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【09-003】成都、安陽、邯鄲の駆け足の旅

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)     2009年2月23日

 

 四川省の成都、殷墟で有名な安陽、始皇帝生誕の邯鄲を廻ってきた。現地に行けば、想像力が喚起されると踏んでの旅行である。中国という国の成立ちを考えるのに適しているはずである。

 搭乗した飛行機が濃い霧の成都空港に到着すると、四川大学の国際合作交流処の徐晶が出迎えに来てくれた。成都出身者は小柄と思い込んでいたが、北方人のように意外と背が高く、英語を流暢に話す美人である。5月に発生した四川大地震の被害について尋ねると、
「成都では被害はほとんどありませんでしたが、観光客が激減しました。今では戻りつつありますが」
と元気のない答が返ってきた。

 ホテルでチェックインを済ませて、その2階のレストランで昼食をとった。午後1時30分を過ぎているためか、他の客は誰もいない。旅行客はやはり少ないらしい。注文したタンタン麺と餃子はすぐには来ないで何回か催促してやっと運ばれてきた。急いで口に放り込んだ。約束の時間に遅れるわけにはいかない。

 国内ランキング16位程度の名門四川大学に着くと、少し遅れて国際担当の石堅副学長が現れた。物腰が柔らかい。副学長は四川大学訪問に対し歓迎の意を表すと、大学の沿革と現状について、簡単に説明してくれた。特長についても強調した。中国西南開発の拠点だと何度も繰り返した。

 それが終わると、筆者から、訪問受入れに対するお礼と訪問の目的について簡潔に述べた。そして、独立行政法人理化学研究所の歴史と活動概要について説明後、本論に移った。
「理研は四川大地震の被害者に対して大変心を痛めている。自然科学を専攻する大学院生を理研に招待し、3ヶ月間研究室に配属して研究の実習をやらせたい。被災の悲劇を乗り越えて、将来への希望を取り戻し、科学者や技術者を目指すきっかけとなって欲しい」

 実は、四川大学には教育部を経由して要件を伝えてあった。中国流の仕事のやり方である。要件が明確でないと、面会を断られるケースがある。幹部は忙しいのだ。

 副学長より、提案の承諾と感謝の意が述べられた。優秀な学生を選抜すること、大学院生派遣プログラムをきっかけに両研究機関が一層緊密な関係になることを期待する旨の発言があった。

 会合は若干の質疑応答を伴いながら、順調に終了した。その後、キャンパス内の民族博物館を見学した。チベット族、羌(きょう)族、苗(みょう)族などの少数民族の文化や風俗、漢民族の衣装などが展示されていた。四川省は少数民族が多く、またチベットへの入口であるため、少数民族の文化研究が盛んである。纏足用の靴が展示してあった。十数センチ程度の大きさであろうか。痛々しい。纏足の靴を履いて、よろよろ歩く姿が風流で色っぽいと当時の男性は考えていたのである。現代との美的価値観の違いは大きい。

 歓迎夕食会は午後6時に始まった。石副学長は夜間に講義を行うために午後7時に失礼させていただく、と前もって丁寧に言った。四川の料理を味わいながら、出席者全員と白酒で杯を交わした。中国のしきたりである。懇談は四川人の誠実さを感じさせるものであった。

 筆者が成都は"天府の国"と呼ばれ、いいところと聴いていますと水を向けると、
「成都は住むのに最適な場所であるため、人々が努力しないのが問題なのです。女性は綺麗だし、食事は美味しく、生活費も安いですよ。茶館でのんびりとお茶を飲むのは最高です」
と石副学長が口を開いた。成都の特長を並べるのに、女性を最初にもってくるとはと思っていると、国際合作処の女性の副処長が、
「石教授の古代人類学の授業は学生に非常に人気があって、いつも教室の外まで学生が溢れ出しているのです。特に、女性に人気があります」
と補足した。

 確かに言われてみれば、筆者と違い、、もてそうな面持ちである。

 7時になると、約束どおり、石副学長は詫びを述べて去っていった。夜間でなければ、講義の時間が確保できないという。中国の古代の大夫(学者)はこのような人だったのであろうと思わせる。

 しばらくすると歓迎会は終わり、ホテルに戻った。茶館の雰囲気を知りたくなって、ホテルのなかの茶館に入ってみた。雰囲気はリラックスできるように工夫してあるが、ホテルなかであるため現代風である。歴史を感じさせない。お茶の値段は日本円で600円程度と中国の物価を考えると安くはないが、少し呑むと何回でもお湯を注ぎに来る。気のおける仲間と何時間でもおしゃべりをするのが至福の時であろう。

 部屋に戻り、シャワーを浴びて、床に就いた。外からは車のクラクションの音が間断なくきこえてきた。しかし、1600キロの移動の疲れと白酒のせいで、ぶつぶつ言っている間に寝入ってしまった。

