【17-18】日本留学生と清末民初の「華夏西来」学説

2017年10月23日

朱新林

安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師

2001.9—2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9—2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9—2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9—2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8—2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務

一.清末の「排満建国」論と黄帝崇拝

 中国を300年近く統治した清王朝は、19世紀末から20世紀初めにかけて、かつてない危機に直面していた。革命運動が「駆除韃虜、恢復中華」(北方蛮族を追い出し、中華を回復しよう)のスローガンの下で勢力を急速に結集することができたのは、この運動の中に民族主義の色彩が含まれていたためである。実際には、満州族を追い出そうとの情緒が中国を席巻したのは、20世紀初めの新たな現象ではない。満州人騎兵が中原を闊歩した17世紀中葉には、その種はすでに埋まっていた。清朝の軍隊が明王朝を打倒した戦争における残酷な行為を記録した『揚州十日記』や『嘉定屠城紀略』などの禁書は南方の民間でひそかに広まり、漢族の復讐の情緒を刺激し続けていた。清初期に満州の統治者の圧迫を最も激しく受けた長江デルタ一帯は、その後の数百年間にわたって、満州族排除の情緒が最も強い地区であり続けた。清末民初に日本に留学した中国の若者の中では、長江デルタの江蘇と浙江の両省から来た人が最も多く、「駆除韃虜、恢復中華」という政治的なスローガンも、江蘇と浙江の日本留学生グループの間で最も激しい民族的な情緒を生み出した。

 中国語においては昔から、動物を連想させる言葉を用いて辺境の民族を指す伝統がある。「韃虜」は、満州の統治者を指すのに使われているが、この語はもともと、生肉を食らい鮮血を飲む北方の野蛮人を指すものであり、明確な指向性を持った概念だった。これと比べれば、「中華」という概念はそれほどはっきりしたものとは言えない。周知の通り、「中華」または「華夏」を構成するグループと文化的な要素は非常に複雑であり、時代によってまったく異なる意義を持つことがある。それでは「華夏」と呼ばれるべきなのは誰か。清王朝打倒の運動においては、この問題が極めて重要となる。なぜならこれこそが、彼我の陣営を分け、闘争の目標を確立するための基本的な前提となるからである。

 革命派は、より便利に簡単にするため、最も狭い意義で「華夏」という概念を用いた。華夏とはつまり漢族であり、満州人の政権を打倒することは、それ以前の漢族の政権を復興することを意味する。次の問題は、この「華夏」(漢族)はどこから来たかということである。歴史の記述にはいつも、伝統の再生と発明があふれている。「排満建国」に合法性を与えるためには、「漢族」に想像上の祖先をこしらえる必要があった。こうして、漢族の民族主義を刺激する道具が相次いで登場した。その中で最も人気があったのは、伝説上の漢族の鼻祖とされ、中国の上古時代の最初の帝王とされた「黄帝」にほかならない。司馬遷の『史記』以来、黄帝は、文明を切り開いた始祖とされ、農業や暦法、漢字の起源はいずれもこの最初の帝と密切に関係するとされてきた。だがこれまで2千年以上の一連の公式の史書においては、黄帝はそれほど注目されず、黄帝の生涯や業績などには神秘主義的な霧がかかり、臆測されるだけだった。20世紀初期になって、黄帝は「漢族の始祖」という身分で、「駆除韃虜」の時代の求めにはからずも合致することになった。

