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【09-008】祖国とともに死んだ天才詩人の政治家-屈原

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)     2009年4月28日

 5月5日の端午の節句には日本でも粽(ちまき)を食べる。中国の戦国時代、祖国楚の首都が大国秦により陥落したと聞いた屈原は祖国の将来に絶望し、石を抱いて泪羅江(現在の長沙の北)に身を投じて死んだ。旧暦の5月5日のことであった。人々が屈原の無念を鎮め、また亡骸を魚に食べられないようにするために、魚の餌として笹の葉にご飯を包んで川に投げ込むようになった。これが粽の由来である。今でも、旧暦の端午の節句には、屈原の魂を鎮める祭が開かれる。

 筆者は、2月最後の週末を利用して、景勝地の武漢東湖の西にある屈原記念館を訪れることにした。往きは在来線を走る「新幹線」和階号に乗り、北京から中原を南下していった。武漢までの1205キロの距離を8時間43分かけて走る。時刻表より4分早く着いたが、平均時速は140キロまでとどかない。翌日の帰りは飛行機に乗り、1時間40分で北京空港に到着した。

 日曜日の午前8時20分、ホテルを出発する頃、外は運悪く雨が降っている。3ヶ月間ほとんど雨が振らない北京に住んでいると、雨傘の存在さえ忘れてしまう。どうにかなるだろうと楽観視し、まずはタクシーで東湖に向かうことにした。東湖は巨大である。入口を間違うと、目的地に行き着けない。運転手は屈原記念館を知らないらしい。東湖方面に向かいつつ、無線で屈原記念館の場所を確認している。メーター通り、10.2元を払おうとすると、10元でいいと運転手は言う。中国人は細かいことにはこだわらない。

 入口で屈原記念館への行き方を確認して、歩き始めた。雨脚はひどくなる。どうにかなるだろうと、傘を差さずにコートの襟を立てて指示された方に向かった。

「左に行って、三つの橋を渡ったところがそこだ」

 東湖は想像以上に大きい。雨に霞んで対岸が見えない。

 途中、屈原の像にぶつかった。後方には、行吟閣が建っている。屈原の作品「漁夫」からとって命名されたものだ。彼は東湖にやってきたことがあるのだ。行吟閣には、屈原の一生が絵とともに分かりやすく説明してある。

 

 屈原は楚の王族三家の昭、屈、景の屈姓に生まれた。出身は申し分ない。彼は幼少より聡明利発で、曲がったことが大嫌いであった。奔放であるが、政治的手腕を発揮して、妥協したり、反対派をまとめることが苦手であった。典型的な激情家の楚(今の湖南省と湖北省)のひとの性格である。激情家は革命家になりたがる。毛沢東主席も劉少奇も湖南で、死んだ林彪が湖北なら、党長老の董必武も湖北出身なのだ。このような楚人の性格が後になって、屈原と楚の運命を決めることになる。

 司馬遷の『史記』列伝から文章を拾おう。

「(屈原は)博学で記憶力にすぐれ、治乱のあとを知り、辞(ことば)をつづることに習熟していた。国内においては王と国事の計画をめぐらして、命令を出し、他国とのあいだでは、賓客に応接し、諸侯と対面して議論をかわした。懐王(かいおう)はひじょうにかれを信任していた。上官大夫はかれと同列であって、王の寵愛を争い、心中かれの有能をねたんでいた」

「屈原は王がひとのことばを聴きわける耳がなく、讒言(ざんげん)しへつらう者が明察をおおいかくし、よこしまな者が公平をそこない、正しい者が容れられぬのを心からにくんだ」

 屈原は頭が切れるが、筋を通す剛直なひとだったのだ。この頃、屈原はまだ20歳代後半である。古今東西どこにもいそうな人物であるが、周囲との関係が悪くなっていく。楚国のトップである懐王が有能であれば、屈原の能力も活かせたはずである。しかし、王はどうしようもない暗君であった。

 時代は戦国時代末期。春秋時代は周王の威光や正義が重んじられていたが、戦国時代はルールのない下克上の時代であった。スパイが横行し他国を撹乱し、強い軍事力のみが頼りであった。戦国七国のなかで、厳格な法治統制を樹立し、大規模な灌漑工事で蜀の農地開拓に成功し、実力主義で軍隊の士気を上げるなど急速に国力を増強してきた秦が警戒されるようになっていた。秦は中原から離れ田舎と蔑まされていたが、無視できないほど台頭してきたのである。秦以外の国は、他国と連携して秦に立ち向かう「合従」と秦の属国となって生き延びる「連衡」の選択を迫られることになった。秦は合従を切り崩そうと懸命になる。その役割を担わされるのが張儀(ちょうぎ)である。

