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【10-03】限度を知ることと持続可能な経済成長

柯 隆(富士通総研経済研究所 主席研究員)     2010年 3月18日

 中国を離れて21年になった筆者がこの間、一度も国で旧正月を過ごしたことはない。先日、偶然にも上海出張は「元宵節」(旧正月から数えて15日目、小正月とも呼ばれている)にあたり、夜になって爆竹と花火の嵐に遭遇し、まるで湾岸戦争を彷彿とさせる。爆竹といえば、中国で過ごした少年時代のことを思い出すが、当時、放す爆竹や花火は量よりも、少ししかなかった爆竹と花火を大事に放し、それを最大限に楽しんだ。経済学でいえば、限界効用が逓減する法則からこうした楽しみは量よりも質が重要である。

 中国はこれまでの30年間奇跡ともいわれる経済発展を成し遂げた。その半面、自制心を失うことも少なくない。胡錦濤国家主席が提唱する「和諧社会」(調和のとれた社会)の構築と科学的発展観はまさに自制心を保ちつつ、ありとあらゆることについて限度を超えないようにしなければならない。

何でも大きい中国にとっての限度

 はじめて中国を訪れる外国人は天安門広場に立つと、きっとその大きさに圧倒される。天安門の前を東西に走る長安街も幅が飛行機の滑走路よりも遥かに広い。08年の北京オリンピックの開幕式は世界で喝采を博したが、それはひとえにスケールの大きさによるものと思われる。

 だいぶ前のことだが、ある省の銀行協会で講演したあと、昼食をご馳走になった。魚の頭で作ったスープが出てきたとき、言葉を失った。何とスープを入れるどんぶりの直径を計ってみたら、優に1メートル20センチを超えた非常識なものだった。

 そこで中国人が何事でも大きなのが好きだということに気がついた。しかし、限度を知ることも忘れてはならない。残念ながら、中国における日常生活のなかで限度を忘れてしまうことは多々ある。現に、財力があれば、気持ちが高ぶるのは人間の常だが、やはり限度を忘れてはならない。昔から出張のついでに時間があれば、お寺などを立ち寄ることにしているが、ここ10年来、お寺に入ってもたいていはがっかりして出てくる。なぜならば、自分が理解しているお寺というのは静寂な所在で気持ちを落ち着かせ、日ごろの喧騒から少しでも自分を解放したい。しかし、最近のお寺は財力の強化を反映して、線香のサイズも1メートルに達するほどジャンボなものになってきた。お寺は俗世と同じように、否、それ以上に喧騒している。これも明らかに限度を超えている。

 今年の旧正月に話題になったことがもう一つあった。蘇州のあるデパートで8880元(約124000円)のりんごが二つ売られた。ビデオでみる限り、普通のりんごより倍ぐらいの大きさだが、その上に金箔のようなもので観音菩薩が描かれていた。しかし、たとえ金箔で描いたとしても、たかがりんごであり、その売値は明らかに限度を超えている。その後の報道によれば、二つのりんごのうち、一つが売れたといわれている。誰がこういうりんごを買うのかは明らかにされていないが、政府幹部へのプレゼントではないかと推察されている。

限度を超えない自制心の重要性

 現在の中国では、このような限度を超えた話は枚挙にいとまがない。繰り返しになるが、胡錦濤国家主席は国民に対して「科学的発展観」の確立を呼びかけている。しかし、経済発展が科学的かどうかを判断する基準は必ずしも明確ではない。ここで指摘しておきたいのは科学的に発展するにはまず限度を超えないことに留意すべきということである。

 中国に出張する際、ホテルのフィットネスクラブを利用すると、ほとんど毎回サウナのなかで日本の大相撲と同じような体型の小学生を見かける。きっとおいしいものを食べ過ぎたからだろう。ある調査によれば、若年層における成人病の発病が増えているといわれている。表面的に、経済が発展し、社会が繁栄しているようにみえるが、自制心が失われているがために、中国社会に種々の構造問題が潜んでいる。

 先般開かれた全人代(国会)で温家宝首相は所得格差の縮小を呼びかけた。温家宝首相の問題意識は間違っていない。唐の詩人杜甫の詩に、「朱門酒肉臭、路有凍死骨」(朱門には酒肉臭き、路には凍死した骨あり)とがある。現在の中国は唐の末期とは違うが、豪華なレストランの賑わいと生活難に陥る貧困層の日常とはやはり不釣合いと思われる。

 ここで改めて何のために経済発展を促すのかが問われている。人間は欲望のある動物だが、その欲望に限度があるかどうかは重要なポイントである。13億人の中国人はみんなアメリカ人と同じような広い家に住み、車を保有すれば、地球の面積はすぐさま足りなくなる。たとえば、現在、日本は7000万台の車を保有している。将来的に中国人は現在の日本と同じぐらい豊かな国になれば、車の保有率も同じレベルに達するならば、7億台の車を保有することになる。このことを考えるだけでぞっとする。無論、諸外国は中国に豊かにならないように求めることができない。

 なぜ中国人が自制心を失ったのかについて中国国内の専門家と議論すると、今までの生活はあまりにも貧しかったので、今は贅沢している。もう少し時間が立てば、状況が改善するだろうといわれる。ほんとうに時間が立てば、人々の欲望が減退するようになるのだろうか。ある調査によると、中国のもっとも金持ちの富豪800人の資産合計はGDPの16%に達したといわれている。しかし、彼らの欲望は少しも減退していない。これまでの成長をあと30年も続けば、中国はいったいどのような社会になっているのだろうか。それを考えるだけで正直に怖くなってくる。

持続可能な経済成長とバランスの取れた成長

 マヤ文化によれば、人類は2012年に終わりを迎えるといわれている。その予言にどのような根拠があるかは明らかではないが、少なくとも、人類はこれまでの成長を続けていけば、出口のない袋小路に入るのはほぼ間違いのないことである。

 中国語の熟語に「一網打尽」という言葉がある。生態が破壊される背景に、まさに人類の一網打尽の欲望があるからである。近代経済学は人々に収益の最大化の方法を教え、効率化を追求するための学問になっている。しかし、資源の希少性から人間の欲望が膨らむままに、収益を最大化しようとすれば、人類はいずれ終わりを迎えることになる。

 少し前まで持続可能な成長モデルに関する研究が盛んだったが、金融危機をきっかけに主要国では、再び拡張路線に基づく成長モデルが検討されている。1972年ローマクラブは「成長の限界」(The limit to growth)という報告書を発表し、世界に警鐘を鳴らした。残念ながら、世界では彼らの警鐘に耳を傾ける者はほとんどいなかった。昨年12月開かれたCOP15も結果的に温室効果ガスの排出権取引を巡る商談会に終わった。世界主要国の首脳は自らの権力基盤を固めるために、成長を追及し、成長の限界をまったく無視している。

これらのことを考えながら、ふっと思い出したのは、来年の春節を迎える際、中国人はいったいどれほどの爆竹を鳴らし花火を放すのだろうか。人々の楽しみと幸福度は平均効用によって決まるものではなく、限界効用によって決まるものである。限界効用が低減的であることを忘れてはならない。