 何時であろうか。工事中のような音がどこからともなく聞こえてくる。深夜に工事を行うホテルとは何であろうかと思いつつ起き上がり、電灯をつけて時計を見ると午前1時30分だ。寝ぼけているからであろう。コツコツという音がどこから聞こえてくるかまだ分からない。洗面所にいって顔を洗うと、どうやら自分の部屋のドアを誰かがノックしていたようだ。

 小窓から外を覗くと、女性が下を向いて立っている。誰なのか。石副学長が言うように成都は美女の街なのか。誰かが派遣したのであろうか、それとも公安の囮捜査なのか。胸が躍ってきた。そう思いつつ、もう一度小窓に眼を当てると、人影は消えていた。顔は見なかったため、美女かどうかを知るすべはないが、一体誰であったのであろうか。深夜に人の部屋をこっそり訪ねて、ドアをコツコツと叩いて客を起こすとは何の目的があるのであろうか。色々と想像を逞しくしているうちに、すっかり眼が覚めてきた。安眠薬を飲んでも眠れなくなった。

 次の日は、寝不足の頭を抱えて、西南交通大学を訪問することになる。しかし、眠気が吹き飛んでしまう日になってしまうとは思っていなかった。

 西南交通大学は、西安交通大学上海交通大学、台北交通大学と源を同じくする大学である。そのため、本家はうちであるという議論が絶えない。西南交通大学は、機械系や土木系が強い大学のようだ。打ち合わせの前に、実験室を見学させてもらった。四川大地震後、地震防災関連の予算がついたため、橋梁、トンネル、建物、土砂の構造や強度を調べる研究が盛んに行われるようになったという。

 大学の国際合作処との協議では、
「うちの大学の地震被災大学院生のなかで最も優秀な者を理研に派遣したい」
と熱く語ってくれた。今後の日程と窓口を確認して、会合は終わった。

 昼食後、最古の堰である都江堰に向かった。地震の被災地として、実態を見ておきたいという気持ちと都江堰の歴史的な意味を考えてみたかった。都江堰は、道教の聖地の一つである近辺の青城山とともに2000年にユネスコの世界遺産に登録されている。

 都江堰に近づくに従い、地震の被害を受けた建物が目立つようになった。建物の一部や壁が崩壊したり、窓枠が歪んでいる。建築中の高級アパートも手付かずのままだ。人は住んでおらず、利用もしていないようだ。放置してあるのは、撤去のための費用が嵩むからであろうか。ある通りに面する建物の被害は深刻であるが、通りを曲がると、被害はそれほどでもないところもある。テレビで見るのと違い、実際に眼の辺りにすると、地震の怖さが眼にしみる。睡魔も吹き飛んだ。重点文物財などの世界遺産も相当な被害を受け、立ち入り禁止になっている。西南交通大学の食堂で会った、早稲田大学の災害復旧の専門家は、重要文化財の復旧のために、日本の匠を連れて来たいと言っていたが、その意味を体感した。

 都江堰は、岷江が龍門山脈を抜けて成都盆地に出るところに建築された堰である。春の雪解け水が殺到し、岷江の流れが緩やかになるところで川幅が広くなり、毎年洪水を引き起こしていた。また、岷江の水を乾燥した成都盆地に引けると、広大な農地に変えることもできる。つまり、治水と利水の両方が達成できないかと考えた人が古代にいたのである。紀元前3世紀、戦国時代の秦国の蜀郡の太守李冰である。李冰は昭襄王から銀十万両を与えられ、数万人を動員して難工事に挑戦した。川の中に堤防を建設するために、石を詰めた竹かご、つまり現代で言うテトラポットを川のなかに投入した。また、盆地への運河を切り開くために、岩盤を火で温めた後に水で冷まして岩盤に亀裂を入れて岩山を崩していった。気の遠くなる大工事である。李冰は紀元前256年から紀元前251年に原形となる堰を築造したが、工事の完成を見ることなく没し、息子の李二郎に工事を引き継ぎ、完成させた。この親子は二王廟に祀ってあるが、二王廟は大きな地震災害を受け、入場が制限されている。

 都江堰の構造は次のようになっている。川のなかに中州を建造し、本流と灌江(灌漑用水)に分離している。灌江は下流で、さらに盆地へ流れ込む内江(用水路)と飛沙堰に分けられている。なぜか。水量が適量であれば、水は灌漑用水路に流れるが、洪水になり水嵩が増すと、飛沙堰から余分な水や土砂を本流側に戻すように設計されているのだ。灌漑用水の上限は毎秒最大730立方メートルに自動的に制限されている。多すぎると農地が洪水の被害にあう。飛沙堰のお陰で、内江に流れ込む土砂は上流から来る土砂の8%しかない。2000年以上もの間、洪水調整、灌漑、土砂排出を自然に行ってきたのである。灌漑用水は総長2万キロの水路ネットワークを形成し、成都盆地を「天府之国」に変えた。成都の人々が豊かな生活を送れるのは李親子のお陰である。

