【18-07】伊万里の四百年:磁器生産とオリエンタルスタイルのグローバル化

2018年10月10日

朱新林

安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師

2001.9—2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9—2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9—2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9—2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8—2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務

一.芙蓉手(ふようで)の物語

 1602年3月、オランダ東インド会社の武装商船がアフリカ海岸のセントヘレナの近郊で、中国磁器を満載したポルトガル商船を略奪した。船上の物品がオランダ・アムステルダムに運ばれ競売にかけられると、欧州でセンセーションを巻き起こした。西洋諸国がこれほどの数の中国磁器を目にしたのはこれが初めてだったのだ。オランダ人のみならず、フランス王アンリ4世やイングランド王ジェームズ1世までもが先を争って購入したという。

 略奪に遭ったこのポルトガル貨物船はCaraca(カラック船)と呼ばれていたことから、オランダ人は自国の言語でこれらの磁器をKraak Porcelain(クラーク磁器)と名付けた。後にアムステルダムで出版された海事辞典によると、Kraakという単語は中国産の薄手の磁器を表す単語とされている。これらの磁器の特徴は、皿の中央部分に、藍色と白の2色からなる青花磁器の様式の円窓を設けている点で、中央部の模様は人物あるいは動物の模様が多い。円窓の周囲は蓮の花弁状あるいは扇の形をかたどった6~12の開光(窓枠)に仕切られており、開光の中には雑宝(珠・銭・陰陽板・珊瑚・丁子・火焔宝珠・法螺など)、草花、山水、人物などの模様がぎっしりと描かれている。このような花をかたどった造型は、明の万暦年間(1573~1620年)に中国江西・景徳鎮の民窯で打ち出された新しいデザインである。その図案は中国の伝統的な画法を用いているものの、模様の配置は中国の伝統的な様式とは違って異国情緒にあふれている。これは明らかに海外からの発注を受けて、外国の審美観や好みに合わせてデザイン・生産されたものである。こうして17世紀に欧州市場に進出したクラーク磁器は大変な人気を集め、明代中~末期から清代初期にかけて、中国から欧州諸国に輸出される重要な品となった。

図1

図1. 明代青花牡丹鳳凰文大皿(東京国立博物館所蔵)[1]

図2

図2. 福建省平潭県の沈没船「碗礁一号」から見つかった清代のクラーク磁器(コーヒーカップ)[2]

 興味深いことに、17世紀の日本でも、クラーク磁器を模倣した大型の青花磁器皿が生産されるようになった。形が満開の芙蓉の花(蓮の花)に似ていることから「芙蓉手(ふようで)」と呼ばれるこの磁器は、近代における東アジア国際文化交流の生きた証の一つと言える。芙蓉手の誕生は、16世紀末のある戦争と密接な関係がある。1592年(明・万暦20年)、豊臣秀吉が15万の軍勢で朝鮮に攻め入り、中、日、朝の3カ国を巻き込んだ「文禄・慶長の役」(1592~1598年)が勃発、朝鮮のほぼ全域が占領された。ソウルの陶磁器業も大きな打撃を受け、朝鮮の陶工の多くが海外に逃亡した。日本に到着した彼らは、韓国式の「龍窯(りゅうがま)」を導入。日本では「登り窯」とも呼ばれるこの窯によって、生産量が大幅に向上したと同時に、陶磁器の焼成に必要な高温の環境が整った。このような経緯から、この戦争は「焼き物戦争(茶碗戦争)」とも呼ばれている[3]。1616年(元和2年)には、日本に渡った朝鮮出身の陶工・李参平(?~1655年)が、肥前国の有田地域(現在の佐賀県有田町)で白い肌の陶磁器「白磁」の原料に適した高陵土を発見、日本初の青花磁器を生産することに成功、それまで日本の磁器産業を悩ませてきた原料問題を解決した。以来、日本各地の朝鮮出身陶工たちが相次いでこの地に開窯するようになり、生産量は年々増加した。有田で生産される磁器のほとんどは伊万里港から日本各地に運ばれていたことから、伊万里焼、肥前焼などと呼ばれ、後に青花磁器(染付)、色絵などの種類も生産されるようになった。

