【15-12】日本蔵『玉燭宝典』校本論考―依田利用『玉燭宝典考証』の校勘成果に関する検討

2015年12月11日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09—2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09—2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09—2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11—2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11—2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03—現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

 『玉燭宝典』十二巻は、隋代(581-618)の著作郎[1]であった杜台卿によるものである。杜台卿は字を少山と言い、博陵曲陽県(現在の河北省保定県)に生まれ、北斉(550-577)・北周(556-581)・隋の三代を生きた。

 『隋書』は杜台卿についてこう記している。「朝廷が開かれると召されて入朝した。台卿は、『月令』などに幅広く材を取り、『玉燭宝典』十二巻を完成させ、これを上奏し、絹二百匹を受け取った。耳が聞こえなくなった台卿は、官職に耐えられないと国史編纂を願い出た。朝廷はこれを認め、著作郎の官職を授けた。十四年、隠退を願い出て許され、本官のまま故郷に帰った。数年後、故郷で没した。『集』十五巻と『斉記』二十巻を出版した」[2]

 『玉燭宝典』は早くに散逸していたが、清代光緒年間(1875-1908)に楊守敬が日本で『玉燭宝典校本十一巻』(巻九は欠落)を発見し、黎庶昌がこれを復刻し、『古逸叢書』に収録した。その後の『叢書集成初編』『続修四庫全書』はいずれも『古逸叢書』を元としている。

一、『玉燭宝典』日本校本の概略

 『玉燭宝典』十二巻は、杜台卿が、『礼記』月令篇と蔡邕『月令章句』を柱に、大量の文献を参照した上、「正文」と「注文」とを加えて編纂した、年中行事に関する民俗学的著作である。『礼記』月令篇や梁代・宗懍「荊楚歳時記」を受け継ぎ、杜公瞻『荊楚歳時記注』や宋代・陳元靚『歳時広記』に受け継がれた。当時の社会風俗の変遷を描いた同作品は、漢(BC206-220)・魏(220-265)・晋(265-420)・南北朝(439-589)から隋・唐代(618-907)に至る時代の天文・暦法・農学・年中行事などに関する多くの文献を理解する上で重要な意義を持っている。

 『玉燭宝典』は中国の年中行事の伝播と発展にも大きな影響を与えた。『隋書·経籍志』と『旧唐書·経籍志』はこれを「子部雑家類」に、『新唐書·藝文志』と『宋史·藝文志』は「子部農家類」に分類している。元(1271-1368)・明代(1368-1644)には、陶宗儀『説郛』に一巻が収録された[3]

 その後、明代末期の陳第『世善堂書目』には、「宋代(960-1279)初期から、時折思い起こされる程度で、世の中に広く出回ってはいなかった。『太平御覧』『事類賦』『海録砕事』など多くの類書での引用も少ない」との記述が見られる[4]。宋・明代の諸書に一部が引用されることはあったが、宋代の蕭賛元『錦繍万花穀』、羅璧『識遺』、趙与旹『賓退録』,明代の方以智『通雅』、李時珍『本草綱目』などでの引用も、少なくて一項目、多くても三項目程度にとどまっている。内容は似たもので、どれも唐・宋代の類書から引いたものである。清代(1644-1912)初期には、朱彝尊がこの著作を探したが、「論者は『修文殿御覧』を以って古今の類書の第一としたが、今それも散逸している。著作郎・杜台卿による『玉燭宝典』十二巻が連江の陳氏『世善堂書目』に見られるため、陳氏の子孫を福建地方に訪ねたが、もはや手にすることはできなかった」と見つからずに終わった経緯を書いている[5]

 清代光緒年間になって、楊守敬が日本で『玉燭宝典』校本十一巻(巻九は欠落)を発見し、黎庶昌が復刻して『古逸叢書』に収録すると、たちまち国内の学者の注意を引いた。光緒十二年(1886)、李慈銘(1830-1895)は日記に次のように書いている。「この書はまず『月令』を引用し、蔡邕『章句』を加え、さらに『逸周書』『夏小正』『易緯通卦験』及び諸経典を引用している。さらに崔寔『四民月令』はすべてが収録されている。各種の緯書の引用では、補輯に資するものも多い」[6]。曾樸(1872-1935)は『補後漢藝文志併考』十巻において、「劉歆『爾雅注』」の項で『玉燭宝典』に収録された文献を引用し、巻二「蔡邕『月令章句』」の項においては、「日本国の巻子本『玉燭宝典』は、毎月の下、『月令』の後に、この書を詳しく掲載している。収集家諸氏はこれをまだ見ていない。古典愛好者がこれをまとめ、『原本玉篇』と慧琳『一切経音義』の引用と合わせれば、中郎(蔡邕)のこの書も逸したとは言えまだなくなったとは言えない」との但し書きをつけている[7]。最近の『玉燭宝典』による校勘では、向宗魯による『淮南子』の校勘、王叔岷による『荘子』と『列子』の校勘など、卓越した成果が上がっている。

