【16-15】『淮南子・兵略篇』と先秦兵家の関係について(三)―『淮南子·兵略』『呂氏春秋·蕩兵』『六韜』『尉繚子』を中心に

2016年11月18日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09—2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09—2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09—2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11—2013.03 浙江大学哲学学部 補助研究員
2011.11—2013.03 浙江大学ポストドクター聯誼会 副理事長
2013.03—2014.08 山東大学(威海)文化伝播学院 講師
2014.09—現在 山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

『淮南子·兵略篇』と『呂氏春秋·蕩兵』

 『呂氏春秋·蕩兵』は、戦争の謀略と技巧については語るのを避け、主に、戦争において普遍的な意義を持つ原則を論じたものである。一つは戦争の不可避性の認識、もう一つは「義兵」の主張である。『呂氏春秋·蕩兵』はこう書いている。「古聖王有義兵而無偃兵。兵之所自来者上矣,與始有民倶」。さらにこう続ける。「争闘之所自来者久矣,不可禁,不可止,故古之聖王有義兵而無有偃兵」。『呂氏春秋』は、戦争は人類の誕生とともに生まれ、一貫して存在してきたもので、回避は不可能であるとする。その主な原因は争いにある。戦争は阻止できないものであるとした上で、『呂氏春秋』は、「義兵」の実行を主張する。この「義兵」の最終的な目標は、民を災難から救うことにある。『蕩兵』はこう記している。「兵誠義,以誅暴君而振苦民也,民之説也,若孝子之見慈親也,若饑者之見美食也;民之号呼而走之,若強弩之射于深渓也,若積大水而失其壅堤也」。以上の2つの論点は、『淮南子·兵略』においても示されている。『兵略』はこう記す。「兵之所由来者遠矣,黄帝嘗與炎帝戦矣,顓頊嘗與共工争矣。故黄帝戦於涿鹿之野,尭戦于丹水之浦,舜伐有苗,啓攻有扈,自五帝而弗能偃也,又况衰世乎?」 「義兵」に対する認識については、『淮南子·兵略』は『呂氏春秋·蕩兵』の流れを汲んでおり、次のように記している。「故君為無道,民之思兵也,若旱而望雨,渇而求飲,夫有誰與交兵接刃乎?故義兵之至也,至于不戦而止」

 それでは「義兵」発動のプロセスと後続措置はいかなるものとされているのか?『淮南子·兵略』と『呂氏春秋·懐寵』は、このプロセスを余すことなく描き出しており、両者ではわずかに違いがある。『淮南子·兵略』はこう記す。「故霸王之兵,以論慮之,以策図之,以義扶之,非以亡存也,将以存亡也。故聞敵国之君有加虐于民者,則挙兵而臨其境,責之以不義,刺之以過行。兵至其郊,乃令軍師曰:‘毋伐樹木,毋抉墳墓,毋爇五谷,毋焚積聚,毋捕民虜,毋收六畜。’乃発号施令曰:‘其国之君,傲天侮鬼,决獄不辜,殺戮无罪,此天之所以誅也,民之所以讐也;兵之来也,以廃不義而復有徳也。有逆天之道、衛民之賊者,身死族滅;以家聴者䘵以家,以里聴者賞以里,以郷聴者封以郷,以県聴者侯以県。’克国不及其民,廃其君而易其政,尊其秀士而顕其賢良,振其孤寡,恤其貧窮,出其囹圄,賞其有功」。さらにこう記す。「兵之所加者,必无道国也,故能戦勝而不報,取地而不反」。銀雀山漢簡の『兵之所失』において、「兵之恒失,正為民之所不安為」とされているのと同様である。

 指摘しておきたいのは、『呂氏春秋·蕩兵』が戦争の外延を拡大していることである。『蕩兵』はこう記している。「察兵之微:在心而未発,兵也;疾視,兵也;作色,兵也;傲言,兵也;援推,兵也;連反,兵也;倗闘,兵也;三軍攻戦,兵也。此八者皆兵也,微巨之争也」。『淮南子·兵略』が検討している「兵」は主に「三軍攻戦」における概念であり、その他の状況においては「闘」とされる。

『淮南子·兵略』と『六韜』『尉繚子』

 『孫子兵法』と『孫臏兵法』のほかにも、『淮南子·兵略』は、その他の兵家の文献を数多く保存している。これらの文献には『六韜』や『尉繚子』などがある。引用の数から言えば『孫子兵法』と『孫臏兵法』よりはいくらか少ない。内容は主に、戦争の謀略と戦術にかかわるものである。

