【17-16】宋明代の士大夫の生活における日本の摺扇

2017年 9月28日

朱新林

安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師

2001.9—2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9—2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9—2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9—2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8—2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務

一.宋代の日本の摺扇

 中国人は明代まで、酷暑に対しては、「紈扇」や「竹扇」を使って涼風を作り出していた。「紈扇」は、「団扇」や「宮紈」とも呼ばれ、梁朝時代の『千字文』には「紈扇円潔」との記載があり、当時の扇の外形が円形であったことがわかる。円く白地であったことから、絵を描くにも最適だった。とりわけ宋代の徽宗・趙佶(1082-1135)により、朝廷と民間には飾りを重んじる気風が広まり、現存する最初期の北宋団扇のいくつかの書道は、趙佶が自ら筆を執ったものだ。北宋の時期には、日本を原産とする「摺扇」(折り畳み扇)も中国の有力階層の生活に入り込み、上層社会がステイタスや地位を示すエキゾティックな珍品となった。摺扇は「聚頭扇」「折畳扇」「蝙蝠扇」「撒扁」「絵折扇」とも言われ、明代の嘉靖年間(1522年~1566年)に日本を訪れた鄭舜功は『日本一鑑・窮河話海』巻二「器用附土産」で、その名の由来について、「倭初無扇,因見編蝠之形,始作扇,称蝙蝠扇,宋端拱間曽進此」と記している。

 宋代の紳士階層が日本の摺扇を好んだことは、現代に伝わっている文献や出土した文化物からその証拠を見つけることができる。江蘇常州武進県の南宋墓で出土した「朱漆沈金蓮弁式妝奩」の蓋の「仕女消夏図」には、腕を取り合ってお喋りする二人の女性が描かれている。襦裙と背子、直領・対襟の装いで、裾を地に引きずり、一人は折り畳みの扇、一人は団扇を手にしており、側には玉壺春瓶を持った侍女が恭しく立っている(図1)。墓中の副葬生物の年代から推論すると、この朱漆妝奩(化粧箱)はおよそ13世紀中期の物品と見られ、中国大陸部で見られる最初期の日本の折り畳み扇のイメージとなる。これとほぼ同時代の南宋の画家・蘇漢臣による「蕉陰撃球図」には、高卓の後ろに立って子どもが遊ぶのを眺める若い婦人が描かれている。卓上には、完全には閉じられていない扇子が置かれ、その端部には長い赤色のふさが付いているのもわかる(図2)。

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図1. 南宋朱漆沈金蓮弁式妝奩

(出典:http://www.zggdjj.com/View/News-2461.html)

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図2. 南宋蘇漢臣(伝承)「蕉陰撃球図」

(出典:http://shjd.baike.com/article-79289.html)

 宋代においては、このような流行の舶来品は、2種類のルートで中国に入っていた。一つは、「入貢」という方式で外交用の礼品として汴京(現在の開封)の朝廷と貴族圏へと直接流入したルートである。『宋史・日本伝』は、北宋端拱元年(988年)に日本の僧侶が中国に来た際、貢物として「桧扇二十枚、蝙蝠扇二枚」があったと伝えている。もう一つは貿易である。中日両国間では1404年以降、正式な外交貿易関係が開かれ、摺扇は長期にわたって主力の貿易品となった。1432年の資料によると、当時の遣明使が中国に持ち込んだ日本の摺扇は、一回で2200本にも及んだという[1]。注目すべき点は、中日間の貿易ネットワークにおいて、高麗が重要な中継地となっていたことである。宋の人びとにとって高麗の摺扇は「その精緻さは中国の及ばざるもの」と映っていた。趙彦衛『雲麓漫抄』巻四は、「今人用摺畳扇,以蒸竹為骨,夾以綾羅,貴家或以象牙為骨,飾以金銀,盖出于高麗」と論じている。

 宋元代の文献の記載によると、高麗の扇と日本の扇にはそれぞれ長所がある。前者は扇骨がとりわけ精巧に作られており、後者は扇面の画が優れている。まばゆいほどの画は日本の文献で言われる「大和絵」である(図3)。北宋宣和5年(1123年)に高麗に派遣された徐兢が帰国して書いた見聞録『宣和奉使高麗図経』は巻二十九で、高麗扇には「松扇」「白摺扇」「画摺扇」の3種があり、そのうち摺扇については、「金銀塗飾,復絵其国山林人馬女子之形」と書かれている。徐兢は、金銀の装飾を用いたこのような絵画は当時の高麗の職人には操れないもので、その由来は日本にあるはずだとし、「麗人不能之,云是日本作」と書いている。我々は、宋人の筆記の中から、日本の摺扇に関する多くの記載を見つけることができる。例えば王辟之『澠水燕談録』は、自らがかつてベン京の相国寺でこのような日本の絵扇を見たことがあり、扇上の絵画に惹かれたが、価格が高かったので残念ながら諦めたというエピソードをつづっている。