 都江堰の完成から30年を経たず、秦の政王が戦国時代を勝ち抜き、中国を統一し、始皇帝と名乗るようになった原因の一つは後背に豊かな穀倉地帯を有していたからである。戦国時代の7ヶ国のうち統一の可能性があったのは、農地の開墾という観点で見ると、西に農地拡大の可能性があった秦と江南の穀倉地帯を切り開いた楚の二ヶ国であったと言えよう。実際、秦の滅亡後、三国時代に移行するが、通常の戦いをしていれば、楚が勝ち残り次の王朝を開いていたはずである。しかし、楚の項羽は庶民出身の劉邦に敗れてしまう。作戦の失敗である。
「岷江の上流を見てください」
運転手が指を差した。指先には、山肌が無残に切り崩されていた。大地震による大規模な地滑りである。
「あの山の向こうが、震源地の汶川だ」
運転手がそう言う前に、筆者は感知した。

 汶川は、大地震の際に報道されたように、少数民族の羌族が多く暮らす地区である。羌族とは遊牧のチベット系の種族である。羌族が山岳地帯に住んでいる理由は、歴史の過程で漢民族に追いやられたからである。羌族は不幸な種族のようだ。殷代は神聖王朝で、祭祀を重視していたが、同時に奴隷社会でもあった。奴隷となった異族とは、実は羌のことであった。殷王朝は時々、羌を生け捕るために狩にでかけていたようである。羌は主君が亡くなると、近臣や妻妾とともに殉死させられた。当時は、神と人が一体となっていた特異な時代であったため、殉死する方も喜んで死んでいったのかも知れない。現代の価値観で殷朝を評価することはできない。

 殷は精巧な青銅器で有名であるが、それを作成したのは奴隷であった羌である。羌の業績は現代でも人々を感服させる出来栄えである。紀元前221年、政王は中国を統一するが、彼の陵墓からは数千体の兵馬俑が発見されている。恐らく、生贄の羌の人数が減少し、匠として使用した方がいいという発想に変わっていったのであろう。合理性の芽生えである。

 また、殷が周に滅ぼされると、羌の一部は山東半島に逃れ、莱(らい)という小国を設立する。それを討ったのは、その西に位置した斉(せい)の将軍晏弱である。晏弱はその息子晏嬰とともに、斉公に仕え、死後晏子と呼ばれるようになる。諫言を厭わぬ臣下として中国の歴史に名を残すことになる。
―羌族か。
筆者はつぶやいた。運転手はもういいだろうと言いたげな表情をしたので、車に戻った。車は来た道を戻って進む。都江堰を見下ろせる丘の上で、車が停まった。降りてみると、運転手がコンクリートのダムの方を向き、
「ソ連が途中まで建設し、突然やめて帰っていった」
と語る。そのダムは都江堰の上流僅か数百メートルのところに、静かに立っていた。

 筆者の勘では、古代に建造された都江堰よりも効率的なダムをソ連の技術で造り始めた。しかし、中ソ対立のため1960年に中国に滞在していたソ連技術者が一斉に帰国しているが、このダムもその残骸の一つではあるまいか。仮に、近代技術でダムが完成していれば、都江堰は水没している。勿論、そうなれば、都江堰が世界遺産に認定されることはなかったであろう。

 筆者は次の日のフライトで北京に戻り、1日おいて安陽行きの"新幹線"(とは言っても在来線を走る)に乗り込んでいた。殷墟を訪れるためである。この旅行は前から企画していたもので、成都で羌と殷墟の青銅器の関係を知ったからではない。しかし、偶然の連鎖には、若干興奮を覚えた。

 巨大な北京西駅から河南省の安陽駅まで3時間半しかかからなかった。最高速度は206キロ。車内は満員である。

 午後1時22分、定刻通りに安陽駅に着くと、構外に出て視線が合ったタクシーの運転手に殷墟と投宿のホテルまでの時間を訊いた。
「どちらも15分。大差ない」
殷墟までは遠くなさそうなので、まずホテルにチェックインすることにした。
「そこのホテルはサービスが悪いぞ。同じ4星であれば、こちらの方がいいぞ」
と運転手が気楽に声を掛けてきた。運転手の言うホテルに行けば、彼はキックバックを受け取るのであろう、と思っていた。しかし、後で分かることであるが、ホテルの部屋は掃除が行き届いておらず、イガイガがあちこちに落ちていて、危なくて裸足で歩ける状態ではない。さらに、午後11時頃には、部屋に電話がかかって来て、
「特別サービスは要らないか」と露骨な声が聞こえる。
「不要(いらん)」
と言ってぶっきらぼうに切ったが、どうやら男性客の部屋に電話を掛け捲っているらしい。これでは売春宿に泊まっているようなものである。