 それからしばらく経った17世紀中頃、中国は王朝交代の混乱の中にあった。江西景徳鎮の磁器産業もその打撃を受けて不況に陥り、国外向けの磁器販売量は、一度は半分にまで落ち込んだ。1644年に清朝が成立した後も、戦争と戦乱が江西省を苦しめ続けた。1656年(清・順治13年)、朝廷は福建台湾地区の鄭成功の勢力に対抗するため、厳しい海禁政策をとり、民間人が無断で鉄製品や銅銭、緞子、シルク、真綿などを売買することを禁止した。これによって、中国と欧州諸国間の磁器貿易が完全に中断した。当時の欧州では極東の磁器が大いに人気を集めており、中国と貿易ができなくなったオランダ東インド会社は、仕方なく日本で代替品を探すことになった。徳川幕府は1639年以降にほとんどの対欧貿易を禁止していたが、東インド会社との交易だけは認めていた。東インド会社が1650年に伊万里焼を145点購入したのを皮切りに、注文数は急速に増え続け、1652年には1,265点、1654年には4,258点、1658年には5,257点、1659年には大幅に増えて5万6,700点に達した。このころには、景徳鎮で生産された小皿や壺などを基に、模倣品を製造するよう要求していたという[4]。この時期の日本は、急速に中国に取って代わり、欧州向けの磁器輸出の主要国となっていった。貿易額が増えるに伴い、肥前の磁器産業は有田から周辺地域にまで拡大し、有田焼、波佐見焼、平戸焼などが作られるようになり、広大な磁器生産地域が形成された。また、東インド会社からの大量の注文に対応するために、初歩的に工業化された生産モデルが導入された。遠洋貿易が進むに伴い、「芙蓉手」も欧州各地に輸出され、上流階級の食卓や壁に飾られるようになった(図3、図4)。

図3

図3. オランダ東インド会社(Vereenigde Oostindische Compagnie)の略称であるVOCのマークが入った「色絵芙蓉手V.O.C.マーク入り皿」(18世紀初期、神戸市立博物館蔵)[5]

図4

図4. オランダ人画家ヤン・ダヴィス・デ・ヘーム(Jan Davidsz de Heem)の静物画[6]

二.ジャパニーズ・スタイルの形成

 中国の青花からインスピレーションを得た「芙蓉手」は、伊万里磁器の大家族の中の代表的な一つの種類に過ぎない。時代が進むにつれ、伊万里磁器は徐々に中国文化をベースとし、日本と欧州の要素を融合した製品へと発展していく。

 初期の伊万里磁器は中国明代の様式を模倣したものが中心であり、1634年前後に日本に伝わった「唐詩画譜」の影響を大きく受け、画譜に描かれた装飾模様をそのまま写しているものが多かった。こうして描かれた花鳥、山水、漢字、あずまや・楼閣および図案の構造はほとんどが元・明期の磁器のデザインを受け継いだものであった。1650年代になると、肥前の磁器職人は長崎に移り住んだ中国職人から絵付け技術を学び、朝鮮体系から中国体系への転換を図るようになり、色鮮やかな絵付け磁器が徐々に日本の海外向け磁器の主力となっていった。

 17世紀後半になると、伊万里焼のデザインにはより多くの日本の要素(浮世絵、歌舞伎、遊女、風俗画など)が取り入れられるようになり、装飾のテーマにも桜や楓、網紋(魚を獲る投網の模様)、菊紋など典型的な江戸の要素が出現するようになった。「椀久物語」の記載によれば、1644年(正保元年)、伊万里の陶商・東島徳右衛門が長崎居留の中国人から彩画着色法を学び、その技法を酒井田柿右衛門に伝えた。酒井田柿右衛門は1670年代、温かみのある乳白色の素地に、赤や金の上絵を焼き付けるという「柿右衛門様式」を確立させた。これは濁手(にごしで)、乳白手などとも呼ばれる。

 この時期の欧州では、きらびやかな色彩と精巧な装飾を特徴とするロココスタイルが流行しており、柿右衛門式磁器はちょうどこの審美観・好みに合っていた。18世紀初めになると、より豪華絢爛な焼き物である「金襴手様式(きんらんでようしき)」が成立した。金襴手の磁器は「柿右衛門式」よりも色遣いが大胆で、青花をベースに金、緑、赤などの鮮やかな色彩を加えたものである(図5)。源をたどれば、白磁の釉下に赤や金の上絵付けをするという様式は明代末に流行した「天啓赤絵」磁器と深い関係がある。現在も欧州諸国の宮殿や公館、豪邸などで金襴手様式の伊万里焼を見ることができるが、これらは往々にして中国の景徳鎮窯彩磁、龍泉窯青磁、徳化窯白磁などと同じ部屋に飾られ、当時の欧州で「オリエンタルブーム」を巻き起こしたものである(図6)。

