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【09-004】"車到山前必有路"~進めば必ず道は開く~

史 可 (東京理科大学総合科学技術研究科知的財産戦略専攻)   2009年7月13日

 つい最近NHKの土曜日ドラマ『遥かなる絆』を見た。このドラマはあの戦争で中国に残された残留孤児の物語だった。この番組を見て毎回私はとても感動した。そして、中国での留学生活に様々な困惑を感じていた主人公の城戸久枝さんが中国残留孤児だった父からの手紙を読んだシーンを見たとたん私は久しぶりに涙を流した。その手紙に「車到山前必有路」という中国の諺が書かれていた。私が泣いた理由もこの諺にあった。日本に来て苦しい時にもらった父の手紙にもこの諺があったからである。

「車到山前必有路」は「進めば必ず道を開く」という意味だ。来日直後、これからの生活はどうなるかと様々な不安を抱いていた頃、父からの手紙、父からのこの言葉が私を強くした。父の教えを銘記しながら、知らず知らずのうちに7年間の留学生活を送ってきた。この7年間、日本は沢山のことを教えてくれた。私も一人で生きられることを証明した。今回、自分の留学生活を語るチャンスを得てそれを文字にすることにした。

旅立つ

 2002年10月10日午前11時、成田空港。

 わずか3時間半前に両親の手を握った私は日本に降り立った。まるで夢のようだった。人波に流されて無意識に進み、あちこち飛び交っていた日本語を聞くと、「ここは日本だ、これからここで頑張るんだ」と自分に言い聞かせた。

 入国手続きを済ませ、同じ飛行機で来た6人と一緒に留学仲介会社が用意してくれた車に乗った。空港を出た瞬間、異国の風景が車窓に広がった。しかし、車内ではエンジンの音しか聞こえなかった。誰も喋ろうとしなかった。まだ3時間半前の別れの悲しみから抜け出していないのだろう、私はそう思った。

画像1 筆者が日本に来たばかりの時に住んでいた阿佐ヶ谷の寮(背後の一軒屋)

筆者が日本に来たばかりの時に住んでいた阿佐ヶ谷の寮(背後の一軒屋)

 およそ2時間半後、車は狭い道に入り、ある一戸建ての玄関前に止まった。「ここは阿佐ヶ谷の寮だ」、留学仲介会社の職員はこう告げた後、私たちの荷物を降ろし始めた。「あなたのベッドはここだ」、案内されたのは二階にある個室だった。四畳半の部屋、上下二層のベッドが二つあって、既に3人がここに住んでいた。倉庫から引き出したちょっと汚い布団が渡され、「これを使いなさい」と言い残して、職員は去っていった。荷物を置いて好奇心を持ってこの寮を回ってみた。びっくりすることに、この一軒屋にはなんと28人も住んでいた。しかも、汚い厨房、散乱したゴミ、臭うトイレ、......、日本に来る前に想像していたのと全く違っていた。騙されたと思いながら、黙々と唯一の自分の空間を整理し始めた。

 こうして私の日本での生活は不愉快の中で始まった......

自立への道程

 多くの私費留学生と同様、私も自分を養う課題に直面した。来日当時、両親から57万円を渡された。物価の高い東京でこのお金でどれぐらい過ごせるかはわからないが、とりあえず45万円を貯金し、手元に12万円を残した。学校に雑費などを支払い、実際に8万円ぐらいしか残らなかった。「一日も早く自立しよう」「仕事を見つけるまでこのお金で暮らそう」、アルバイトを見つけるまでの期限を決め自分を追い詰めた。