 中国歴史典籍に記載された伝説時代には多くの帝王がおり、「三皇」(尭、舜、禹)とさらに「五帝」(太昊、炎帝、黄帝、少昊、顓頊)がいる。これらの古代の帝王の中で、清末の革命派はなぜ「黄帝」を漢民族の始祖に認定したのだろうか。これは黄帝の「黄」から决定されたものであるところが大きい。1890年代、中国の知識人の世界における人種の分類に関する見方はまだ曖昧で、当時西洋で流行していたダーウィンの進化論が中国語に翻訳されて以降、単純な人種分類方法が生まれた。張之洞は『勧学篇』(1898年)で「西洋人は五大陸の民を五種に分ける」と論じている。この分類法に従えば、東アジアの中日韓三国は「同じく黄色種であり、皆三皇五帝の威信と教化の及ぶところであり、神明の子孫の種族の分である」[1]ということになる。清末の維新派の学者からすれば、アジアの黄色人種と欧米の白色人種は近い将来に「黄白の戦」[2]を迎えることになるのであり、このような人種間の戦争で勝利するには、政体と軍備の面で改革を行わなければならないほか、高度な凝集力と象徴性を備えた祖先を見つけなければならない。黄帝はこうして、黄色人種の民族の最良の人選となったのである。

二.日本留学生と東京の「黄帝熱」

 漢族の始祖を形成しようという運動において、早期の日本留学生は、ほかに代えることのできない役割を発揮した。1882年に東京の清国駐日公館が設立した「東文学堂」は、中国から若者を日本に招いて日本語を学習させ、翻訳人材の育成をはかった。1895年以降、明治維新の成果が明らかになると、中国の知識人界は、もともとあまり知らなかった隣国をもう一度見直す必要に迫られた。日本は当時、中国が西洋の世界を知るための窓口だった。張之洞(1837-1909)を代表とする洋務派は、さまざまな異論を極力排除して、教育の近代化を推進し、日本視察団を組織し、日本人教師を招聘し、さらに数多くの日本人留学生を派遣した。日本も当時は友誼を深めるという名目で中国の若者の日本留学の費用を負担し、親日中国人の育成をはかった。

 1903年(光緒29年)4月、日本留学生によって組織された「江蘇同郷会」は月刊雑誌『江蘇』を東京で正式に発行した。第3号の巻頭には、黄帝の写実的な画像が「中国民族の始祖・黄帝の像」として掲載され、「帝作五兵,揮斥百族,時維我祖,我膺是服,億兆孫子,皇祖貳茲,我疆我里,誓死復之」[3]と賛辞が述べられた。この第3号(同年6月)から月刊『江蘇』は、最終ページの発行年をそれまでの「光緒二十九年」から「黄帝紀元四千三百九十四年」に変更した。これとほぼ同時に(1903年7月11日)、劉師培は、上海『国民日日報』で『黄帝紀年論』と題した文章を発表し、黄帝紀年法の使用を強く主張した。黄帝紀年法については開始の年代をいつにするかで議論があったが、民族主義的な情緒が高まったこの時期には、厳粛な学術的考証はそれほど重要ではなくなった。当時の革命派の雑誌、『浙江潮』や『二十一世紀之支那』、『黄帝魂』、『醒獅』、『民報』などはいずれも、黄帝紀年法の使用を開始した。武昌起義(1911年)以降の革命政権の時代においても、この紀年法は、革命派の発表する公的な文書にますます頻繁に出現するようになった。

 1903年初め、浙江省紹興からやって来た日本留学生の魯迅(1881-1936)は、満州族の統治を象徴する辮髪を切り、「断髪写真」を撮って、同郷の親友の許寿裳に送った。魯迅は写真に『自題小像』と題した詩を添えた。その詩は「我れは我が血を以って軒轅に薦めん」という句で閉じられ、自らの血を国家の始祖と人民に捧げようという決意が示された。

図1

図1. 魯迅の断髪写真(1903年)[4]

図2

図2. 民国期の中央銀行が発行した黄帝の肖像が印刷された紙幣[5]