 運転手は間違ったアドバイスをしていた訳ではなかった。ホテルの名誉のため、名前は明かさないようにしたい。

 時間は過去に戻るが、このホテルにチェックインして、部屋を確保すると、すぐに殷墟へと向かった。殷墟のある小屯(しょうとん)までは4キロ程度の距離だった。予想通り、殷墟は蛇行する幅30メートル程度の河の両側に広がっていた。入場券を買って殷墟のなかに入った。小奇麗な公園のようであった。
青銅器、玉などの発掘物が展示してある博物館を除くと、他の発掘箇所は屋根やガラスのカバーをかぶせ、発掘したままの姿を参観者にみせてくれているか、風化しないように元通りに埋め戻してある。参観者に対して最大の配慮をしてある。世界遺産の面目躍如だ。

 まず、博物館に向かった。入口は地下にあるが、そこまでの緩やかなスロープには、現代から古代までの王朝の名前と成立年が記されている。入口がちょうど殷の最後である。これから先の空間は殷代という訳である。チケットをチェックしている係員に訊くと、室内の写真撮影は可能であるとのことである。館内には、土管、壷、家畜の骨、青銅器、宝貝、玉、甲骨文字を刻んだ亀甲などが展示してあった。

 展示品をみると、当時の文化の高さが窺い知れるが、ひとつだけ気になった。殷墟は戦前から発掘が開始されているが、戦前のものはなかった。恐らく、蒋介石が台湾に亡命する際に、故宮の至宝とともに、全て持ち去ったのであろう。1928年から発掘の指揮をとったのは、中央研究院歴史語言研究所である。中央研究院と言えば、現在台北市の東寄りの地域に位置し、自然科学と人文科学の総合研究所である。発掘隊長の梁思永(清末の啓蒙思想家梁啓超の息子)は大陸に残ったが、研究者の何人かは、発掘物やノートとともに台湾に去っている。

 13年前に、筆者が台北の故宮博物院を訪問した際、強い衝撃を受けたものが二つある。一つは宋代の青磁器で、もう一つは殷墟から発掘した青銅器と甲骨文字であった。戦前発掘されたものは台北に展示され、戦後のものは殷墟に展示されているのである。
殷墟博物館の出口近くに、海外に流出した発掘物の写真と流出先が記されているが、日本、米国、英国の名前はあるが、台湾の名前は一切ない。台湾は中国の一部であるという政治的配慮ではあるが、台湾省にも文物の一部があると書いていてもいいではないかと思う。

 博物館を出ると、馬車が眠る展示場に向かった。馬車のみでなく、馬の骨まで一緒に発掘されている。王の死後、王とともに生き埋めにされたのであろう。馬は身体をよじっている。見ようによっては躍動感が残っている。動き出すのではないかとさえ思える。

 公園内には、甲骨文字と漢字を併記した場所もある。同じ文字がしばしば出てくるので、甲骨文字の特徴を覚えると、漢字が思い浮かび、読解力が増してくるのが分かる。
―俺も考古学者になったみたいだ。本気で勉強すれば、甲骨文字くらい簡単に読めるようになるかも知れない。
とバカなことを考えていた。

 司馬遷の『史記』には殷王朝の記載はあったが、殷は存在しないと言われていた時代もあった。小屯での殷墟の発見により、『史記』の更に信頼性が高まった。その内容は、甲骨文字の記載とほとんど同じであったことも人々を驚かせた。

 中国には三皇五帝の伝説があるが、司馬遷は五帝から書き始めている。五帝の最初は黄帝で、現代の中国人も自ら黄帝の子孫だと信じている。五帝の最後の二人は、尭帝と舜帝である。中国人はこの時代を「尭舜の治」と呼び、古代の黄金期と捉えている。舜帝を引き継いだのは禹帝であり、夏王朝という世襲王朝がここに始まったとされている。中国人は夏王朝の存在を信じているが、証拠となる遺跡はまだ発掘されていない。

 その夏王朝を倒したとされる殷王朝はどのような政権だったであろうか。

 殷王朝は紀元前1600年から500年続いた政権と言われている。8度遷都し、最後に落ち着いたのが小屯で、その後二百数十年間、殷は都を遷さなかった。しばしば遷都した前半の殷王朝は、遊牧や焼畑農業を主な生活手段としていたのかも知れない。殷は王が占いを参考にしながら農業や戦争に関係する重要事項を全て決定していく、祭政一致の神権政治が行われていた。殷人は神とともにあり、占いは神の意思の反映でそれに従っていた。奴隷は人間扱いされず、しばしば雨乞いのために神への生贄になった。神とともにいるため、殷人は死を恐れず勇敢で、戦争によって諸部族を略奪していた。そのため、殷王朝は奴隷となる羌や諸部族から怨み買うことになる。