 三日後、頼る人がいない私は一番原始的なやり方―飛び込みバイト探しを始めた。その最初の出来事は今も忘れられない。

 中国に居た時に趣味で整体師の資格を取った。この資格があれば日本で整体関係の仕事ができるかもしれないと思った。初日、寮の近くにある整体院にまっすぐ飛び込んだ。「アルバイトをしたいのですが...」と言ってから、店に案内され、アンケートみたいな紙を渡された。「アルバイト応募者のアンケートか」と思いながら、真剣に書き始めた。しかし何か違うと思った。よく見るとこのアンケートは患者向けなのだ。「すみません、私はアルバイトをしたいのですが...」、戦々恐々として店のオーナーに声をかけた。「あなたは中国人か?」、突然中国語で話しかけてくれた。私の驚きの表情を見てオーナーが笑った。話を聞くと、オーナーは中国上海の出身で日本に来て10数年も経っていた。自分の状況を話し、どうか仕事をもらえないかとお願いした。彼は無言のまま奥の部屋に入って、数秒後沢山の中国語新聞を持って出てきた。私の前に新聞を置いて彼は言った、「君はまだ日本に来て数日間しか経っていない。ここで仕事を与えたら、君はきっと日本の生活が簡単だと思うかもしれない。実際はそんなに甘くないよ。私もどれだけ苦労して今の店を持ったか君にわかるか?この新聞の中に求人広告がいっぱいあるから、探してみなさい。いっぱい苦労をしないと、日本に来る意味がないよ。仕事を見つけるのに最低3ヶ月がかかるよ」。

 「日本での生活は甘くない」「苦労しないと日本に来る意味がない」、ちゃんと覚悟して日本に来たけど、そのオーナーの話を聞いてやはりショックを受けた。夢と現実、人間はついつい夢ばかりを見てしまうが、現実は甘やかしてくれない。日本の最初の教えだった。

 仕事を探し続け、チャンスを増やすために活動範囲を阿佐ヶ谷から新宿までの各駅に広げた。

 土日の朝、ルームメートがまだ寝ていた時、履歴書、日本語メモ帳、100円ショップで買ったパン、水道水を入れたペットボトル、最小限に出費を抑え、出かける装備一式が入ったリュックを持ってアルバイト探しの旅に出た。電車賃を節約するために、交通手段として自分の足を使った。地図がないので、中央線に沿って歩いた。

 店に飛び込むのは本当に勇気が必要だった。コンビニみたいな店は外から見えるので入るタイミングがわかるが、中の様子が見えない店に入る時一番悩んだ。外で躊躇していくうちに時間だけが経った。「このままでは面接のチャンスさえ得られない、断ればまた他の店を探せばいい」と自分を勇気づけ、考える時間をなくして次々と店に入った。数え切れないほど断れたが、高円寺駅前にある天丼屋で初めての面接チャンスを得た。当時の店長は優しく対応してくれた。結果は残念だったが、初めて「頑張ってね」」という励ましの言葉をもらった。

 日本に来て1ヵ月半が経った。手元に残るお金が見る見るうちに減っていった。日本に来た時に持ってきた食料も底をついた。20歳のお腹はすぐ鳴るが、水を飲んでごまかすしかできなかった。出費を減らすために、毎日放課後専業主婦みたいに阿佐ヶ谷の商店街に行き安くなった食材を探しまくった。懸命に節約した結果、一週間の出費を2000円前後に抑えられた。徐々に限界を感じ、何度も貯金を引き出そうとしたが、「一回使うと止まらなくなる」とそのたびに自分の足を止めた。

 こんな苦しい時に人生初めて父からの手紙をもらった。父の愛情が溢れていたその手紙を読んでずっと我慢していた涙が止まらなくなった。父の手紙に書かれた「車到山前必有路」の言葉を信じ、自力でアルバイトを探し続けた。やがて父の言うとおりに道が開いてくれた。

 何かをやり遂げようと思ったら、自分を窮地に追い込み、負け続けても神様が応援したくなるような努力を続ければきっと報われる。日本の二つ目の教えだった。

仕事の甘苦

 よく日本に来たばかりの後輩に「経済的に余裕があってもアルバイトをしなさい」とアドバイスをする。もちろん、生活費を稼ぐのはその一つの目的だが、もっと重要な理由がある。それはアルバイトを通じて日本社会や日本人を知ることだ。アルバイトを通じて私は日本の様々な社会階層の人と出会い、彼達の考え方を知ることができた。そして、仕事の習慣を身に付け、職場で出会った日本人の中で大切な友達もできた。だから、アルバイトが留学生活に欠かせない。

 初めてのアルバイトは時給850円、東京大学の駒場キャンパスで午前中3時間、掃除をする仕事だった。

 ここにいる従業員の年齢はほとんど私と半世紀離れていた。彼達の指導の下で仕事を始めた。仕事の内容は黒板消し、トイレ掃除、ごみ集め等、簡単に聞こえるが実に大変な仕事だった。