「熙寧(1068-1077)末,余游覧相国寺,見売日本国扇者。琴漆柄,以鴉青紙厚如餅,折為旋風扇,淡粉画平遠山水,薄傅以五彩,近岸為寒芦衰蓼,鴎鷺佇立,景物如八九月間,艤小舟,漁人披簑釣其上,天末隠隠有微云飛鳥之状,意思深遠,筆勢精妙,中国之善画者,或不能也。索価絶高,余時苦貧,無以置之,毎以為恨。其後再訪都市,不復有也。」[2]

 文震亨も『長物志』巻七の「扇」の項目で、この高級な舶来品に描かれた精緻で美しい絵画を惜しげもなく賞賛している。「今之摺畳扇,古称聚頭扇,乃日本所進,彼国今尚有絶佳者,展之盈尺,合之僅両指許,所画多作仕女乗車跨馬、踏青拾翠之状。又以金銀屑飾地面,及作星漢人物,粗有形似,其所染青緑奇甚,専以空青、海緑為之,真奇物也。」[3]

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図3.雲母地金箔貼扇面法華経 平安時代後期 大阪市藤田美術館蔵

(出典:http://www.zgshtv.com/News_Show.asp?id=332)

 事実、金銀で画面を装飾した「大和絵」が中国に流入するのは北宋に始まったことではなく、早くは五代十国時代(907年~960年)に、南方の南唐国(935年~975年)と呉越国(907年~978年)で日本の泥金芸術の跡が見られる。北宋の収集家・米芾は『画史』において、南唐の李氏政権が数多くの日本絵画を所蔵しており、南唐国主の収蔵した日本画について、「着色而細,銷銀作月色布地,今人収得,便謂之李将軍思訓」と記載している[4]。11世紀の中国人が金銀の装飾された大和絵を見て、唐の画を自然に連想するというのはなぜだろうか。中国の金碧山水画の開祖とも言える唐人・李思訓(651年~716年)は、鮮やかな顔料と金銀を加えた装飾を用いるのに長け、「青碧山水」と「金碧山水」の気風を開き、絵画分野での「唐風典範」の完全な体現となった。日本から中国に伝わった「倭扇」と「倭画」も多くは「洒金」「冷金」「泥金」による紙料を装飾としており、このような絢爛な風格は、唐代絵画の「金碧山水」の一派と同じ境地を表しており、宋人の盛唐典範に対する追憶と想像を喚起したのだろう。

二.摺扇と明代士人の生活

 日本の摺扇は、宋朝の時代にすでに中国に流入していたものの、明代までは、この開閉自在の新奇な物品は、朝廷や有力者の間でだけ流通していた。永楽年間(1403年~1424年)に至って初めて、民間社会にだんだんと浸透していった。明代の方以智は『広雅』巻三十三『器用篇』で、「摺扇起于東裔,而盛于今日」と書いている。張燮『東西洋考』巻六『外紀考・日本』引『両山墨談』で、中国人がこのような舶来品を受け入れるにいたった過程を次のように記述している。「中国宋前惟用団扇,元初,東南使者持聚頭扇,人皆譏之。我朝永楽初,始有持者。及倭充貢,遍賜群臣,内府又倣其制,天下遂用之。」[5]日本五山の禅僧・瑞渓周鳳は『臥雲日件録抜尤』の「長禄二年閏正月八日」の項目で、等持寺の首座が唐に渡った時に4本の扇子を持っていき、1本の扇子と引き換えに『翰墨全書』を手に入れたと伝えている。15世紀に日本の扇子が中国市場でいかに貴重だったかがうかがえる[6]

