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【09-002】遊園地の一羽の鳥

紅 光 (東京大学大学院経済学研究科客員研究員)   2009年2月16日

 ある日、友人から電話をもらい「近所の遊園地に新しいアトラクションが増えて、とても人気らしい。今度遊びに行こう」と誘われた。
そうだ、遊びに行こう。毎日勉強ばかりしていて遊ぶことをすっかり忘れていた。気分転換しないと自分を失ってしまいそう、それならば遊ぼう!と決めた。
ようやくその日がきた。興奮と開放感でうきうきして向かった。遊園地に入ると、狂喜の叫び声、楽しそうにはしゃいでいる子供達、幸せそうな恋人達やきれいな花や木・・・久しぶりの光景だった。今日は思い切り楽しもうという気になった。
遊び回った後、一番楽しみにしていたジェットコースターに乗った。余りの怖さに一瞬、心臓が止まったような気がした。しばらくその場から立ち去ることができず、ジェットコースターを眺めながら友達と感想を言い合っていた。そのとき、一羽の鳥が落ちてきた。金網に引っかかり、動けなくなってしまったようだ。それを見て、友人は急いで助けを求めに行った。しかし,対応に出た従業員は「後で処理します」と一言だけ言い残し、そのまま仕事に戻った。私たちはどうしようもなかった。結局、二人の会話はジェットコースターからあの鳥の話に移っていた。
「あのちっちゃな鳥は、多分人間の叫び声とジェットコースターの振動に耐えられなかったのかなぁ」
「それとも,迷子になって休む場所が見つからなったのかもね」
 
「だったら,あの子の帰りを待っている仲間たちがまだ待っているのかもしれないね・・・」などと想像し,知らないうちに二人とも無言になっていた。
一羽の鳥の死を目撃してその日の楽しさと嬉しさは消えてしまった。このできごと以来、いつも人間が快適に生活している裏側で鳥達はどのように生きているのかを考えるようになった。

 つい最近、大学へ行くバスを待っていたときのことだ。空を眺めていたとき、突然、目の前で四羽のツバメが一斉に一羽のカラスに近づいては離れ、近づいては離れていた。民家の屋根にかけた巣で、母親を待つツバメの赤ちゃんがカラスに襲われたようだった。ツバメたちは必死にカラスを追い払っていた。鳥の世界ではこんなにも激しい生存競争が存在しているのか茫然とした。弱肉強食というのは世の常なのだろうか。いまはツバメより強いカラスであっても遅かれ早かれ人間の餌食になるのだろう。
人間は動物たちの生きる場所を奪いながら、欲望を満たす行為を今もなお続けている。動物だけでなく、植物の生きる場所も・・・

