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【09-011】多民族国家をつくろうとした北魏孝文帝

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)     2009年6月8日

 中国の歴史は統合と分裂を繰り返しつつ、その版図を広げてきている。始皇帝は文字や度量衡の統一や焚書坑儒など強行的政策を行ったものの、天下を最初に統一した人物として歴史上の評価は高い。血 で血を洗う長い戦国時代を集結させたのは、法家による中央集権体制の整備であり、灌漑による農業生産物の増強による富国強兵政策であった。秦は15年で滅び、楚漢戦争が起こるが、漢 帝国の出現により中国文明は大いに栄える。人々は概ね440年の天下統一の平和な時代を享受した。

 だが、その後、黄巾の乱を契機に歴史は分裂期に突入する。三国時代、五胡十六国、南北朝と370年間の分裂期を経て、隋によって天下は再統一され、中国文明は隋、唐の世界帝国としての繁栄期を迎える。こ の長い分裂期を終わらせたのはどんな思想だったのか。どこからそれが生まれてきたのかを探ってみたい。

 黄巾の乱と三国時代の戦乱により漢民族の人口は十分の一まで減少し、その空白を埋めるように北方や西方から異民族が中原に侵入してくる。その結果、異民族による小国が現れては、消えていく不安定な時代、つ まり歴史上、五胡十六国と呼ばれる時代がやってくる。これは漢民族も含めて様々な少数民族が激しい攻防を繰り返した時代である。

 北方少数民族はカリスマ的なリーダーが現れると民族の興隆が起こるが、リーダー不在時には国力が急に衰える。漢民族は官僚機構などの組織をつくるため、指導者が有能でなくとも国力の衰退が少ない。組 織をつくる方が安定で進歩的である。少数民族のなかで漢文化の優位性を認め、民族の発展のためにそれらを導入しようという機運が生まれてくる。

 このような状況から、民族が融和して戦争のない天下をつくろうとする優れた指導者が現れる。

 チベット系の民族国である前秦の符堅(ふけん、338~385年)は、五胡十六国時代の北方をほぼ統一すると、「四海混一(しかいこんいつ)」の考えを打ち出す。一種の理想主義である。しかし、前 秦は皇帝符堅が亡くなると再び分裂してしまい、彼の理想は実現しなかった。

 その考えを、北魏の鮮卑族の孝文帝が受け継ぐことになる。彼は5歳で即位したため、冯太后(ふうたいこう)が政権を握り、三長制、均田法などの各種改革を実施し、北魏は強国となっていく。三長制は、5 家を隣、5隣を里、5里を党とし、それぞれに長(隣長、里長、党長の三長)をおき、彼らに戸籍の作成、租税の徴収を行わせる一方で、三長に免役の特権を与えた。この村落制度を前提として、均田制が実施された。均 田制は国家が国民に土地を給付し、そこから得られる収穫の一部を国家に納め、一定期間が過ぎれば土地を返却するというシステムである。農民を豪族から解放するという画期的な制度だ。こ れらの改革は漢化政策でもあったが、鮮卑族は強行実施する。

 孝文帝は22歳で即位する。孝文帝は493年、平城(今の大同)から洛陽への遷都を強行した。中華を治めるには大同は北に寄り過ぎると判断したためである。孝 文帝は住みなれた大同を捨てて洛陽に遷都するのは反対されると予期して、一計を案じ、南朝の斉(せい)への遠征であるとして大勢を率いて洛陽に至った。そこで将軍に南征を諌められるが、そ れに従う交換条件として洛陽に都を移し、落ち着いてしまった。

 孝文帝は中原洛陽で漢化政策を大胆に進めていく。彼は全ての人々は人種民族を問わず、最高の文明で統一され、それを享受すべきだという信念があった。鮮卑の姓を拓跋(たくばつ)から中国風の元(げん)に 改姓し、臣下にも中国風の姓を与えた。鮮卑語の使用や鮮卑風習の禁止などを進めた。民族の言語を禁止しようというのだから、よほどの破格の理想主義だったのであろう。鮮 卑と漢人の融和と人種的偏見の解消を図るため通婚も推奨した。儒学も振興した。

 しかし、これらの急激な漢化政策は鮮卑国粋派の反発を招き、旧都の大同で叛乱が起こった。これらの改革が北魏の早期崩壊の要因となった。鮮卑の質実剛健・尚武の気風が失われ、惰 弱な貴族化の道を突き進んだためである。孝文帝は499年、33歳の若さで崩御する。

学者の孝文帝に対する評価は高い。漢文化の優位性を認め、漢化政策を推進したからである。孝文帝は世界帝国に向けて突っ走ったのである。

 結局、鮮卑族北魏が行った三長制、均田制、民族融和政策は隋、唐へと引き継がれていき、中国は世界帝国への道を歩むことになる。

 少数民族の符堅(ふけん)と孝文帝の世界帝国の夢は、隋、唐によって実現された。隋と唐の皇帝には鮮卑族の血が流れている。皇帝も民族融和の結晶である。そ ういう意味では少数民族も中華帝国の建設に積極的な役割を果たしたのである。

時代が下ると、モンゴル族や満州族による支配の時代が再び巡ってくるが、同じような漢化の道を辿る。漢民族は異民族を漢化する能力が漢文化にあると主張するが、多民族融和による世界帝国の建設の発想は、少 数民族から生まれた。

 孫文の時代も現代中国でも、中国の多民族融合(実際には、漢化政策)は変わっていない。その後の歴史をみると、符堅の「四海混一」の理想は果たされたことになる。

 大同郊外の小高い丘の陵墓に眠る孝文帝は、おそらく満足していることであろう。歴史的使命は成就されたからである。

参考文献:

  1. 『中国五千年』上下 陳舜臣著(講談社文庫)