【10-01】信用の確立と「和諧社会」作り

柯 隆(富士通総研経済研究所 主席研究員)     2010年 1月26日

 日本では、09年の世相を現す漢字として「新」が選ばれた。もし09年の中国の世相を現す漢字を選ぶとすれば、「膨」(ぼう)を選びたい。不動産を中心とする資産マーケットは大きく膨らんでいる。自動車販売台数は1350万台に上り、世界一を記録した。世界経済が金融危機に見舞われるなか、中国経済だけが先駆けて景気回復し、世界経済を救う勢いをみせている。

 中国経済の膨張は今年も続く。ドル換算の国内総生産は今年に日本を抜いて世界二位になるとみられている。これまでの100年間、中国人がここまで意気揚々になれたのは初めてかもしれない。インターネットの掲示板の書き込みをみると、若者を中心に気持ちが膨らむあまり、切れやすくなっている。中国にとって経済成長を維持するとともに、社会の安定をいかに維持するかについて研究を急ぐ必要がある。

1. 市場経済の根幹たる信用秩序の確立

 市場経済にとって信用はその礎である。換言すれば、市場経済は信用の経済である。信用の成り立たない社会で市場経済が順調に発展することはできない。

 改革前と改革後とを比較すると、中国社会は経済発展と社会変貌のほかに、人間関係も大きく変わってしまった。人間不信が増幅している。ここで一つの事例を挙げる。人民元紙幣の最高額は100元(約1400円)のものだが、それを使って買い物する際、店員は必ず客の前で透かしなどをチェックする。日本に在住する筆者は「私を疑っているのか」といつも不快感を覚えるが、中国人のほとんどはこの「措置」に慣れているようだ。ちなみに、改革前はこのようなことはなかった。

 そもそも交換機能を持つ紙幣は信用の固まりである。それに対する不信が増幅するというのは中国社会のヤマイが相当レベル進行しているといえる。では、なぜ信用が大きく崩れてしまったのだろうか。

 簡単にいえば、人々にとって信ずるモノはなくなったからであろう。物質文明を追求する市場経済では精神的な支えが不可欠である。本来ならば、4000年の歴史を誇る中国にとって論語など孔子や孟子といった聖人の教えが心の支えだった。それを喪失したのは社会主義中国が建国してからのことである。何よりも1966年から76年までの文化大革命は中国の古典文化を完全に否定し、学校教育のなかでは古典文化が封建社会の迷信として完全に排除されてしまった。その代わりに、マルクス・レーニン主義や毛沢東思想が植えつけられた。

 哲学や思想論の観点からみると、マルクス・レーニンや毛沢東のオリジナルな教えや主張はまったく無意味なものではない。ただし、文化大革命以降の学校教育のなかで教えられてきた主義や思想はまったくのイデオロギー的な乾燥無味な説教である。人々の行動規範に関する普遍的なルールや心の拠り所といった豊かな教えではなかった。

 社会主義の思想がいくら強制的に教育のなかに盛り込まれても根付くことはない。実際の社会主義計画経済の経済運営は失敗し、国民生活がますます苦しくなる一方だった。それを背景に、イデオロギー的な主義・思想は「改革・開放」とともに、自壊したのである。

 問題は、イデオロギー的な説教が忘れ去られるなかで、新たな心の拠り所も見つからないことにある。これまでの30年間、人々は物質的な欲求を満たすために、一生懸命頑張ってきた。しかし、一人当たりGDPが3000ドルに近づいている現在、心のなかである種の空虚をインプリシット(暗黙)に覚えるようになった。これこそ中国社会が抱えるもっとも深刻なヤマイである。

2. 列車に乗り遅れる恐怖のようなもの

 30年前に比べ、中国社会は財布が豊かになっているが、ココロが必ずしも豊かになっていない。逆にいうと、生活には益々ゆとりがなくなっている。30人の文学者と文芸評論家の回顧録を集めた文集「70年代」は「改革・開放」政策前の70年の中国社会について「あの時代は貧しくて何もなかったが、時間だけはあった」と振り返った。それに対して、今の中国では、時間さえなくなりつつある。恐らくはいかなる社会のいかなる人間でも時間さえなくなったときはほんとうの貧乏に陥ったに違いない。