 『淮南子·兵略』は次のように記している。「故得道之兵,車不発軔,騎不被鞍,鼓不振塵,旗不解卷,甲不離矢,刃不嘗血,朝不易位,賈不去肆,農不離野,招義而責之,大国必朝,小城必下,因民之欲,乘民之力,而為之去残除賊也」。『尉繚子·兵教下』はこう記している。「国車不出于閫,組甲不出于橐,而威服天下矣」。また銀雀山漢簡本『尉繚子·治□篇』はこう記している。「夫富且治之国,車不発□,甲不出辜,而威□天下」

 『淮南子·兵略』は「兵静則固,専一則威,分决則勇,心疑則北,力分則弱」。銀雀山漢墓竹簡本『尉繚子·兵勧』はこう記している。「□□□固,以専勝,力分者弱,心疑者北」と記している。

 『淮南子·兵略』では「万人異心,則无一人之用。将卒吏民,動静如身,乃可以応敵合戦。故計定而発,分决而動,将无疑謀,卒无二心,動无堕容,口無虚言,事無嘗試,応敵必敏,発動必亟。故将以民為体,而民以将為心。心誠則支体親刃,心疑則支体撓北」と記述している。銀雀山漢墓竹簡本『尉繚子』はこう記している。「将吏士卒,童(動)静如身」。さらに「是故□……无嘗試,発童(動)必蚤」「□□□,心也;群下,支節也」と記す。また『尉繚子·攻権』では「将帥者,心也;群下者,支節也。其心動以誠,則支節必力;其心動以疑,則支節必背。夫将不心制,卒不節動,雖勝,幸勝也」という。

 『淮南子·兵略』はこう記している。「故勝定而后戦,鈐県而後動。故衆聚而不虚散,兵出而不徒帰」。『尉繚子·攻権』はこう記している。「衆已聚不虚散,兵已出不徒帰」

 『淮南子·兵略』では「凡用兵者,必自廟戦:主孰賢?将孰能?民孰附?国孰治?蓄積孰多?士卒孰精?甲兵孰利?器備孰便?故運籌于廟堂之上,而决勝乎千里之外矣」とし。さらに「廟戦者帝,神化者王。所謂廟戦者,法天道也;神化者,法四時也。修政于境内,而遠方慕其徳,制勝于未戦,而諸侯服其威,内政治也」とある。また『尉繚子·戦威』では「刑如未加,兵未接,而所以奪敵者五:一曰廟勝之論」と記述している。

 『淮南子·兵略』はこう記している。「兵如植木,弩如羊角,人雖衆多,勢莫敢格。諸有象者,莫不可勝也;諸有形,莫不可応也」。『尉繚子·兵談』はこう記す。「兵如総木,弩如羊角」

 『淮南子·兵略』はこう記している。「夫人之所楽者生也,而所憎者死也。然而高城深池,矢石若雨,平原广沢,白刃交接,而卒争先合者,彼非軽死而楽傷也,為其賞信而罰明也」。『尉繚子·制談』はこう書いている。「民非楽死而悪生也,号令明,法制審,故能使之前」

 『淮南子·兵略』は次のように言う。「故古之善将者,必以其身先之,暑不張盖,寒不被裘,所以程寒暑也;険隘不乘,上陵必下,所以斉労佚也;軍食熟然后敢食,軍井通而后敢飲,所以同饑渇也;合戦必立矢射之所及,所以共安危也」。『尉繚子·戦威』はこう記している。「夫勤労之師,将必先己。暑不張盖,寒不重衣,険必下歩,軍井成而後飲,軍食熟而後飯,軍壘成而後舎,労佚必以身同之」

 『尉繚子·戦威』では「天時不如地利,地利不如人和,聖人所貴,人事而已」とあり、これは古代の兵家の伝統と言える。『淮南子·兵略』はまた「明于星辰日月之運,刑徳奇該之数,背向左右之便,此戦之助也,而全亡焉」、さらに「加巨斧于桐薪之上,而無人力之奉,雖順招揺,挾刑徳,而弗能破者,以其無勢也」と言う。