 その殷を倒したのは周の文王である。文王は谓水(いすい)の畔で釣をしていた老人と語り合い、その才能を見出し、そのまま車で連れて帰った。そのひとの名は呂尚で、後世太公望と呼ばれるようになる軍師である。殷の最後の紂王は70万人の大軍を動員するが、牧野(ぼくや)の戦いに敗れる。太公望は諸部族に根回しを行い兵の派遣を要請するとともに、殷軍内の不満分子を取り込んでいったと思われる。『史記』「周本紀」には、殷の軍隊はことごとく寝返り、総崩れになったと記してある。

 紂王は妲己(だつき)を寵愛し、離宮で酒池肉林の歓楽の限りを尽くし、それが原因で殷王朝は崩壊したと言われている。しかし、崩壊の真の原因は殷王朝のシステムの寿命である、というのが現代の科学的で合理的な考え方である。『史記』「列伝」は司馬遷のひととなりを理解するのにも役に立つ。彼は夏王朝の最後の桀王も妹喜(ばつき)を愛して国を失ったと書いている。ストーリーだけでなく、名前まで似ている。このように美女が傾国の原因だと書くのは、司馬遷自身が権力者であった武帝に直言し、官刑により男性機能を失ってしまったことに関係があるのであろうか。また、『史記』「列伝」は、「伯夷列伝」、「管妟列伝」の順で書き出されているが、伯夷も管仲も妟嬰も権力者への批判者で諫言を繰り返した臣下である。司馬遷は、彼らを書くことによって、武帝に対する怨みを晴らそうとしたのではあるまいか。

 周は800年も続く長命王朝だった。しかし、紀元前771年幽王が殺され、翌年洛陽に遷都後は東周と呼ばれ、政治的な権力を失った象徴的な存在であった。その後、秦の始皇帝が紀元前221年に天下を統一するまでの550年が春秋戦国時代となる。

 周は農業重視の礼楽王朝であった。殷朝時代には、神とひとの距離は近かったが、周朝には神とは一線を画し、礼楽を重んじた。殷滅亡後、武王は2年で亡くなり、周の基盤を作るのは周公旦とされる。孔子は彼を聖人として尊敬し、儒教を中国思想の主流にしていく。なお、武王は羌族から妻を迎えていることを考えると、羌族に対する扱いは殷朝とは比べることの出来ない位置にまで上昇したのである。

 周王朝は一族や殷を滅ぼすのに貢献した臣たちに領地(封土という)を与え、これを世襲の諸侯とし、封土内の政治は自由にまかせ、その代わりに、貢納(税金)と軍隊派遣の義務を負わせていた。これを封建制度と言う。封は邦(くに)と同じであるので、封建制度とは、そもそも国を創るという意味である。諸侯は天である周王を尊重し、外敵から周を守ろうとした。つまり、当初、尊皇攘夷の思想は生きていたのだ。諸侯は周に対して義理があるので、封建制度は秩序を作る上で機能していたが、何百年も経つうちに諸侯同士は赤の他人になっていき、システムが揺らぎ始める。春秋時代までは、「春秋の五覇」と呼ばれる名君が、周を尊重しつつ勢力争いを繰り返す時代であったが、大国晋が3つに分裂する紀元前403年を境にその後は戦国時代に突入する。鉄の発見により生産力が拡大するに従い、実力で国の拡張を図る勢力が台頭してくる。そして、諸国が合従連衡の戦略によって覇権を競うことになる。

 日本の封建時代は鎌倉時代から江戸時代である。その期間、各藩は殿様の統治下で国の五穀豊穣に務めてきている。藩の運営を通じて、人々は独自の文化や経済の発展に参加しているという当事者意識に目覚めていく。これが次の時代の民主主義の基本となっていく。中国の周や春秋時代に日本人がノスタルジアを感じるのは、封建制度という類似のシステムが機能していたからである。しかし、中国は戦国時代を経て始皇帝により統一されると、その後の歴史は皇帝型統治が2000年続くことになる。

 筆者の見るところ、中国の歴史は殷の神聖王朝、周の礼楽王朝、秦以降の皇帝支配に分けられると思う。現代の中国は殷代から、モノを動かして儲かる商(商は殷の別称)人以外には何も引き継いでいない。その意味では、殷周革命は本当の革命であった。周王朝が残したものは中国人の思想のバックボーンともなる儒教である。全ての権力が皇帝に集中する皇帝支配のメカニズムは現代中国でも生き続けている。中国では、1840年のアヘン戦争あるいは辛亥革命以降が近代社会と言われているが、2000年に及ぶ皇帝支配は中国の国のありようや人々の生き方に色濃く反映しているように筆者には思えてならない。

 つまり、日本人が中国や中国人を理解する際、封建時代に生まれた儒教が日本に伝播して、武士道として昇華された経緯があることから、儒教的価値観に対しては比較的理解がしやすい。上下関係や年配者や面子を大切にするのは共通点である。しかし、政治システムは根本的に異なった歴史を持つため、相互に理解するには歴史的経緯を含めた解析が必要である。