 士大夫の生活に対して明代の中日貿易が与えた影響をより近くから観察したいのならば、イエズス会の文献を手がかりとすることもできる。イエズス会(Societas Iesu)は15世紀以降、素養の高い宣教師をたびたび送って極東地域の開拓を進め、その足跡は日本と中国にも相次いで届いている。彼らの目には、中日両国の言語や文字、習俗はそれぞれ関係があるものの差異を持ったものと映った。宣教師らが残した往復書簡や著作は、両国の物品交換を観察する興味深い窓口を提供している。1580年から1590年まで、イタリア人のミケーレ・ルッジェーリ(Michele Ruggieri)とマテオ・リッチ(Matteo Ricci)は、中国南方に宣教のための拠点を立てた。より多くの公的な支援を得るため、マテオ・リッチは1598年、朝廷との面会を求めて北京に出発した。携帯した礼品には、西洋の自鳴鍾、世界地図、ピアノのほか、皇族や有力者に最も愛されていた日本の摺扇があった。イエズス会士は、上層との関係を結ぶ手腕で知られており、中国では「西洋の儒」を自称し、当時影響力のあった官僚や士大夫と親しい友情を結んでいた。このような関係において、礼品の交換は欠かすことができない。蘇州人・馮時可の『蓬窓続録』は、マテオ・リッチが日本の摺扇を高級な礼品として送ったことを次のように記している。「聚頭扇即摺畳扇,貢于永楽間,盛行于国,東坡謂高麗白松扇,展之広尺余,合之只両指。倭人所制泥金面,烏竹骨即此。余至京,有外国道人利馬竇贈余倭扇四柄,合之不能一指,甚軽而有風,又堅致。」[7]中国の上層の文化人圏にできるだけ早く溶け込むため、マテオ・リッチとその仲間らは日常の冠や服、装飾品などでできるだけ当時の士大夫と同じものを身に着けようとした。ドイツ人イエズス会士のアタナシウス・キルヒャー(Athanasius Kircher、1602年~1680年)の筆に描かれたマテオ・リッチは、明代の儒生の服をまとい、頭には高冠をかぶり、手には摺扇を持ち、同じように扇を持った中国の天主教徒の徐光啓と向かい合って立っている(図4)。この「儒服に扇を持つ」というイメージは、明清のイエズス会士の明清両代における標凖のポーズとなっていた(図5)。摺扇は明代中後期においてはすでに、皇帝の与える恩賜物であるだけでなく、士人の日常生活における必携の品となっていたことがわかる。

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図4. アタナシウス・キルヒャー『中国図説』(China Illustrata)中の徐光啓(Paul Siu)とマテオ・リッチ

(出典:https://en.wikipedia.org/wiki/Xu_Guangqi)

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図5. 上海土山湾工芸所 マテオ・リッチ画像 清末民初

(出典:https://zh.wikipedia.org/wiki/利瑪竇)

 日本は1404年から1573年まで中国とスムーズな貿易往来を保持した。安土桃山時代に入った後、鎖国政策を取ったために、両国は朝貢関係をやめ、中日間の物品の流通もついに途絶えた。だが中国の紳士階層においては日本の摺扇を使う気風がすでに育っており、明代内府で大量の模造品の生産を開始した。劉元卿(1544年~1609年)の『賢奕編』序は、「聞撒扇始于永楽中,因朝鮮国進撒扇,上喜其巻舒之便,命工如式為之」と記している[8]。日本摺扇の模造拠点は主に蘇州と四川だった。蘇州には「呉扇」があり、成都には「蜀扇」があった。いずれも価格が抑えられ、明代中後期には大きな市場シェアを誇った。蜀扇は明代に琉球国に派遣された外交使者によって、那覇の泥金倭扇との交換に用いられた。二者のスタイルにはいくらか違いがある。蜀扇の図案は多くが民間で流行した吉祥如意図であり、呉扇の方は知識階層の趣味に合わせ、個性的な書道や文人画が描かれていた。「川中蜀府制以進御,有金鉸藤骨面薄如軽綃者,最為貴重,内府別有彩画五毒、百鶴鹿、百福寿等式……姑蘇最重書画扇。」[9]明代後期の謝肇淛も『五雑俎』で次のように記している。「上自宮禁,下至仕庶,惟呉蜀二種扇最盛行。蜀扇毎歳進御,饋遺不下数百万,上及宮廷所用,毎柄値黄金一両,下者数銖而已。呉中泥金最易書画,不脛而走四方。」摺扇ブームのこの高まりは、伝統的な団扇(紈扇)の人気さえ奪ってしまった。明代の高士奇は『天禄識余』で、新たな模造摺扇が市場を占領した後、「今則流伝寝広,団扇廃矣」(次第に広まって団扇はすたれた)と記している[10]

四.明代の金地山水摺扇

 明代成化年間(1465-1487)の後、日本の「扇絵」を模造して弧形の紙の上に作画することが流行し、宮廷から民間へと広がっていった。『翰林記』巻十六の記載によると、成化四年(1468年)から、毎年端午節、皇帝は臣下に「牙骨聚扇」を与え、扇面には皇帝の作った『清暑歌』や『解慍歌』、諸家の絵画が描かれた。北京故宮の収蔵する明宣宗・朱瞻基(宣徳帝、在位1425年~1435年)『松下読書』の扇画は、明初宮廷扇画の典型的なスタイルである(図6)。この扇画は宣徳二年(1427年)に描かれた。サイズは大きく(縦59.5cm、横152cm)、一般の摺扇のほぼ3倍の大きさで、湘妃竹が骨組みに使われ、泥金の扇面で、一面には松の下での読書、もう一面には柳の影での花見が描かれ、当時の宮廷の主流山水画の変型となっている[11]。

