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【13-12】故郷の異邦人

2013年12月 5日

柯 隆

柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員

プロフィール詳細

 中国の詩人北島(ベイダオ)は1989年の天安門事件に参加し、それ以降、海外での文筆活動のなかでも政府を批判したことで政府によって帰国を拒否されている。現在、詩人は香港で教鞭を取りながら創作活動を続けている。2001年、詩人の父親が重病に陥り、ある有力者の仲介で中国政府は条件付きで詩人の一時帰国を認めた。詩人は生まれ育った北京を13年ぶりに目のあたりにして言葉を失った。「私は自分の故郷でまるで異邦人のようだ」と詩人はいう。

 一般的に、我々の使う言葉のなかで、「変化」とは発展を意味する場合が多くポジティヴに捉えられる。しかし、詩人北島が目にした「変化」は果たしてポジティブなものなのだろうか。実は、海外で生活する中国人のほとんどは北島と同じような体験をするものが多い。

 筆者は南京市で生まれ育った。正直にいえば、毎回のことだが故郷に帰るのは気分的によくない。なぜならば、今の南京は30年前の南京とは別物に感じられるからである。かつて国民党時代に残された古い建物のほとんどは都市再開発のなかで取り壊されてしまった。南京の名物だった街路樹のプラタナスの多くも道路の拡張工事で伐採されてしまった。

 長い間、共産党幹部は「翻天覆地」、すなわち天地をくつがえすことを以て自らの業績として変化や発展を讃える習慣がある。よく考えてみれば、これこそ恐ろしい「変化」といえる。

1.中国人も日本人も忘れてはならない梁思成

 清王朝の末期、若い知識人は光緒帝の支持のもと政治改革を試みた。これは歴史的に「戊戌の変法」と呼ばれている。その首謀者の一人は梁起超という人物だが、変法が失敗したあと、日本に亡命し生き延びた。その息子が梁思成であり、近代中国で有名な建築家であった。

 日中戦争の後期、米軍が参戦し、中国本土から飛行機を飛ばし、日本を空爆する。そのとき、梁思成はわざわざ重慶にある米軍司令部に出向き、カーチス・ルメイ将軍に進言した。「私は中国人として侵略者をやっつけてくれる米軍に感謝するが、京都と奈良だけはなんとか空爆しないでほしい。なぜならば、あれは日本人の財産であるだけでなく、我々人類の財産でもある」と梁はいう。結果的に、カーチス・ルメイ将軍は梁の進言を聞き入れ、京都と奈良を空爆の標的から外した。

 この歴史的なエピソードの詳細についてもう少し検証する必要があるかもしれないが、それは歴史家に委ねることとし、ここでは正反対の事例を一つ述べよう。

 中華人民共和国が建国されたあと、毛沢東元国家主席は故宮(紫禁城)を自らの住居にしようとしたことがある。このことは最近、毛の元秘書たちの回顧録で明らかになった。ちょうどそのときに、毛沢東は首都北京を再建しようとしたが、梁思成は北京市長経由で毛沢東に進言した。「北京市では我が国の歴史が凝縮されている博物館のような古都である。なんとかそれを取り壊さないでいただきたい。首都北京を建設するならば、古い北京を古城として保存し、新たに「新城」を建設すればいい」と梁は熱弁したが、残念ながら毛沢東はカーチス・ルメイではなく、梁の進言をまったく聞き入れなかった。

 共産党中央委員会の反対で毛沢東は紫禁城を住居にすることができなかったが、北京の城壁が取り壊され、たくさんの文化財は首都建設や文化大革命で姿を消した。いろいろな意味で中国人も日本人も梁思成という人物を忘れてはならない。

2.第二次文化大革命

 文化大革命(1966-76年)はその名前のとおり、中国の古典文化を革命する運動だった。毛沢東自身は「史記」などの古書を通読し古典文化の権威といわれている。しかし、なぜか中国古典文化の権威だった毛沢東は自らの文化に敬意を表さなかったのだろうか。この謎の解明はまたも歴史家に委ねるしかない。

 1976年、毛沢東の死去によって文化大革命にピリオドが打たれた。しかし、文化財を取り壊すムーブメントは依然として続いている。1978年、中国共産党は鎖国政策に終止符を打ち、「改革・開放」政策を推進した。最高実力者だった鄧小平は「改革・開放」政策の推進を決断した。

 「改革・開放」政策の最初の15年間、すなわち、1978年から1992年までの間、経済の自由化が限定的なレベルで進められた。当時、国有企業の民営化はタブーだったうえ、私有経済は半ば地下経済活動のようなものだった。1992年以降、「改革・開放」政策は「社会主義市場経済を構築する」という第二段階に突入した。そこで国有企業が民営化され、私有財産も法的に守られるようになった。正確にいえば、この段階で社会主義の基礎は徐々に崩れてしまったのである。

 そこで新たな動きが始まった。それは都市の再開発に伴う不動産開発である。もともと社会主義の体制においては土地の公有制がその柱だったが、中国共産党は土地の流通ができるように土地の所有権と使用権(定期借地権)を切り離した。すなわち、土地の所有権は依然として全人民所有制であり、売買できないが、その使用権は用途によって商業地の場合50年間、宅地の場合70年間の使用権を取引できるようになった。だが70年後どうなるかについては、誰も分からない。

 実は、この都市再開発こそ第二次文化大革命といえるほどさまざまな文化財の破壊を助長している。都市再開発を認可するのは地方政府である。それを担当するのは地方政府の幹部と密接な関係にあるデベロッパーである。利益を最大化しようするデベロッパーはさまざまな文化財を惜しまずに取り壊してしまう。地方政府、とりわけ、幹部個人は都市再開発のなかで多額の不正な収入を手に入れることができるため、文化財の取り壊しについて、見て見ぬふりをする。

 同じ南京市の事例をみると、ここ20年来、多くの幹部は収賄罪などで逮捕されている。しかも最近逮捕されたのは前南京市長の季建業だった。中国メディアの報道によれば、季前市長は都市再開発のプロジェクトを推進するなかで数千万元を収賄したといわれている。

 日本で生活する筆者は故郷の「変化」と「発展」を耳にするたびに、ある種の恐怖を感じる。30年以上に亘る「改革・開放」政策によって中国は豊かな国になったが、幸せな国になっていない。昨年の第18回党大会で中央委員に選ばれたある友人は「柯さん、私は今広い家に住んでおり、金もたくさんある。ただし、生活の質はどんどん悪くなっている」と愚痴る。かつて、ヨーゼフ・シュンベータ―は「創造的破壊」を提唱したが、今の中国には創造的破壊ではなく保護が求められている。