三.明治日本の「華夏西来説」

 魯迅がその血を捧げようとしたこの黄帝とはいったい誰だったのか。「中華の始祖」を作ろうという計画において、これはカギとなる問題となる。1894年2月23日、日本人作家の徳富蘇峰(1863-1957)が創刊した雑誌『国民之友』は、コラム「海外思潮」で、「支那人はバビロン人なり」との短い記事を掲載した[6]。この記事では、フランス人漢学者のラクペリ(Albert Terrien de Lacouperie,1844-1894)が『中国古代文明西洋起源説』(Western Origin of Early Chinese Civilization from 2300 B.C to 200 A.D, 1894)で論じた中国文明の起源に関する見方が紹介されている。これによると紀元前2282年、チグリス・ユーフラテス流域の国王ナクフンテ(Nakhunte)がバク族(Bak tribes)を率いてカルデアを出発し、東に向かい、昆侖山を越えて、中国北西部の黄河上流地域に定住した。その後、バク族は各地で征伐を行い、文明を伝播し、最終的に中国の歴史の土台を築くこととなった。ラクペリは、音韻論の対応の法則に照らして、この上古時代の帝王ナクフンテこそ「黄帝」であり、バク族(Bak Sing)は中国の古典『尚書』に出てくる「百姓」であると断定した。つまり中国の史書が文明の始祖であり帝王の系譜の源であると奉っている黄帝は実はバビロン人であり、漢族の祖先ははるか西方(チグリス・ユーフラテス流域)であるということだ。これが中国文明はバビロニアから来たとする「西来説」である。

 欧州漢学史においては、イエズス会の宣教師が中国文明と『聖書』とを無理やり結びつけ、中国人は、『旧約』に記載されている両河流域の神聖な民族の東方に移動した後の子孫であると論じている。このような観点は、カトリック教の周辺においては途絶えることのなかった声であり、ラクペリの「西来説」はまさにその形態の一つである。『早期中国文明史』(Early History of Chinese Civilization, 1880)や『早期中国文献に見られるバビロニアの伝統』(Traditions of Babylonia in Early Chinese Documents, 1883)などのラクペリの著作や雑誌『バビロンと東方記録』(Babylonian and Oriental Records)はいずれもこの学説の正しさを証明しようとしたものである。だが「西来説」は16世紀から、欧州の主流の漢学界には認められず、学者らの多くは、これは宗教的な色彩の濃い仮説だと考えていた。興味深いのは、西洋の世界ではあまり影響力のなかったこの学説が、東アジアに伝わった後、日本と中国で共鳴者を見つけ、民族と国家に対する一世代の人びとの見方さえも変えてしまったということである。

 東京帝室博物館の西アジア研究者の三宅米吉(1860-1929)は、英国留学中にラクペリの学説に触れ、その後長期にわたって「華夏西来」の理論に注目し続けた。三宅は1896年8月、『史学雑誌』上に「ラクウペリ氏が支那古代の開化の起原に就ての説」[7]を発表し、中国文化西来説に関するラクペリの書籍の要点を学術や文字、制度、宗教、歴史などの面から紹介した。三宅は、ラクペリの「西来説」について、まだ検討すべき点が多いとしつつも、この仮説に賛同の態度を取っている。西洋から伝わった新たな知識の一つとして、「華夏西来」の学説は、日本の学界の注目を受けたが、完全には受け入れられず、定説を形成することもなかった。史学家の桑原隲蔵(1870-1931)らは、こうした観点に対する反対の立場を明確にしている。

 異論のあった「西来説」だが、二人のアマチュア歴史学者の著作を通じて、大衆の視野に入ることとなった。1900年6月、白河次郎(1874-1919)と国府種徳(1873-1950)が書いた『支那文明史』が、博文館によって「帝国百科全書」シリーズの一冊として出版された。同書は、ラクペリの観点を紹介し、中国文明の創始者である黄帝はカルデアからやって来たのであり、漢字や暦法、『易経』、「四涜」信仰などの文化的要素はいずれも、両河流域文明の東方における遺物であるとしている[8]

 客観的に見て、この『支那文明史』は、厳粛な学術著作ではなく、大衆に向けた一般読物にすぎず、学界の主流な見方を代表するものではない。だがこれは東京と上海の中国の知識人界に大きな波を引き起こし、極めて大きな影響を与えることとなった。1903年には東京と上海の両地でそれぞれ、『支那文明史』のいくつもの訳本が出現し、その後の2、3年は、この書が伝えている「西来説」は同時代の公の知識と言えるまでになり、「排満建国」の政治的理想をさらにたきつけ、中国の歴史教科書にさえ入った。