 筆者は毎月のように中国に出張するが、なぜ中国社会と中国人がこんなに怒りっぽいかは不思議でしかたがない。たとえば、相手のミスを絶対に許さない。最近、北京のあるレストランで遭遇した出来事があった。羊のしゃぶしゃぶの小さな店だが、そのとき、肉を2皿注文すれば、1皿がプレゼントされるセールス・プロモーションがあった。その効果があって、ランチライムに店がごった返していた。迎え側に座っていたのは感じのいい40代ぐらいの夫婦だった。3皿の肉と野菜などを注文しおいしく食べた。最後に、会計をしたら、店のウェートレスから3皿の肉と野菜の合計金額が請求された(本来ならセールス・プロモーションで肉1皿がただのはずだが)。

 すると、感じのいい夫婦は一瞬にして悪魔に変わってしまった。大声でウェートレスを怒鳴り、二人とも顔が真赤になり、せっかくおいしく食べたしゃぶしゃぶもこれで消化不良になるのではないかと正直に心配していた。これは明らかにウェートレスのミスによるものだが、この夫婦は「3皿目はただだよね」と一言いえば、ことが円満に解決できたはずだが、夫婦は権利が侵害された事実を店のすべての客に知らしめるかのように、爆発してしまった。

 なぜ中国社会はこんなに怒りっぽくなっているのだろうか。

 筆者は、その最大の原因はゆとりがなくなったからと考えている。たとえていえば、中国社会と中国人は、定員500人の列車に5000人が殺到したような状況下に置かれている。すでに列車に乗っている者も自分が追い出されるのではないかと心配し、乗り遅れている者はいかなる手段を使ってもこの列車に乗り込もうとする。

3.(日本+中国)÷2=「和諧」社会

 はじめて日本に来る中国人に日本の印象について尋ねると、清潔、静か、秩序、「服務周到」(サービスがいい)などがあげられる。しかし、20年も日本に滞在してきた筆者にとり、日本はバブル崩壊以降、10年を失ったのではなく、活力を失ったようにみえる。中国人は列車に乗り遅れるのを心配しているのに対して、日本人はほとんど心配していないようだ。その結果、日本社会は静かになっているかもしれない。

 週末の朝、近所の公園を散歩して帰ってきた妻(筆者と同様に中国人)は犬を散歩させる日本人の若者と週末の静かな朝が今の日本社会を象徴していると感想をもらしてくれた。日本人は心のなかで潜在的に思っている不安が少なくないが、それによって生活ができなくなるほど困っていないため、不安が表面化しない。すなわち、将来の生活について不安はあるものの、何とかなると思っているようだ。

 最近の世論調査で、8割の新成人は日本の将来が暗いと考えているのに対して、6割は自分の将来について何とかなると考えているそうである。

 本来ならば、日本と中国の間に時差は1時間しかなく、ほとんど感じないはずだが、実際は一時間の時差以上に、社会雰囲気の違いを感じさせられる。なぜなら日本と中国はいろいろな意味で正反対の社会になっているからだ。

 不安で活力の溢れる中国で1週間も出張して、東京に戻り山手線に乗ると、その奇妙な静けさはなんともいえないほど耐え難い。そして、中国人の怒りっぽさは許せないが、日本人の何事にも無関心な態度もどうかと思う。さらに、中国人はよほどのことでなければ謝ることはしないのに対して、日本人は何でもすぐに謝れる。たとえば、強風で電車の線路に木の枝が落ちてそれによって電車に遅れが出ている。すると、車掌は「たいへんご迷惑をかけして申しわけございません」と誤る。それは明らかに鉄道会社の責任ではないのに、車掌が謝るのは何となく奇妙な感じがする。実は日中の国民性と社会性が正反対であるこのような事例は枚挙に及ばない。

 このようにみれば、我々(中国人と日本人)にとってもっとも幸せに暮らせる「和諧」社会は日本と中国を足して2で割ったものであるかもしれない。


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