 『淮南子·兵略』では「故同利相死,同情相成,同欲相助」とし、『六韜·武韜·発啓』はこう記す。「同病相救,同情相成,同悪相助,同好相趨」。

 『淮南子·兵略』では「先勝者,守不可攻,戦不可勝,攻不可守,虚実是也。上下有隙,将吏不相得,所持不直,卒心積不服,所謂虚也。主明将良,上下同心,气意倶起,所謂実也」とし、さらに「夫実則鬬,虚則走,盛則強,衰則北」とある。『尉繚子·戦威』は次のように記している。「夫将之所以戦者,民也;民之所以戦者,气也。气実則闘,气奪則走」。『淮南子』におけるこの「虚実の气」は、軍隊と人民の上から下までの一体性を指しているが、一度できれば変わらないというものではなく、相互に転化し得るものである。『兵略』はこう記している。「夫气之有虚実也,若明之必晦也。故勝兵者非常実也,敗兵者非常虚也。善者能実其民气以待人之虚也,不能者虚其民气以待人之実也。故虚実之气,兵之貴者也」。

 このように『淮南子·兵略』篇は、戦争の起源や普遍的な意義を持つ戦争の原則については『荀子·議兵』篇と『呂氏春秋·蕩兵』篇を参考とし、戦争の策略や計略などの面では『孫子兵法』『孫臏兵法』『六韜』『尉繚子』などの兵家の古典文献を参考としている。上述の先秦兵家の主要思想はいずれも『淮南子·兵略』において示されている。

 以上の3篇の文献考証と理論分析から、我々は以下の結論を出すことができる。

 一、斉・呉の孫子のテキストは淮南王の所まで伝わっただけでなく、彼らの重視を受け、立ち入った研究がなされた。呉と楚の両地は隣接しており、『呉孫子』が淮南王の所まで伝わったのには地理的な要因があった。『斉孫子』の当時の楚の地への伝播は、淮南王の門客であった斉人によってなされたものと考えられる。『斉孫子』の竹簡本が出土する前、学術界は、『斉孫子兵法』の一部分の文献が『淮南子·兵略』の中に存在していることを知らず、学者らも『兵略』中の兵家文献を十分に重視していなかった。その中の文献を詳しく整理すれば、少なくとも『呉孫子兵法』とは異なる文献記載を発見することができる。これは我々の今後の学術研究に重要なインスピレーションを与えている。

 二、淮南王は、兵法の研究を非常に重視した。これは、斉・呉の『孫子兵法』や『六韜』などの兵家文献が研究対象として存在していたからというだけではなく、当時の政治・軍事闘争の必要性が原因となったと考えられる。劉安は、田蚡や方士などの言葉を信じ、自らが劉氏の帝位を受け継ぐのだと考え、積極的に「治攻戦具,積金銭賂遺郡国」(武器装備を整え、黄金財産を蓄積して諸侯王らに贈り)、娘の劉陵を長安に送って皇帝の周囲とわたりをつけようとした。こうした政治闘争とともに、劉安は軍事的にも、実際の配置を行うだけでなく、兵法の計略や策略の訓練に勤しんだ。『漢書』本伝はこう記している。「日夜與左呉等按輿地図,部署兵所従入」。さらにこう記している。「王数以挙兵謀問伍被,被常諫之,以呉楚七国為效」。だが最終的な結果として、これらの兵法研究の成果が実際の戦場で応用されるチャンスはなかった。成功しなかったのには、淮南王が大勢を敵に回したことや行動が周到でなかったことなど多くの原因があるが、ともに兵法を討論・研究した雷被や伍被などの人々が劉安を裏切ったことが致命的となったことは間違いない。

 三、後世の学者は、『六韜』や『尉繚子』などの輯本の編纂において、『淮南子·兵略』の中に見られる諸兵家の文献を見過ごしてきた。これらの兵法文献の引用数は斉・呉の『孫子』とは比較にならないが、そこに見られる断片は非常に貴重なもので、学者はこれを重視し、先秦の兵家研究文献へと取り入れるべきである。

 四、上述のデータが示すように、当時の淮南王の門客の中には、兵法に通暁した学者がいただけでなく、戦国時代から伝わって来た兵家関連文献を大量に閲読し、これらの兵家の文献を研究し、多くの文献の長所を集め、現実の必要性に基づいて全面的な理解を試みた者がいた。淮南王の劉安とその門客によるこれらの兵家の文献の研究は多くが、戦争の戦略や計略に重点を置いており、形而上的な軍事理論の検討は比較的少なかった。これは、当時の軍事闘争における実際の必要性がいかに差し迫っていたかを示している。この角度から言えば、『淮南子』は、先秦兵家文献の体系的な保存と研究がなされた、前漢時代で最も早期の重要な文献であった。学者と軍事研究者は、過去の学術研究が無視してきたこの重要な文献を、よりいっそう重視すべきと言える。


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