 殷墟の見学を終えた後で、出口付近の売店でたむろしている人々に声を掛けた。
「殷墟の周辺は土ばかりかと思っていましたが」
「ほとんどの墳墓は元通り埋め戻され、周囲は林檎畑になっているよ」
「緑が多いのには驚きました。安陽はいいところですね」 
と多少大げさに筆者は言った。
「そうだよ。ところで、どこから来たの?」
と訊かれたので、経緯を説明した。数分間やり取りをしていくうちに、日本語を教えて欲しいということになり、簡単な単語を教えた。最後に、
「ここではタクシーが捕まりにくいので、大通りまで送ってやるよ」
と運転手が言った。

 車から降りる時、筆者がありがとう、と日本語で言うと、彼は覚えたての日本語で
「どういたしまして。ありがと」と応じた。

 安陽市内は人口100万人の都市であるが、彼らの心情はよき田舎に住む人々のそれであった。

 翌日、安陽から邯鄲に向かった。55キロ北にある都市だ。ホテルに待機していたタクシーに乗り込み、邯鄲行きのバスの発着センターに行くように言うと、このタクシーで行かないかと言う。
「高速道路を使えば40分で行ける。200元でどうか」
と言う。自分はゆっくりとした旅をしたいので必要ないと返事すると、
「バスでは2時間(実際は1時間30分だった)もかかる」
「道路が悪いので揺られて疲れる(これは本当だった)」
「おじさん。金持ちだろう。じゃ、150元でいいよ。高速代がかかるので、これ以上は下げられない」
殷の末裔らしく、商人ぶりを発揮するが、筆者は頑として受け付けなかった。邯鄲発北京行きの新幹線は午後8時10分に出発する。急ぐ旅ではないのだ。

 運転手は途中から説得するのを諦めた。

 バスセンターに着くと、10分後にバスが出るとチケットの窓口は言う。バス乗り場を探すために構内をうろうろしていると、係員がこちらだと、案内してくれた。中国語の発音から外国人と分かったのであろう。中国はまだ地方に行くと、遠来の客に親切にしてくれる。ミニバスに乗り込むと、売り子が次々と乗り込んでくる。新聞、雑誌、地図などを買わないかとしつこく食い下がる。俺は外国人だから雑誌は読めないよ(実は読めるが)と言っても席の近くから離れようとしない。

 バスは満員の客を乗せて、出発した。途中、省の境界を越える際に運転手が"通行料"を払った。安陽は河南省であるが、邯鄲は河北省に所属する。

 午前10時30分、邯鄲のバスセンターに到着した。

 文字通り、右も左も分からない。売店に入り、地図を買った。邯鄲は春秋戦国時代の趙の首都であり、また秦の始皇帝の生誕地でもある。さらに、『邯鄲の夢』に出てくる道士呂翁が祀られている祠がある。邯鄲に来た目的は簡単に言うとこれらを見学することだ。しかし、何が市内のどこにあるか分からなくては、旅程の立てようがない。

 売店の売り場の前で地図を広げて、趙王の遺跡と呂翁祠と博物館の位置を売り子に訊いた。前の二つはすぐに教えてもらったが、博物館は聞いたことがないと言う。

 通りでは、タクシーが長い列を作っていた。先頭の運転手に、趙王城遺跡と行き先を伝えると、運転手の顔は一瞬曇り、首を縦に振った。運転手は一度しか行ったことはない。何もないところだと再三強調する。
「チケット売り場もないのか」
「ない」
「城壁くらいはあるだろう」
「ない」
「何か遺跡はないのか」
「何もない。毛沢東時代の文化大革命の時に紅衛兵が全てを破壊してしまった」

 二千年以上も過去のことであるので、遺跡はほとんど残っていなかったのであろう。その遺物を過去の文化は全て悪と言う単純な発想で破壊してしまった。

 タクシーは20分走ると、舗装道路からでこぼこ道に入り、丘を登り始めた。行けるところまで行くと、車は停まった。運転手に帰られては、市内に戻れない。

 「少し待っててくれ。散策してくる」
と筆者が言うと、運転手は俺も行くと言って、付いてきた。好奇心豊かな男のようだ。

 遺跡は本当に何もない。自然の丘を利用して、人工的に段差を設けているのがやっと認められる程度だ。遺跡には、トウモロコシ、綿花などが植えられている。畑と化している。高台まで行くと、なぜか一軒の農家があった。市内を見下ろすことができる。敵の攻撃から守るために適した場所のようだ。地図で確かめる限りでは、東西2キロ、南北1.2キロの城壁があったようである。

