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【13-02】和解はどのような可能性を拓くか―中国人強制連行・強制労働事件に向き合った裁判官たち―(その2)

2013年11月20日

内田 雅敏

内田 雅敏:四谷総合法律事務所 弁護士

1945年生まれ、1975年東京弁護士会登録。
日弁連人権擁護委員会委員、同接見交通権確立実行委員会委員長、関東弁護士会連合会憲法問題協議会委員長を経て、現在、日弁連憲法委員会委員、花岡平和友好基金委員、西松安野友好基金運営委員会委員長、専修大学非常勤講師、弁護士としての通常業務の他に、中国人強制連行・強制労働問題など戦後補償問題、靖國問題などに取り組む。
著書:『弁護士―法の現場の仕事人たち』(講談社現代新書、1989年)、『「戦後補償」を考える』(同、1994年)、『「戦後」の思考―人権・憲法・戦後補償』(れんが書房新社、1994年)など。

その1よりつづき)

2.中国人受難者・遺族と加害者西松建設が連名で建立した「中国人受難之碑」

 2013年10月19日、広島県西北部の山間の地、安芸太田町安野で、二胡の音色が静かに流れる中、中国からの受難者・遺族23名を迎え、第6回中国人西松建設強制連行・強制労働受難者追悼式が行なわれた。

 安野の地でも360名の中国人が西松組のもと、安野発電所建設(導水トンネル)工事に従事させられ、苛酷な労働によって、原爆による被爆死5名を含む29名(内3名は連行中の船内で死亡)の方々が異国広島安野の地で亡くなった。

 中国人受難者・遺族らは地元広島を中心とする日本側支援者らの協力を得ながら、16年間に及ぶ交渉と裁判を経て、2009年10月23日、西松建設との間で和解を成立させた。翌2010年10月23日、広島市内を流れる太田川上流、かつての加害の地、中国電力安野発電所の一角に、中国人受難者・遺族と加害者西松建設株式会社の連名で、「安野 中国人受難之碑」が建立された。碑の裏面には、中文、日文で、

 第二次世界大戦末期、日本は労働力不足を補うため、1942年の閣議決定により約4万人の中国人を日本の各地に強制連行し苦役を強いた。広島県北部では、西松組(現・西松建設)が行った安野発電所建設工事で360人の中国人が苛酷な労役に従事させられ、原爆による被爆死も含め、29人が異郷で生命を失った。

 1993年以降、中国人受難者は被害の回復と人間の尊厳の復権を求め、日本の市民運動の協力を得て、西松建設に対して、事実認定と謝罪、後世の教育に資する記念碑の建立、しかるべき補償の三項目を要求した。以後、長期にわたる交渉と裁判を経て、2009年10月23日に、360人について和解が成立し、双方は新しい地歩を踏み出した。西松建設は、最高裁判決(2007年)の付言をふまえて、中国人受難者の要求と向き合い、企業としての歴史的責任を認識し、新生西松として生まれ変わる姿勢を明確にしたのである。

 太田川上流に位置し、土居から香草・津浪・坪野に至る長い導水トンネルをもつ安野発電所は、今も静かに電気を送りつづけている。こうした歴史を心に刻み、日中両国の子々孫々の友好を願ってこの碑を建立する。

2010年10月23日
安野・中国人受難者及び遺族
西松建設株式会社

と刻まれた。加害と受難の歴史を記憶するためのものだ。碑の両脇には受難者360名の名を刻んだ小碑が配されている。

写真2

写真2 2012年10月20日 広島・安野 鈴木敏之元広島高裁判長(川見一仁氏撮影)

 碑の建立には地元安芸太田町、中国電力など各方面の協力があった。同日の、碑前での第1回の追悼式以降、2013年10月19日の第6回の追悼式に至るまで、西松安野友好基金運営委員会(中国側、日本側の各委員で構成し、西松建設も参加)は判明した246人の受難者・遺族の方々に補償金をお届けし、173人の受難者・遺族の方々を順次追悼式にお招きして交流している。来日した受難者・遺族らは、毎回、追悼式終了後、強制労働の現場を巡り、改めて、過酷な労働を強いられた当時に思いを馳せる。現場を巡り、解説を聴く中である受難者・遺族が「ひどい」「ひどい」と呟いていた。受難者・遺族らは、翌日には原爆資料館を見学し、原爆被害の凄まじさに想像力を働かせ、慰霊碑に献花している。今回も、ボランティアガイドをしてくれたのは、広島大学博士課程を終えたばかりの中国からの若い留学生と広島在住の年配の女性であった。