 日本では寛平三年(891、唐代 昭宗大順二年)、朝臣・藤原佐世が勅命を受けて『本朝見在書目録』(通称『日本国見在書目録』)を編纂し、雑家類として「『玉燭宝典』十二、隋著作郎松台卿撰」(「松」は「杜」の間違い)と記録している。筆者の知る限り、日本には現在、『玉燭宝典』の校本が4種類ある[8]

  1. 日本の1096年から1345年までの写本。十一巻(巻九欠落)、巻軸(六軸)装丁。「日本の旧鈔巻子本」と言及されているのがこれである。加賀藩前田侯尊経閣文庫に収蔵されていた[9]。巻五は嘉保三年(1096)、巻六・八は貞和四、五年(1344-1345)に写本された。1943年、東京侯爵前田家育徳財団が尊経閣文庫蔵の旧鈔巻子本を印刷刊行し、『尊経閣叢刊』本とした。その後、吉川幸次郎(1904—1980)が『玉燭宝典解題』を書き、これに付けた。1970年12月、台北芸文印書館が前田家の旧鈔巻子本を影印出版し、林文月[10]訳による吉川幸次郎の『玉燭宝典解題』を付け、『歳時習俗資料彙編』とした。
  2. 図書寮鈔本。十一巻(巻九欠落)、冊葉装丁。江戸時代の毛利高翰(1795-1852)が加賀藩主前田家所蔵の貞和四年(1344)の写本をもとに作らせたもので、毛利高翰影鈔本とも呼ばれ、国立公文書館に所蔵されている[11]
  3. 森立之、森約之父子による校本。同書は、毛利高翰影鈔本をもとに引き写したもので(森氏の跋文によると、「その字だけを残し、体耳は残さない」ため、影鈔ではない)、十一巻(巻九欠落)・全四冊からなる[12]。森約之の題辞によると、孝明天皇嘉永甲寅(1854)から慶応二年(1866)までに森氏父子は校本を終えた。森氏本は現在、専修大学図書館に所蔵され、「森氏」「東京溜池霊南街第六号読杜草堂寺田盛業印記」「天下無双」「専修大学図書館之印」などの判が押されている。「東京溜池霊南街第六号読杜草堂寺田盛業印記」と「天下無双」は、日本の著名な蔵書家である寺田望南(1849-1929)[13]の蔵書印であり、森氏本がかつて寺田望南に収蔵され、その後、専修大学図書館の所蔵となったことがわかる。
  4. 依田利用(1782-1851)『玉燭宝典考証』十一巻(巻九欠落)、四冊装訂。同書は、まず『玉燭宝典』の正文と旧注(大字)を写し、その上で考証を施している(細かい字で行間またはページ上段に記載、内容は校勘)。依田利用は初名を依田利和と言い、江戸時代末期の毛利高翰が11世紀から14世紀に作成された前田家所蔵『玉燭宝典』の写本を複製させた際の参加者であり、5名の写本校勘者の一人であった。同書の『例言』は、巻子本の「末巻は則天文字を何度も用いており、広まっていたのは唐代の本であることは間違いない」としている。『考証』に収録されている『玉燭宝典』の正文と旧注は、前田家収蔵本(現在の尊経閣文庫本)から来たものであることは間違いなく、藤原佐世『本朝見在書目録』に記載された唐代の写本の流れを汲むものと考えられる。依田氏のこの本は、島田重礼(1838—1895)と島田翰(1877—1915)の父子に保有され、1909年5月に東京帝国図書館(現在の国立国会図書館)に入り、現在は国会図書館古籍資料室に収蔵されている。