 戦国時代は、「合従」(大国秦に対して6つの小国が連合して当たるという政策)と「連衡」(秦が六ヶ国の一国ずつと和睦条約を締結し、彼らの連合を阻止する政策)を策し、奔走する謀略家、つまり縦横家(しょうおうか)が活躍する時代であった。人質の交換も日常茶飯事であった。秦の昭王の孫の子楚(しそ)は趙の都の邯鄲に人質として送られていた。秦と趙の関係は悪かったため、子楚はいつ殺されてもおかしくはなかった。希望が持てない毎日を過ごしていた。諸国を往来していた商人の呂不韦(りょふい)が子楚に会うと、
「これ奇貨なり。おくべし」
と言ったと伝えられている。
商人の呂不韦は子楚に投資することに決めた。様々な手法を使って、子楚が秦に帰国し、権力の座につく戦略を考えた。ある時、子楚が呂不韦の絶世の美女の愛妾に惚れたため、呂不韦はやむなく子楚に与えた。その時、彼女は呂不韦の子供を孕んでいたと、『史記』「呂不韦伝」に書かれている。これについては異説もあるので、確定はできない。いずれにしても、生まれた子供は政と名づけられた。後の秦の始皇帝である。中国の歴史の節目には必ずと言っていいほど、美女が登場する。中国人は美女が大好きなのであろう。

 秦の昭王が亡くなった後、趙は子楚と妻子を秦に還した。呂不韦の根回しがうまくいき、子楚は秦の荘襄王となるが、わずか3年で死に、太子の政が後を継いだ。13歳だった。呂不韦は宰相に登用された。まさに、"奇貨居くべし"の本領発揮である。秦は法家商鞅(しょうおう)の改革から百年がたち、全体主義的法治国家として強国となっていた。勿論、都江堰建造により経済的にも豊かな国となっていたことは先に述べたとおりである。

 政王は24歳の時に、太后(母親)の不倫の相手を誅殺し、太后を追放している。政王はこれを機に大きな政治的影響力を張ってきた呂不韦を粛清している。本当の父親であったかも知れない呂不韦を排除したのである。政王には絶対的権力を確保するには手段を選ばない姿が認められる。この始皇帝の考え方が、中国の皇帝の歴史を決定づけるようになったと言うのは邪推であろうか。

 秦は厳格な法治国家であるため、刑罰を緩めると社会秩序が乱れると考えていた。そのため、民意におもねってはならないとし、礼楽を重んじる儒教を否定していた。現代民主主義は民意を神意と捉えていることと比較すると、正反対の考え方である。その国の歴史は、スタート時点の性格を後世まで引きずっていく。民意は聞くが、おもねらないという発想は現代中国でも生きているように思えるが、如何であろうか。

 秦は紀元前230年、趙都の邯鄲を落としている。始皇帝は趙を滅ぼした後に邯鄲に入城し、生母の敵たちを皆生き埋めにして殺した。秦の破竹の勢いは止まらず、紀元前221年、斉都の臨淄(りんし)を陥落させて、中国を始めて統一する。始皇帝が死んだ次の年に、陳勝・呉広の乱が起こり、趙が復興するが、秦の将軍章邯は邯鄲占領後に邯鄲を徹底的に破壊した。邯鄲はその後衰退し、唐代以降は単なる鎮になった。

 秦の法家思想家李斯(りし)は封建制を廃止して、郡県制の実行を求めた。全国を36の郡に分け、郡の下に県を置き、それらの長官は全て朝廷から派遣した。勿論、封建制と違い、長官の世襲は認めなかった。皇帝の意志が全国すみずみまで及ぶようなシステムを確立したのである。秦は短命に終わるが、三国時代を経て王朝を建てた漢は、秦の失敗から学び、当初、封建制と郡県制を敷いていたが、次第に封建制を廃止していった。

 中国の王朝の交代は、北方民族による政権樹立を除くと、王朝内部の実力者に乗っ取られることになる。しかし、中央集権体制である郡県制による地方や農民の搾取、それに反発し、反旗を翻す農民暴動によって王朝の基盤が揺るぐことを繰り返す。

 秦の将軍によって徹底的に破壊されて以来、この遺跡は放置されたままになったのであろう。始皇帝は生まれ故郷を滅ぼしたばかりでなく、父を自殺に追いやり、親類も滅ぼしたことになる。凄まじい。「魔の人」である。大国の天下統一という大事業は多くの犠牲の上に成り立つが、それは人間を超越した者によってしか達成されないのだ。日本は限りなく自然国家に近い。天皇みずからが春に稲を植え、秋に刈り取られる国である。この両国の差異を認識するにつけ、相互理解は絶望的に近いと感ぜざるを得ない。しかし、共存のためにはそれが空しくても努力し続けなければならない。それが我々の逃れられない宿命かも知れない。