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図6. 明宣宗朱瞻基 松下読書扇画 北京故宮博物院蔵

(出典:http://www.lhwww.cn/art/2016/1/4/art_493_1223893.html)

 宮廷のほかには、江南地域の呉門画派も扇画の流行を促した。呉門派の全盛期には、大量の摺扇書画が生み出され、現在まで残っているものはすべて国宝となっている。沈周や唐寅、文徴明などが創作した扇画には大量に洒金紙が使われ、「金地摺扇画」と呼ばれている(図7)。中国の表装史上、金箔と銀箔を使って紙材を装飾する作法は、漢唐以来の古典画の伝統ではなく、日本の「大和絵」の影響を受けた結果と考えられる[12]。明代の朗瑛による『七修類稿』巻四十五『事物類』「倭国物」では、金地扇画は寧波港を仲介として日本から中国に伝わったものだとし、「描金、洒金,浙之寧波多倭国通使,因與情熟言銛而得之」と記している。洒金・冷金・泥金技法によって装飾した水墨摺扇画は明代の文人趣味の代名詞と言える。

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図7. 明 袁尚統 桃源洞天図扇

(出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_78d1d3850102v2s3.html)

 水墨山水は昔から中国画の基本的な主題だった。だがなぜ明代の人びとは突然、シンプルで優雅な山河の景色を、燦々と金色に輝く紙に描こうとし始めたのだろうか。この面は、明末の豪華で好奇心の高い社会的な気風によってもたらされたものと考えられる。16世紀の長江下流下地域で急発展した商品経済は、新型の消費観念を生み、豪華さを好む風潮は宮廷や官僚階層から庶民階層、中産家庭に浸透し、もともと安定していた身分等級制度に衝撃を与えることとなった。政府はこの気風を抑えるため、豪華禁止令を何度も出し、金銀や真珠、貴重な飾り物を制限した。だが当局の禁止はわずかな作用しかもたらさなかった。16世紀中後期の歴史文献と考古発掘の成果によると、金銀は早くから書画や服装、家具の製造分野でよく消費される品となっていた。1960年代、上海市郊外の明代の墓から、副葬品の金地の摺扇が多く出土した。摺扇の出土した墓からは、玉器や金飾も出土する。副葬された摺扇の帰属から見ると、金地山水の摺扇は多くが男性の墓主の身辺に出現し、女性親族は大和絵の風格のある多彩な摺扇を使っていた。例えば諸純臣夫婦墓で出土した「柿漆貼金黒線幾何図扇」の扇面の装飾は日本の趣を備えている(図8)。

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図8. 明代黄元会夫婦墓で出土した泥金折扇 諸純臣夫婦墓で出土した柿漆貼金黒線幾何図扇

(出典:http://jingxuan.guokr.com/pick/19278/))


[1] 宮島新一『日本の美術 no.320 扇面画 中世編』,東京:至文堂,1993年,34ページ。

[2] (宋)王辟之『澠水燕談録』。江少虞『宋朝事実類苑』巻60『風俗雑誌』「日本扇」項収録。上海:上海古籍出版社,1981年,799-800ページ。

[3] (明)文震亨『長物志』,杭州:浙江美術出版社,114ページ。

[4] 盧輔聖『中国書画全書』第1冊,上海:上海書画出版社,2009年,978ページ。

[5] (明)張燮『東西洋考』,謝方点校本,北京:中華書局,2000年,126ページ。

[6] 瑞渓周鳳『大日本古記録・臥雲日件録抜尤』,東京:岩波書店,1992年,107ページ。

[7] (明)馮時可『蓬窗続録』,『説郛続』巻17,続修四庫全書子部1190冊「雑家類」,505ページ,清順治三年宛委山堂刻本影印。

[8] (明)劉元卿『賢奕編』,厳一萍選『百部叢書集成』,台北:芸文印書館,1965年,36ページ下。

[9] (明)文震亨『長物志』巻七「扇」項,杭州:浙江美術出版社,114ページ。

[10] (明)高士奇『天禄識余』,故宮博物院編『故宮珍本叢刊』,海口:海南出版社,2001年,第483冊,27ページ。

[11] 南訪「明代大折扇」,『文物』1978年第8期。

[12] 石守謙「山水随身:十世紀日本摺扇的伝入中国與山水画扇在十五至十七世紀的流行」,『美術史研究集刊』2010年第29期掲載。


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