図5

図5.「色絵梅欄干花唐草文皿」佐賀県立九州陶磁文化館所蔵 柴田夫妻コレクション(収蔵番号 4209)[7]

図6

図6. ベルギー画家Gustave Leonard de Jongheの油絵「The Japanese Fan」1865年頃[8]

三.伊万里vs中国伊万里

 清朝政府が沿海地域の抵抗勢力を一掃した後、東南海域は徐々に平静を取り戻した。康熙帝は1683年(康熙21年)に景徳鎮窯の再建を命じ、翌年には朝廷が遷界令(海禁令)を解き、「展海令」を公布、海外との磁器貿易が再開された。それまでの数十年間は、九州から西洋諸国に輸出された伊万里焼が磁器貿易市場を独占し続けており、特に伊万里焼の中でも日本らしい様式の「柿右衛門様式」と「金襴手様式」は欧州での需要が供給を大きく上回り、高値がついていた。江西景徳鎮は、流行の伊万里様式を参考に、白磁の釉下に抹紅で上絵を描き、金で輪郭を描くという手法で中国の伝統的な装飾模様の磁器を製作、再び海外市場に進出し、日本伊万里との戦いの幕を開けた。これらの模造品は中国産であることから「中国伊万里(Chinese Imari)」と呼ばれた。1723年、広東では伊万里様式の磁器が大量に生産され始めた。オランダ東インド会社の記録によれば「中国伊万里」は価格が安かったために大量の注文を獲得し、1729年の1年間だけで、広東から輸出された「中国伊万里」はなんと19万1,000点に上った。これにより、日本の伊万里焼の市場シェアは大幅に縮小した。この市場争奪戦において重要な要素となったのが価格である。日本の磁器に使われる顔料は主に中国から輸入したもので、特にコバルトの価格は変動が激しいため、磁器の製作コストは必然的に中国を上回り、磁器の価格も引き下げることができなかったのだ。

 1757年、日本は東インド会社との貿易を終了し、伊万里焼の欧州への輸出は正式に幕を閉じた。一方の中国も、ほぼ同じ時期に伊万里焼の模倣を終了した。しかし、伊万里様式は西洋諸国で長期にわたって生き続け、ドイツのマイセン(Meissen)、ハンガリーのヘレンド(Herend)、フランスのシャンティイ(Chantilly)、英国のチェルシー(Chelsea)、オランダのデルフト(Delft)などは、さまざまな時期に伊万里焼の模倣品を製作している。英国王室御用達であるロイヤルクラウンダービー社(Royal Crown Derby)が生産する伊万里様式のシリーズ(オールドイマリ)が良い例である(図7)。この様式は、元をたどれば中国の景徳鎮で生産された青と白からなる「クラーク磁器」、すなわち日本で「芙蓉手」と呼ばれる磁器だが、色彩の構成を見ると、英国の磁器職人は中国風の青と白ではなく、典型的な日本式の金と赤で「芙蓉手」の蓮の花弁の部分を装飾している。これにより、もともと中、日、韓の3カ国の文化的要素を含んでいた伊万里焼がさらに真の意味でのグローバル化を果たしたことになる。

図7

図7. Royal Crown Derbyの伊万里様式のシリーズ[9]


[1] 出典:国立博物館所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collectionItems/view/12f08f3c06a62af80737925634848303/146306

[2] 出典:http://blog.sina.com.cn/s/blog_4b9655bb0100uioz.html

[3] Robert Finlay、鄭明萱訳『青花磁的故事』(台北:猫頭鷹出版社、2011年)230~231頁。

[4] 熊寰「中日古磁国際競市研究——以景徳鎮和肥前磁器為例」『中山大学学報』2012年第1期。

[5] 出典:神戸市立博物館より提供

[6] 出典:https://www.invaluable.com/auction-lot/jan-davidsz-de-heem-utrecht-1606-1683

[7] 出典:佐賀県立九州陶磁文化館より提供

[8] 出典:https://www.wxzhi.com/archives/089/kz2ja9wv7ue61x34/

[9] 出典:ロイヤルクラウンダービー公式ページhttp://www.neimanmarcus.com/en-jp/Royal-Crown-Derby-Old-Imari-Dinnerware/prod78520094/p.prod


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