3.日中国交正常化40周年の風景

 中国人受難者・遺族をお迎えしての追悼式では様々な出来事があったが、とりわけ昨年10月の第5回追悼式のことは忘れられない。2012年は、1972年の日中共同声による日中国交正常化から40周年、本来ならば、政治、経済、文化、あらゆる分野において、盛大に祝われる年になるはずであった。第5回追悼式にも、当初、30数名の中国人受難者遺族が参加する予定であったところ、現代版「ハーメルンの笛吹き男」石原都知事(当時)の東京都による尖閣諸島(中国名釣魚島、台湾名釣魚台)購入発言を契機として、日中間に緊張が高まる中で、「日本に行くのが怖い」として10数名の中国人受難者・遺族が来日を取りやめるという事態が生じた。強制連行・強制労働問題を研究し、訪日団の顧問格として、毎回受難者・遺族に付き添い、来日していた大学教授も、今回は、大学当局から行かない方がいいと言われ、訪日を断念した。基金運営委員でもある彼は、来日できないことを大変申し訳なさそうにしていた。

 このような時こそ、日中の民間人同士の交流が大切である。関係者の尽力により、これまでと同じく、中国から受難者遺族(もっとも遠方から来日したのは新疆自治区烏魯木斉市から、北京に出るまでで30時間かかったという)をお迎えし、地元安芸太田町、善福寺、中国電力、駐大阪中国領事館、広島を中心とする各友好団体、及び全国からの個人の参加を得て、「日中両国の子々孫々の友好を願って、この碑を建立する。」と刻まれた「安野 中国人受難之碑」の前で、第5回追悼式を執り行うことができ、互いに友好と信頼を確認し合うことができた。安芸太田町長は「…本日は当地を初めて訪れられる遺族の方もおられると思いますが、この碑が歴史を未来永劫後世に伝え、二度とこのような過ちを繰り返すことのないよう日中両国の友好がさらに発展し、平和の輪がより広くなることを強く願ってやまないところであります。……日中国交正常化40周年の今年、領土問題から日中関係が深刻化する事態となっており、両国経済への影響を強く懸念するところでありますが、両国政府間の対話により、速やかな平和的解決を強く望むところであります……」と挨拶を述べた。

 原爆資料館で平和ガイドをしてくれた広島の年配の女性は、受難者・遺族らに「皆さん、日中がこのような時期に、ようこそおいでくださいました。一生懸命ガイドさせていただきます」と語りかけた。

 離日前夜の交流会、中国人受難者遺族らは、口々に、来日してよかったと述べ、日本側との友情を誓い合った。交流会の席上で「受難之碑」を建立した地元石材店の吉村社長は、「生涯の記憶に残る大きな仕事をさせて頂きました。毎回追悼式に参加させて頂き、皆さんのお話を聴かせて頂く中で、石の大きさ、重さもさることながら、日中友好という、もっと大きな仕事に参加させて頂いていることを自覚するようになり、感激の種類も変って来ました。本当に感謝しています。」と挨拶した。

 これまでの追悼式の中には様々なエピソードもあった。建設当時の発電所が現在も稼働していることを知った遺族の一人が、「父たちが作った、この発電所を、末永く使ってほしい」と案内の中国電力の担当者に話しかけ、担当者は即座に「はい、大事に使わせていただきます」と答えたという。

 和解事業として行われる追悼式、原爆資料館見学などの活動は、草の根の日中友好運動の一端を担うものである。「このような活動を続けることによって、やがて『受難の碑』は『友好の碑』となるであろう」と、ある受難者遺族が語ってくれたことが忘れられない。

 「加害者は忘れても、被害者は忘れない」、歴史問題の解決のためには、被害者の「寛容」と加害者の「節度」が不可欠である。私たちはこのことを肝に銘じて、加害の事実と向き合い続けねばならない。

(その3へつづく)