【13-02】経済成長の陰で―大気汚染問題の深刻化

柯 隆(富士通総研経済研究所 主席研究員)     2013年 3月 6日

 故郷南京の東側に紫金山という山があり、その南斜面に革命の父・孫文(孫中山)のお墓「中山陵」がある。幼いころは、家のベランダから紫金山をはっきりと見える日が多かったが、今は南京に帰郷しても、紫金山がはっきりと見えることはほとんどない。原因は大気汚染物質によるスモッグにある。

 上海には、中国一の高さを誇る上海環球金融中心のビルがあるが、その上層階に高級ホテル・パークハイアットが入っている。1泊50,000円以上もするこのホテルに一度だけ泊まったことがあるが、後悔した。なぜなら、リバービューの部屋から見えるはずの黄浦江と旧市街のバンド(外灘)がまったく見えなかったからである。まるで雲の上で生活する孫悟空のような感じだった。

 中国の大気汚染は今に始まったことではない。大気汚染は少しずつ深刻化する。だから、手遅れになりがちである。

1.「犯人」が見えない大気汚染

 水質汚染やゴミの問題に比べて、大気汚染は格段に厄介な問題であるかもしれない。なぜなら、汚染物質は誰が排出したものか、「犯人」を特定できない場合が多い。極論すれば、国民の大半が大気汚染に加担していると言えるかもしれない。

 例えば、車に乗っている人や、家で石炭を燃やして暖を取っている人などは、全員に責任がある。国民の大半に責任があるということは、責任を追及することができないことを意味する。

 昔から、中国人は環境保全に対する意識が希薄である、と言われてきた。しかし、今は環境に敏感になっている。少なくとも、生活に余裕のある都市部の住民は、環境に対してより敏感になっている。というのは、彼らのほとんどは、衣食住に不自由しなくなったからである。衣食住の次に求めるものは、クリーンな生活空間の実現である。

 新興国では、経済的にキャッチアップする段階で、大気汚染や水質汚染などの環境問題が深刻化しがちである。イギリスや日本も同じようなことを経験した。そういう意味では、今の中国で環境汚染が深刻化していることも不思議な話ではない、と言えるかもしれない。

 ただし、今の中国は13億4000万人を有する大国であり、環境問題をこのまま放置すれば、生態環境は再生できない恐れがある。一つ明らかにしておきたいことは、中国で大気汚染が深刻化しているのは、技術力が低いためではなく、環境に対する配慮が、政府、企業、個人のいずれにおいても欠如しているためである。

 政府内では、経済成長を続ける中で、環境が少々悪化するのはやむを得ないとの考え方が根強かった。しかし、今の環境汚染はすでに、やむを得ないという限度を超えてしまっている。2013年1月下旬から2月上旬にかけて大気汚染が深刻化し、ほぼすべての大都市が「霧の都」と化した。直接的な原因は、冬の偏西風が吹かず、汚染物質が都市部に滞留したことにある、と言われている。

2.問われる経済発展の意味

 かつて鄧小平は、国民から改革に対する支持を得るため、「発展こそ至上命題である」(中国語では「発展才是硬道理」)と唱えた。中国共産党にとって経済発展が自らの正統性を示す最も重要な根拠になっているようだ。事実、過去30余年、経済成長率は年平均10%近くに達している。しかし、この間の経済成長は、国民に何をもたらしたのだろうか。

 生態環境への影響は利得より損失の方が遥かに大きかった。政府は、都合の悪い負の情報をほとんど公表してこなかった。大気汚染の原因となるPM2.5(直径2.5マイクロメートル以下の粒子状物質。マイクロメートルは0.001ミリメートル)の測定値は、中国政府が公表する値より、北京にある米国大使館が測った値が倍以上高いことが少なくない。どちらの値の信憑性が高いかについては、明らかに米国大使館の値が市民の体感に近いと思う。

 問題の解決は、まず問題を直視することから始まるが、政府が環境悪化から目を背けてきた結果、問題がますます深刻化している。たとえば、衛生部(厚労省に相当)は未だに喘息患者の統計を公表していない。

 温家宝首相や政府のスポークスマンは記者会見などで、「我が国は環境対策をとても重視し、そのために毎年多額の投資を行っている」とアピールする。しかし、環境を改善するために、まず必要なのは投資ではなく、環境被害の統計と情報を公表することである。環境保護部と各地の環境保護局がPM2.5の正確な値を公表することは、大気汚染対策の第一歩である。

 一般的に、モータリゼーション(車社会化)は経済発展のシンボルと見なされている。中国の自動車保有は2000年以降急増し、2012年末現在、保有台数は1億2000万台を超えている。推計によれば、2020年には保有台数が2億台になると言われている。経済発展と家計の購買力から推計すれば、自動車保有台数はもっと増えると予想されるが、環境負荷を考えれば、モータリゼーションを抑えるべきと思われる。

3.政府の責任、企業の責任、国民の責任

 一般的に、環境問題は外部不経済の問題であり、汚染物質を排出する企業や個人はその責任を取らず、地球環境に負荷を与え、環境を悪化させてしまう恐れがある。中国における生態環境の悪化は、まさに社会の無責任体制の結果であり、経済成長の代償である。

 汚染物質を排出する企業に対して、政府は見て見ぬ振りをする。なぜなら、環境を破壊する悪質な企業でも、それを取り締まれば、当該地域の経済成長率は低下し、失業問題も浮上してくる。環境破壊の影響を直接受ける個人も、政府を味方につけた企業相手では、なす術もない。何よりも、司法の独立が確立していない中国では、公正な裁判が保障されず、汚染物質を排出する企業に対する監視監督が機能しない場合が多い。

 とはいえ、中国人の環境保全意識がまったく改善されていないわけではない。広東省仏山市で地元政府がゴミ焼却炉を設置しようとしたところ、周辺住民の反対により頓挫してしまった。無論、こうしたケースは中国では稀である。大規模な水質汚染を起こした場合でも、当事者の責任は問われても、監督者の責任が追及されることはほとんどない。何より、被害を受けた住民が賠償を受けることはほとんどない。

 中国のような新興国において環境保全対策が遅れているのは、技術と設備が不足しているから、と日本では考えられているようだが、実は、新興国の環境を改善するために必要なことは、まず、環境保全に向けた国民の意識改革である。司法の独立を確立し、環境保全関連の法整備を急ぐ必要もある。さらには、監督者の責任も明らかにしなければならない。

 これらの諸条件が揃わなければ、技術と設備があっても、それは単なる飾りに終わってしまいかねない。なぜなら、環境保全のため技術と設備を活かすには、コストがかかるからである。現状では、企業にとって汚染物質をそのまま排出したほうが安上がりである。

 もし、環境を破壊した企業に対して、住民などへの賠償が徹底されることになれば、企業はコストをかけてでも、事前に環境保全に努めるようになるだろう。同時に、住民が行政の監督責任を追及できるようになれば、行政も監督責任を果たすようになると期待される。このように考えれば、生態環境の保全は技術の問題というよりも、政治と法制度の問題であると見るべきである。

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