 楚では親秦派と合従派とも呼ぶべき親斉派が対立していた、屈原は親斉派である。斉は山東半島を領土とする国で、歴史や文化のある文明国であると屈原は考えていた。

張儀は楚を混乱させるために、屈原に狙いを定めてくる。楚の高官や王の妃に賄賂を贈り、屈原を孤立させようとする。暗君懐王は鄭袖(ていしゅう)という女を溺愛しており、彼女の言いなりであった。親秦派の上官大夫の靳尚(きんしょう)は屈原のライバルであった。張儀は靳尚のところに代理人を派遣して、懐王に対して屈原を讒言するよう忠告した。

「屈原は王から命令され、作成した法律を自慢し、俺ができないものはないんだ、と言っております」と靳尚は王に言上した。

王は立腹し、屈原を疎んじるようになり、漢北に追放した。

当時最高の文章家であった屈原は、そこで、「天問」、「離騒」、「九歌」などの名作を残した。才能が爆発したのである。北方の『詩経』は四言句という定型化されたなかで、詩を読むため表現が限定的であった。しかし、屈原は人間の感情を強く表す新しい詩の様式を発明した。それは『楚辞』と呼ばれる。30歳代後半のことである。

「天問」は天地創造以来の歴史のなかで、不思議と思われる出来事に対して疑問を呈している。『書経』など公式記録とは異なる説を唱えているようにもみえる。楚は黄河文明と異なる長江文明を継承しているためであろうか。歴史は中原に咲いた黄河文明の視点で書かれているため、屈原はそれに一石を投じたかったのではなかろうか。

例えば、以下のような疑問が提出されている。

「呂尚(太公望)が屠殺場の店にいたとき、文王はどうしてこれを見分けて用いたのであろうか」

「武王が殷の紂王を殺したのは、何を心配したのであろうか」

「父文王の葬儀も済まないのに、位牌を車に載せて会戦したのは、何を急いだのであろうか」などなど。

 太公望は釣をしていた時、文王にその才能を見出されたと、史書には書かれている。武王が殷の紂王を攻めたのは、殷の大軍の留守を狙ったと現代の歴史家は唱えている。屈原の疑問は根拠があったと考えられている。正統歴史観に対する反骨精神が旺盛である。

このような問いかけは、公式記録に頼らず、真実は何かを追究する精神の重大さを示している。このような人物は政治家には向かない。

一方、「離騒」は、現実の楚国の政治に対する屈原の憂国の情を表したものである。2490字に及ぶ詩の最後は、「国にすぐれた人がいないので、私を本当に知る者がない。この上どうして故郷を思い慕おうか。もはや一緒に立派な政治をするに充分な人物がいないのだから、私は 彭咸(ほうかん)のいるところに行って供に住むことにしよう」で締めくくられている。彭咸は屈原が最も尊敬していた殷の時代の賢者である。「彭咸のいるところ」とはあの世のことを意味する。

屈原は、最後には泪羅江に入水自殺するが、「離騒」が辞世の句ではない。あたかもそのように説明している書物も多い。このような素晴らしい詩を書き上げたからには、即入水自殺した方が絵になるが歴史はそのように単純ではないらしい。もしかしたら、彼も単なるパフォーマンスではなく、死ぬつもりでいたのかもしれない。

 

張儀は楚にやってきて、懐王にささやいた。

「大王が斉との国交をお絶ちになれば、商(しょう)と於(お)の地六百里さしあげます。秦の王女を大王に仕えさせます」

懐王はうれしさのあまり、信じて斉と絶交してしまう。

張儀は帰国したが、約束の土地は献上されない。

「六百里はとんでもない。私の領地六里を差し上げます」

この報告を聞いた懐王は、かっとなって秦を攻めてその六百里の領地を取ろうとした。側近は諌めた。

「こうなったからには、秦と同盟して斉を攻めるべきです」

 そもそも楚一国では秦に対抗できないため、斉と同盟を結んだのである。それが破綻したのであれば、秦とともに斉を討つのが合理的である。

 聞く耳を持たぬ懐王は秦と戦って大敗し、領地を割譲して和睦することになる。秦の思う壺である。

 ところが、屈原は突然王に帰ってくるよう呼び出される。斉との国交を回復するためである。自殺するより、祖国のために頑張らなくてはならない。やはり、生まれつきのエリートなのだ。この時、屈原は41歳。現代の同世代よりは年をとっていると思われるが、もうひと仕事はできる年齢である。