二、依田利用『玉燭宝典考証』校勘の豊かな成果、失われた『古逸叢書』

 楊守敬と森立之がともに『玉燭宝典』を復刻した際、彼らは、40年余り前の1840年に、日本の学者・依田利用(1782—1851)[14]がすでに『考証』を完成させていたことを知らなかった。その内容は『玉燭宝典』の正文(大字)、旧注(別行大字)、考証(行間に細かい字またはページ上段に記載)からなる。依田利用は元の名を依田利和と言い、江戸時代末期に楓山官庫本の写本校勘に参加した5人の学者の一人であり、前田侯家所蔵の巻子本を見ている。『考証』の主体は校勘であり、「古本」や「足利本」など多くの楓山官庫と足利学校所蔵の古書を引用している。依田利用は『玉燭宝典』校勘で卓越した成果を上げている。

  • 巻一:『荘子』の「連灰其下,百鬼畏之」について『考証』はこう述べている。「かつて[15]“百”は“而”とされていたが、『荊楚歳時記』『初学記』『白六帖』に基いて改めた。『荘子』の現在の本にはこの文がなく、『御覧』の荘周の引用でも同じである。この部分は散逸したのだろう」
  • 巻二:杜台卿の但し書き「城市尤多鬥鶏卵之戯」について『考証』はこう述べている。「かつて“卵”の上には“鬥”の文字があったが、『初学記』『白六帖』『事類賦』『荊楚歳時記注』にはないので、今回は削除する。『倭名鈔』は“城市多爲鬥鶏之戯”としている」
  • 巻三:『皇后親蚕儀注』の「皇后躬桑,始得将一条」について『考証』はこう述べている。「『初学記』『藝文類聚』には“得”の字はなく、得と将では字の形は近いが誤りは重い」
  • 巻四:『礼記』月令篇の「孟夏」に関する鄭玄の注「三分宮去一,以生徴,徴数五十四,属火者,以其徴清事之象也」について『考証』はこう述べている。「『注疎』において“徴清”は“微清”とされ、阮元『校勘記』では閩・監・毛本は“微”としていたとされるが、ここでは微を正しく徴を間違っているとする。かつては“也”の字はなかったが、『注疏』に従って増やした」
  • 巻五:『礼記』月令篇の「仲夏」に関する鄭玄の注「昴爲天獄,主殺之者」について『考証』はこう述べている。「かつては“天”の字はなかったが、『注疏』に従って増やす。『注疎』には“昴”の字と“之者”の字はないが、『考文』は古書を引いて“昴”の字があり、“殺”の下には“之也”の二字があるとする。『校勘記』は厳傑を引用し、『『考文』のいう古書は根拠が不足している。『開元占経』は、“黄帝曰昴,天牢獄也”、“巫咸曰畢爲天獄”としており、昴と畢が合わせて天獄の証ということとなっている。注釈においては、“畢”を捨てて“昴”としてはならず、古書において“爲”の上に“昴”の文字があるというが、間違いである』としている。だがその証とされる隋代の本にも“昴”の字はある。古書はこれと符合しており、“之者”は“也”である」
  • 巻六:『礼記』月令篇「季夏」に関する鄭玄の注「今月令四爲田也」について『考証』はこう述べている。「かつて“今”は“令”とされ、“田”は“曰”とされた。『注疏』に従って改める。“今月”から“丘隰水潦”の注“戌之気乗錯”は、下文“精明”の注“宮以之菊”の下にあり、ここでは正しく移動する」
  • 巻七:高誘『呂氏春秋』注において「太陽気衰,太陰気発,万物彫傷」とされていることについて『考証』はこう述べている。「これは『呂覧』の注だろうが、呂注“彫傷”は“粛然”としており、『淮南』注も同じである」
  • 巻八:『礼記』月令篇「仲秋」の「日夜分,雷乃始収」について『考証』はこう述べている。「『注疏』は“雷始収声”とするが、『考文』は“雷”の下に“乃”の字があるとし、足利本も同じである。『校勘記』は、唐石経は“始”を“乃”とし、王引之は本来は“雷乃始収”であったとし、『初学記』や『周礼·韗人』、『淮南·時則篇』でも確認できるとしているが、これと符合する」
  • 巻十:『礼記』月令篇「孟冬」についての鄭玄の注「日之行,冬北従黒道,閉蔵万物,月爲之佐時,万物懐任於下,揆然萌芽也」について『考証』はこう述べている。「かつて“揆”は“癸”とし、“芽”の下には“之”の字があった。『注疏』に従って改めた。『注疏』は“冬”を“東”としているが、『考文』は足利本は“冬”だとしている。『校勘記』は、孟春注で“春東従青道”とされているのはその用法の一例であり、諸本は“冬”を“東”の誤りだとして変えているが、間違いである」
  • 巻十一:杜台卿の但し書きで引用されている『詩草木疎』の「漁陽、代郡、上党皆饒」について『考証』はこう述べている。「かつて“漁陽”は“鰒魚”とされていたが、『斉民要術』に従って改める。本書及び『斉民要術』は“代郡”を“遼東”とする」
  • 巻十二:杜台卿の但し書きで引用されている董仲舒の「河内人無何而見有人馬数千万騎」について『考証』はこう述べている。「かつては“人無何而”の四文字と“騎”の文字がなかったが、『御覧』と『事類賦』に従って付け加えた」[16]
  •  こうした箇所は同書の中に多くあり、枚挙に暇がない、依田利用の校勘成果が、『古逸叢書』に収録されなかったのはまことに残念なことである。『古逸叢書』の『玉燭宝典』を読む人々は、日本の学者・依田利用の『玉燭宝典考証』などの校本を適切に注目し、テキストの間違いをできるだけ減らし、誤った引用や誤用を避け、作業の繰り返しを回避し、効率を高める必要がある。