 趙王城遺跡に来たという証拠写真を撮り終えると、運転手と車に戻った。

 この運転手は話せるひとだと思ったので、貸し切ることにした。彼によると、邯鄲は中国で最初に石炭が発掘された場所で、それを利用して鉄鋼の生産も盛んだと言う。また、太極拳の楊式を発明した、楊氏の生誕の地でもあると言う。これは意外であった。筆者は太極拳を習っているが、このことを先生に話すと、喜んでくれた。
「邯鄲には博物館はないのか」
と筆者が訊くと、あることはあるが、展示物がないので、閉鎖されたままになっているとの返事であった。

 邯鄲の目抜き通りを走っていると、馬氏歓迎の垂れ幕がところどころに掲げてあった。
「邯鄲は馬氏の故郷でもある。世界から馬姓の人々が集まってくる。邯鄲政府は彼らに投資してもらおうと歓待するのさ」
ちょうど四つ角を通る時に、警察に行く手を遮られた。しばらくすると、数台のバスが警察車を先頭に通り過ぎていった。
「このような歓待を受ければ、邯鄲に投資したくなるという訳だ」
と筆者が言うと、そうだと運転手は応える。
「邯鄲の金持ちはどんな仕事をしている人々か」
と尋ねると、
「鉄鋼会社の社長」
と応えた。
「その次は」
「公務員」
「なぜ」
と質問すると、
「腐敗しているから」
と運転手は声を小さくして言った。筆者が手を広げながら、どうして中国はそうなのか、と詰問する。
「それは古代からの中国文化だ」
と言い、仕方がないさ、と呟いた。

 そうこうするうちに、街の北のはずれにある黄梁夢呂仙祠に着いた。黄梁は粟を指す。唐代の沈既済の小説『枕中記』の故事のひとつに「邯鄲の枕」がある。

 趙の時代に、呂翁という道士(仙人)が邯鄲の旅舎で休んでいると、みすぼらしい身なりの盧生(ろしょう)という若者がやってきて、不平を並べ立てた。やがて、盧生は眠くなり、呂翁から枕を借りて寝た。

 盧生は名家の娘を娶り、進士の試験に合格して管吏となり出世していった。時の宰相に妬まれて左遷されたが、しばらくして宰相に上り、天子を補佐して賢相の誉れを高くした。しかし逆賊として捕らえられ、僻地に流された。免罪であると分かると、盧生は呼び戻され、子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送って死んだ。

 ふと目覚めると、それは夢であることが分かった。寝る前に火にかけた粟粥はまだ煮上がっていなかった。盧生はつかの間に人生の栄枯盛衰全てを見たのだった。盧生は呂翁に対して、
「先生は私の欲を払って下さった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。

 栄枯盛衰の極めてはかないことを例えて、「邯鄲の夢」、「黄梁の夢」という言葉が生まれたのだった。

 黄梁夢呂仙祠を訪れる客は少なかった。

 筆者は入口で買わされた線香に火をつけて、祠に捧げた。人間は欲を捨てることは難しい。欲の達成が人生の成功と信じられてきている。欲を捨てようと欲すると、心に葛藤が生じる。欲は競争を煽り、それが社会を活性化していくと思われている。ありのままに生きよ、自然に帰れ、古今東西何度も言われてきたが、人間は発展や進歩をやめようとしない。境内の池には蓮の花が咲いていた。盧生は故郷で幸福な人生を終えたのであろうか。
「邯鄲には他に観光スポットはないのか」
との筆者の質問に、
「丛台公園」
と運転手は応えた。そこに着くと、
「ここを見学して、あとはぶらぶらして時間を過ごして北京に戻るよ」
と述べて、タクシー代を支払った。3時間位貸し切ったことになるが、82元しかしなかった。

 お礼を言って別れた。運転手も嬉しそうであった。

 丛台公園は市の中心に位置する市民憩いの場である。高台に登り、公園内の土産物屋を覘いてみると、経営者一家が日本人客と認めると、次々と質問してきた。

 中国語を何年勉強したのか。楊貴妃は中国で死なず日本に行ったのは本当か。日中両国は、政府レベルでは仲が悪いが庶民レベルでは理解し合えるのではないか。トヨタの社長の給与はいくらか。お前の年収はいくらか。年齢は。日本語を教えてくれ。お前は学者か。東京と北京はどちらが生活しやすいか。などなど。

 庶民は気さくで、好奇心が旺盛である。

 馬氏の観光客が大勢入ってきたので、話題は終わった。

 高台から階段をゆっくり下りていると、馬氏集団が登ってくる。すれ違いになった。高齢者が多いなかで、引率者と思われる若者と眼が合った。彼は筆者のために道を譲ってくれた。
「謝謝」
と筆者はお礼を言った。

 彼は外国から来た華人なのかも知れない。物腰が柔らかかった。道を譲られることがほとんどない中国での初めての経験である。気持ちが暖かくなった。慌しい旅の清涼剤となった。(08年10月9日)