屈原は斉と関係を修復して帰国すると、懐王は再び張儀に騙されていたのである。懐王は、領土を割譲する代わりに張儀の身柄を引き渡してもらうことに成功するが、首を切ることをせず、側近の靳尚や寵愛していた鄭袖に説得され、張儀を解放してしまう。靳尚も鄭袖も張儀から賄賂を受け取っていたことは言うまでもない。屈原は激怒するが手遅れである。

そして、秦王は和睦のために、秦の地で懐王と会見したいと提案してくる。屈原は、秦は信用ならないと強硬に反対するが、懐王は秦に向かい。抑留され、身柄と引き換えに、領土を要求される。懐王は三年後、秦の地で客死した。哀れな王である。屈原は楚の政治闘争に敗れ、江南に放逐される。十八年の放浪生活の間、「招魂」などの作品を書き続けた。秦の大軍が楚の都を降したという情報を聞くと、屈原は祖国の将来に絶望し、石を抱いて泪羅江に入水自殺した。享年63。彼の死後、数十年で楚は秦に滅ぼされた。

 

 さらに雨脚がひどくなった。筆者はコートの襟を立てて、小走りで、屈原記念館に入った。入口の最初の説明文は、毛沢東が屈原を愛国者として絶賛しているものであった。毛沢東は東湖の風景をこよなく愛し、しばしば武漢まで出かけてきたという。そのとき主席が滞在したところは、現在「東湖賓館」となっているそうだ。

 屈原記念館には、屈原の作品や経歴、戦国時代の青銅器などが展示してある。放浪の途上、東湖に立ち寄った屈原は何を思ったであろうか。

 司馬遷は、屈原と漁夫の会話を掲載している。

 屈原「世の中すべてが濁りきっている。そしてわたしだけが清い。衆人みな酔いしれている。そしてわたしだけが醒めている。それだから放逐された」

 漁夫「聖人といわれるひとは、物事になじまないで、世の中といっしょにうごいていくものです。世の中すべて濁りきっていれば、その流れのままに波をあげ、衆人みな酔いしれていれば、その糟(かす)をたべそのうすざけをすする、そうしたらどうですか。なぜ心の美玉をだきしめてわざわざ放逐される目におあいになる」

 屈原は信念を曲げるくらいなら、死んだ方がましと信じていたに違いない。

 粽の話は前述したが、五月五日にドラゴン・ボート・レース(ペイロン競争)が行われるのは、入水した屈原を救おうと近くの猟師たちが競って助けようと舟を出したことに始まる。日本の長崎にも伝わっている。

 屈原は誰も自分を理解してくれないと絶望し、楚辞にその気持ちを記して自殺した。彼は政治家ではなかった。清濁併せ呑むことができるような人物ではなかった。だが、偉大な詩人であったのだ。両者の能力を兼ね備えることは難しい。

 しかし、屈原は毛沢東から愛国者と絶賛され、現在の中国人からも尊敬されている。そして、粽を食べる子供たちも、ペイロン競争に参加する人々もあなたの生き様を知ると、あなたの魂が安らかになるように祈るに違いない。

 筆者は雨の降るなか、東湖に小船で乗り出した。屈原のように祖国に絶望し、入水自殺するためではない。対岸の磨山の岩に刻まれた毛沢東直筆の「離騒」を見るためである。磨山は霞のなかにあった。

筆者は屈原の魂を鎮めようと思った。

「屈原よ。我々は懐王や張儀の名前を忘れても、あなたの名前と精神を決して忘れることはない。あなたは政治闘争には負けたが、歴史に勝ったのである。あなたは史書のなかだけでなく、後世の我々の心にも刻まれているのだ。安らかに眠れ」

 なお、ここに記した屈原の年齢は、郭抹若の説に従った。

参考文献:

  1. 『史記』列伝(二)司馬遷著(岩波文庫)
  2. 『異色中国短編傑作大全』宮城谷昌光他著(講談社文庫)
  3. 『中国の歴史』(一)(二)陳舜臣著(講談社文庫)
  4. 『小説十八史略』(一)陳舜臣著(講談社文庫)