治演生史稿』(第三版)第二章・第四章(北京:北京大学出版社,2014年12月)参照。本稿における「士人」は上述の「君子」の意。

[7] 稲畑耕一郎「日本楚辞研究前史述評」『江漢論壇』1986年第7期,p55。

[8] 竹治貞夫「楚辞の和刻本について」(『徳島大学学藝紀要』(人文科学)第15巻,徳島大学学芸部,1966年)参照。

[9] 藤野岩友「楚辞の近江奈良朝の文学に及ぼした影響」(『東洋研究』第40号,大東文化大学東洋研究所,1975年4月)参照。

[10] 前出『想象の異域―李朝朝鮮漢文燕行文献札記を読む』p25参照。

[11] 王徳華「屈騒精神と儒家の理想人格の衝突と融合の歴史的考察」(『文学評論』2006年第2期)参照。

[12] 前出「屈騒精神と儒家の理想人格の衝突と融合の歴史的考察」p 92参照。

[13] 原念斎「浅見絅斎」(『先哲叢談』正編巻五)、『先哲百家伝』(干河岸貫一編,正編p65-67,青木嵩山堂,明治43年)。

[14] 近藤啓吾『浅見絅斎の研究』(神道史学会叢書七,1970年6月)参照。

[15] 『靖献遺言』,京都風月堂,明治9年(1876)9月初版本。