 1日1時間以内に最低50枚の黒板を消さなければならなかった。大量なチョーク粉末を吸い込んで鼻炎になった。

 年齢がわからないように帽子を被り、マスクを付けて女子トイレに入って掃除をやった。恥ずかしくて女子学生が入る度に外に逃げた。男子トイレの半端ではない汚さも経験した。その時からなぜ小便器の上に「もっと一歩前へ」という標示があるかの理由がわかった。

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制服姿で東京大学駒場キャンパスの並木道にて

 山のようなごみを時間内に処理するため、20キロ以上もあるごみをひたすら運んだ。知らないうちに腕の筋肉をつけた。

 1号館44教室の床清掃、机と椅子の移動を命じられた。まるまる一週間、前へ、後ろへ、元の位置に戻す、ただ一人で歌を歌いながら作業を繰り返した。その後の腰痛は今も私を苦しめている。

 その中、一番嬉しかったのは初めて自分の労働で給料をもらった。694円の弁当、シーフードのインスタントラーメン、久しぶりのコーラ、自分への最高の褒美だった。

 ここで初めて社会の厳しさを知ることができた。職場では一番若かった私は、当初「こいつは仕事ができるか」と周りの人に不信の目で見られた。そして、中国人を嫌いな人もいて私を見る目が厳しくよく私の前で中国人の悪口を言っていた。そんな中私はただ一生懸命仕事をするしかなかった。自分の力で二つのことを証明したかった。一つ目は、私は若いけど、仕事ができること、二つ目は、中国人の皆がニュースに報道されたような悪い人ばかりではないこと。私の行動や仕事ぶりを見て評価してくれたのか、次第に皆は笑顔を見せてくれた。あの中国人の悪口を言う人も私の前で口を閉じた。

 自分の強さを証明したいなら、自分の行動で証明するしかない。そして、外国にいると、もはや出身国の代表であり、自分の国や同胞に迷惑をかけないように個人としてしっかり行動しなければならない。日本の三つ目の教えだった。

画像3 2006年の会社忘年会にて

2006年の会社忘年会にて

 この他、ハンバーガーの製造、清掃専門会社や飛び込み営業など様々な仕事を経験した。日本語が上達するにつれ、日本の会社を知りたいと強く思い、現在のアルバイト先――ある知財専門会社に入った。

 2006年4月26日に会社での修行が始まった。原稿のコピー、ファックスの受領確認、書類の整理、......、とにかく事務的な仕事を毎日繰り返した。単純な作業にうんざりした時もあった。しかし、三年間毎日変わらず続けてきた理由は社員の方々から感謝の言葉とその笑顔だった。それだけではなく、皆が家族のように私を支え、苦しい時に私を励まし、彼等と一緒に過ごしてきた日々は幸せいっぱいだった。

 単純な仕事でもきっと誰かに役に立つ。仕事に感謝し、どんな仕事でも手を抜かず、心を込めてやるのは一番肝心なことだ。日本の四つ目の教えだった。

苦海作舟

 2001年9月15日、中国の遼寧大学外国語学院に進学した。ここで日本との縁が始まった。半年後、日本から帰ってきた先輩の流暢な日本語に憧れ、日本への留学を決意した。

 日本に来てから生活や仕事に追われても初心を一度も忘れずに勉強を続けてきた。中国語の「苦海作舟」は「厳しい環境での勉強」という意味だ。日本での勉強は正にこの四文字の表れだ。

 日本語が分からなくて恥ずかしい思いをいっぱいした。だから、日本語学校に通い始めたその日から一日も早く日本語を上達しようと思った。しかし、現実には勉強時間の確保に問題があった。当時、授業は午後にあったが、午前中と放課後の時間はそれぞれアルバイトに使った。このような状況の中で私は厳しい時間管理を試みた。仕事や学校など自分が支配できない時間を予め一週間のスケジュール表に書き込み、残りの時間をどれだけ勉強に使えるかを計算し、更に15分単位で細分化した。毎日小さな目標をこれらの15分間に入れ、単語やテキストを少しでも覚えようと必死だった。そして、毎日3時間しか眠れない日々を続けていた。朝、7時からの仕事を始める前に40分早く着き、制服に着替えて一番広い教室の教壇に立って日本語を叫んだ。夜、寮に戻って疲れた体で厨房のゴキブリと戦いながら一日の復習を怠けなかった。九ヶ月間の努力が報われ、私は飛び級を二回して上級クラスに入った。