 こうした箇所は同書の中に多くあり、枚挙に暇がない、依田利用の校勘成果が、『古逸叢書』に収録されなかったのはまことに残念なことである。『古逸叢書』の『玉燭宝典』を読む人々は、日本の学者・依田利用の『玉燭宝典考証』などの校本を適切に注目し、テキストの間違いをできるだけ減らし、誤った引用や誤用を避け、作業の繰り返しを回避し、効率を高める必要がある。


[1] 隋代、国家の図書と国史を監修する官。秘書省に属した。

[2] 『隋書』,中華書局,1994年,1421ページ。

[3] 『説郛三種』参照。上海古籍出版社,1988年,3220—3221ページ。

[4] 島田翰(日本)『古文旧書考』,『日本蔵漢籍善本書志書目集成』第三冊,北京図書館出版社,2003年,175ページ。

[5] 朱彝尊(清)『曝書亭集』巻三十五『杜氏編珠補』序,『四部叢刊』本。

[6] 李慈銘(清)『越縵堂日記·荀学斎日記』,広陵書社,2004年,11139ページ。

[7] 曾樸(清)『補後漢藝文志併考』十巻,光緒二十一年(1895)家刻本。

[8] 島田翰はさらに別のバージョンを持っているとしていた。巻子装丁で、巻九もあるが、巻七の後半が散失していたという。だが見たことのあるという人はいない。『古文旧書考』参照。『日本蔵漢籍善本書志書目集成』第三冊,北京図書館出版社,2003年,176—177ページ。

[9] 尊経閣文庫は現在、東京都目黒区駒場にある。その収蔵は、江戸時代加賀藩主前田家の旧蔵が基礎となっている。

[10] 林文月(女,1933年-)。幼い頃から日本で教育を受け、その後台湾に帰る。台湾大学中文系卒業。1958年(修士課程中)から台湾大学で教鞭をとり、1969年には日本の京都大学人文科学研究所で学ぶ。1993年に台湾大学引退後、米国に移住した。

[11] 現在、東京都千代田区にある。その蔵書は、江戸時代の徳川氏の楓山官庫と昌平坂学問所、近江西大路藩主市橋長昭や豊後佐伯藩主毛利高標らの旧蔵書を土台とする。

[12] この本の巻二と巻三には2カ所の順序の乱れがみられる。32ページから44ページの巻二“降山陵不収”から巻末“此言不経,未足可採”は、巻三の季春の語であり、47ページ巻三の“人多疾疫,時雨不”の下に置かれるべきである。また巻三の“玄鳥至,至之日”から巻末の“或当以此受名也”は、巻二の仲春の語であり、巻二の小注の“治獄貴知”の下に置かれる。

[13] 寺田望南(1849—1929)は名を弘、別名を盛業、字を士弘、号を望南、読杜草堂といった。明治時代の日本の有名な蔵書家である。

[14] 福井保『依田利用の履歴』参照。古典研究会編『汲古』第14号,昭和63年(1988)12月,汲古書院。山本岩『依田利用小伝』参照。『宇都宮大学教育学部紀要』第1部第42号,平成4年(1992)3月,宇都宮大学教育学部。

[15] ここで比較される旧本」は旧鈔巻子本を指す。

[16] 以上の引用はいずれも依田利用『玉燭宝典考証』(日本専修大学蔵本)を出典とする。


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