 中国の知識人界において『支那文明史』を宣伝した最初の人物は、浙江諸曁出身の日本留学生の蒋智由(1865-1929)だった。1902年に日本に到着後、蒋智由は『新民叢報』と『浙江潮』の編集に前後してかかわり、1903年から1904年まで、『新民叢報』で「中国人種考」と題した文章を連載し、中国の上古時代の氏族の首領である黄帝が部落を率いて4千年前に西アジアから長いみちのりを経て、最終的に黄河上流の昆侖山地域に到達したと論じている。その後、日本留学中の江蘇と浙江の出身者によって設立された革命団体「光復会」もこの学説を大きく打ち出し、『国粹学報』もこれに強く賛同した。注目すべきなのは、『国粹学報』の周囲に団結した「国粹派」のメンバーが「西来説」を述べ伝える時には、訓詁学を由来とする多くの解説が付け加えられていたということだ。例えば経学の大家であった劉師培(1884-1919)は『中国民族志』で桑原隲蔵『東洋史要』のアジアと中国の人種の起源に関する叙述を伝える際、古代の典籍『史記・封禅書』から「華夏西来」の証拠を独自に探し出した上、「バク族」(Bak tribes)は史書に記載された創世の神「盤古」であると古音韵学の角度から論証している。劉師培は『攘書』の「華夏篇」においても「漢族初興,肇基西土,而昆侖峨峨,実為巴科民族所発跡」と断定している[9]

 日本の知識人界の紹介を通じて中国に入った「華夏西来説」は、排満建国の武器として用いられただけでなく、清王朝が打倒された後も、巨大な影響力を保った。北洋政府期(1912-1928)の国歌『中華雄踞天地間』の歌詞には、「中華雄踞天地間,廓八埏,華冑従来昆侖巓,江湖浩蕩山綿連,勲華揖譲開尭天,億万年」と、黄帝崇拝と華夏西来の痕跡が見られる。1935年になっても国民党中央執監委員会は、黄陵を祭る祭文の中で、漢族を率いて東方に移動してここまで来た英雄的人物と黄帝をみなしている。「于赫元祖,睿智神明,爰率我族,自西徂東,而撻伐用伸」。「西来説」は1920年代前後までに「漢族本土起源論」によって徐々に代替されていった。かつて最も熱狂的だった排満主義者(章炳麟など)ですら、自らが日本に留学していた時には信じて疑わなかった「華夏西来」の見方を放棄した。だが黄帝に対する信仰と崇拝は今も続いている。黄帝はバビロン人ではなかったかもしれないが、「華夏の始祖」としての地位は、黄帝を祭る毎年の公的行事の中でしっかりと打ち固められている(図3)。

図3

図3. 陝西省の黄帝を祭る儀式[10]


[1] 張之洞『勧学篇』,台北:文海出版社,1967年,p.15。

[2] 孫隆基「清季民族主義與黄帝崇拜之発明」,『歴史研究』2000年第3号。

[3] 石川禎浩「20世紀初年中国留日学生“黄帝”之再造——排満、肖像、西方起源論」,『清史研究』2005年第4号。

[4] 画像出典:http://control.blog.sina.com.cn/myblog/htmlsource/blog_notopen.php?uid=1256255254&version=7&x

[5] 画像出典:http://www.hosane.com/auction/detail/N11121925

[6] 『国民之友』第182号,明治26年2月23日,38ページ。

[7] 三宅米吉「ラクウペリ氏が支那古代の開化の起原に就ての説」,『史学雑誌』第7巻第8号,明治29年(1896年)8月15日。

[8] 白河次郎・国府種徳『支那文明史』,東京:博文館,1900年。

[9] 劉師培「攘書·華夏篇」(1904年1月),『劉申叔遺書』収録,南京:江蘇古籍出版社,1997年,631ページ。

[10] 画像出典:http://news.cnwest.com/


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