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草原で生まれ育った私は、故郷の自然環境の異常な変化には非常に深刻な問題が潜んでいると感じている。90年代後半から現在まで、中国の北部、とくに内モンゴル地域では黄砂の被害が拡大していて、大黄砂が中国の南部の都市、さらに日本まで何度も襲っている。来日直前に報道された「草原の砂漠化」についてのドキュメント番組は、非常に印象深いものだった。肥えた大地を探すため、何ヵ月もかけて遊牧している主人公の老女は記者に向かってこう言った。「30年前はこの辺りには限りなく緑があったんだよ。今では夏になると蒸し暑くて、雨がほとんど降らない。雨がないから草が育たない。この短い間にも私らの草原はどんどんなくなっているんだ。ここに住む人間と家畜は本当に苦しんでいるよ。もう草原とはいえないね。黄砂原と言っても過言ではないね。私らはこんな環境のなかに生きているんだよ。いつまで続くんだろうね...」
私はふとフランスの思想家シャトーブリアンの「文明の前に森林があり、文明の後に砂漠が残る」という一節を思い出した。どうして動物や植物の生き残る場所が人間によって失われつつあるのだろうか。どうして草原は砂漠になって行くのだろうか?地球はどうなって行くのか。...人間は一体、文明のために砂漠を求めているのだろうか。それとも砂漠のために文明を求めているのだろうか。矛盾の中で答えが見つからない。
1962年、初めて環境問題を提言したレイチェル・カーソンは、地球を人間の行動で荒廃しないようにと望んで,代表作『沈黙の春』の中でこのように語った。
「自然は、沈黙した。うす気味悪い。鳥たちは、どこへ行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感に脅えた。・・・春がきたが、沈黙の春だった。・・・野原、森、沼地――みな黙りこくっている。・・・
病める世界――新しい生命の誕生をつげる声も、もはや聞かれない。でも、魔法にかけられたのでも、敵に襲われたわけでもない。すべては、人間が自ら招いた禍いだったのだ。」それから四十年あまりの時が流れた現在、彼女の願いは打ち砕かれ、地球は汚れ打ち喘いでいる。自己中心主義の人間はただ自分の欲望を満たすために,大量生産、大量消費、大量廃棄型の社会経済システムを作り出し、環境との関係は不幸な歴史を辿ってきた。この経済活動の拡大は、急速に環境負荷を増大させ、地球規模で自然環境のバランスを崩しつつある。とくに、オゾン層の問題、生物種の急速に絶滅する問題、酸性雨の問題等は人間を含め動物と植物も大きな被害を受けつつある。人間の地球への破壊行為がこのまま続けられると、生き残る基盤となる地球を失った人間はつぎの世代への継承ができなくなるに違いない。
しかし、幸いなことには,多くの人々は自然を破壊する人間の愚かしさ、地球環境の危機に気が付き始め、つぎの世代が安心して住み続けることのできる地球を受け渡すために努力をしている。例えば、90年代半ばに中国では、沼に沈みかけた一羽の鶴を救うために、一人の少女が命を落とすというできごとがあった。これを基にした『鶴の物語』という曲が作られ、感動作として全国で流行った。そして多くの人々が動物の命と人間の命の尊さを意識するようになり,環境保全活動が増えてきている。日本では、植林ボランティアの参加者が年々増えつつある。
日本で生活をしているうちに,日本人の自然への慈しみの心を感じることができた。自然環境に対する優しさをもち、環境汚染を低減させるための技術開発にも力を発揮している。日本は六十年代から産業公害、自然災害などさまざまな困難にぶつかりながら,自然と闘い、技術革新を進めてきた。経験があれば教訓もある。この日本の経験は人類にとっては貴重な財産になると信ずる。しかし、地球の自然環境のバランスをこれ以上崩さないためには、日本の努力だけでは足りないのだ。多くの国では今なお産業公害が発生し続けていたり、技術不足により大量の浪費を起こしている。だからこそ、地球環境問題を解決するために人々が力を合わせて人類が生き残る努力をしなければならない。日本が環境保全のために研究開発した優れた技術とその知識や経験を多くの国々に伝授するよう期待している。他の国も日本から伝授された技術と知識を積極的に活かし、環境保全意識の向上と保全技術をともに重視すべきであろう。それによって、人類は安全な水や食物を得ることができ、動物は本来の自然に生きる場所を見つけ、豊かな森林や草原が広がり、そこでは花々が咲き乱れることになるだろう。
人間は自分の住んでいる地球を愛し、保護し、いつも愛が満ち溢れている世界に共存を願う気持ちを忘れなければ、神秘なる地球がもたらす不思議から喜びや楽しみを味わうことができるだろう。

紅光

紅光(Hong Guang):

中国内モンゴル工業大学管理学院専任講師、専攻は環境経済学
1970年03月 中国内モンゴルに生まれ、モンゴル人
1999年07月 中国内モンゴル師範大学政治経済学科経済学修士課程修了
2004年03月 日本国明海大学大学院経済学研究科経済学修士課程修了
2008年09月 中国吉林大学経済学院博士課程入学(世界経済専攻)
2008年10月 東京大学大学院経済学研究科中国政府派遣研究員