 日本の大学への受験勉強も大変だった。大学に入るために私費留学生の試験でよい成績を取るのは絶対の条件だった。当時、高校を卒業してから2年、再び数学や総合科目の記憶を呼び返すのは時間がかかった。しかし、この難関を乗り越えなければならなかった。あまり復習の時間がなかったので、とにかく高速でテキストを繰り返し読んだ。電車を待つ時間、アルバイトを始める前の時間を利用し、暗記や演算、頭は一刻も休まなかった。迎えた試験の結果、満足した成績と奨学金獲得の通知を手に入れた。

 2004年4月1日、無事に新入生として國學院大學経済学部に進学した。再び大学に入ったが、3年前と違って気を緩めなかった。仕事と勉強に追われた日々は依然変わらなかった。

 同年の10月20日、私にとって人生の大きな出来事があった。一年間付き合っていた彼女と結婚して入籍した。よく早いと言われたが、私は決してそう思わなかった。結婚したのは私の将来を信じてくれた彼女への最高のプレゼントだと思った。そして、夫としての責任を果たすべきと思って私は土日も仕事を始めた。こうして、平日は学校と朝晩のアルバイト、土日も丸一日の仕事、休みが完全になくなった。

 その中、大学の勉強はもちろん、自分に何か役に立つ勉強をしたいと考え、簿記資格の勉強を始めた。授業やアルバイトの隙間を縫って池袋の予備校に通い、一年生の時に簿記三級を取得した。そして、二年生の時に二級に挑戦し無事に合格した。大学四年間、その時のやりたいことを見つけて自己啓発に時間とお金を惜しまなかった。

画像4 知財学会での発表

知財学会での発表

 大学三年生の時に前述の知財専門会社に入り、私の人生が変わった。毎日知財プロ達と同じ空気を吸って、次第に知的財産ビジネスに興味を持ち始めた。そこで、社長のアドバイスを受け、私は大学を卒業後、東京理科大学専門職大学院知的財産戦略専攻に進学することを決めた。

 早速大学説明会に参加し、そこで私の現在の指導教官に出会った。初めて会ったにもかかわらず先生が沢山の知財専門書をくれた。先生のアドバイスを受け入試する前にこれらの本を読んで一歩先に知財の世界に入った。

 2008年4月、志望通りに東京理科大学知財専門職大学院に入った。ここで知的財産法律を中心に、技術や経営など実務と関連する知財のことを学び始めた。当初法律の基礎がなくて相当大変だった。先生の授業にも追いつかず、録音して繰り返し聞いていた。それでも足りないと思い、妻の理解を得て予備校の弁理士講座にも通っていた。一年が経ってようやく知的財産に関連する法律を理解するようになった。やがて二年生になって本格的な研究活動を始めた。その第一歩として、6月13日に開催された日本知財学会での発表を目標にした。「中国におけるブランド意識の変化」をテーマにし指導教官の下で地道に情報を収集し、事件の真相解明などに取り組んだ。そして、その成果を初めて学会の場で発表した。

新たな旅の始まり

 もうすぐ20年間の学生生活に終止符を打つ。社会人として新たな一歩を踏み出す。これからは自分の専門を生かし、日中間の知的財産分野において活躍していきたいと考えている。

 その場を提供してくれたのはある日系の大手衛生用品製造メーカーだ。7ヶ月間の就職活動、先生や家族を初め、多くの人の支えがあって無事にここに就職することができた。

 私の人生の新たな旅がいよいよ始まる。そこで、振り返ってみると、日本は沢山のことを私に教えてくれた。日本への感謝の気持ちを忘れることができない。そして、苦しい時に私を支えてくれた家族と父のその言葉にも感謝する。

 日本での留学経験は私の一生の財産だ。

史 可(SHI KE):

中国遼寧省生まれ。
2001年9月~2002年9月 中国遼寧大学外国語学院
2002年10月~2004年3月 フジ・ジャパン・インターナショナルスクール
2004年4月~2008年3月 國學院大學経済学部経済学科
2008年4月現在 東京理科大学総合科学技術研究科知的財産戦略専攻