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【16-02】エンターテーメント産業とジャーナリズムのあり方

2016年 2月22日

柯 隆

柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員

プロフィール詳細

 日本では、大みそかの夜、NHKの紅白歌合戦は国民的な娯楽番組として定着し、年越しそばやおせち料理を食べながら紅白をみるのは多くの日本人にとって新年の迎え方の定番になっている。実は、中国でも似たような習慣があり、歌合戦の番組ではないが、中央電視台(CCTV)は毎年の春節の大みそかの夜に「春節聯歓晩会」という歌、踊り、コント、漫才などからなる大型の娯楽番組を放送しており、多くの中国人はそれを楽しみながら新年を迎える。

 日本の紅白の視聴率の統計をみると、若者を中心に紅白歌合戦離れが進んでいるといわれている。NHKは紅白歌合戦の製作にあたって、あの手この手を尽くしてできるだけ若者向けの新しいエレメントを入れる努力をしているといわれている。しかし、若者はネットのほうへ流れており、その傾向はさらに加速しているようだ。一方、中国でも、「春節聯歓晩会」をみる中国人は減っている。筆者は10年以上も前から、この番組を見ていない。直接見ていないので、間接情報をもとにコメントすれば、どうもこの番組は政治的エレメントが急増しているから、視聴率の低下をもたらしているといわれている。

 中国では、テレビのみならず、ラジオも新聞もすべてのメディアとマスコミは政府によってコントロールされている。もっとも露骨な表現として、マスコミは党の「喉」と「舌」の役割を果たさなければならないといわれている。しかし、春節の大みそかの夜の娯楽番組をみる国民は、政治宣伝や政治教育を受けるためではなく、よりリラックスした雰囲気のなかで新春を迎えたい。

ストレス社会への突進

 マスコミは社会の重要な構成部分である。その役割といえば、情報の伝達に加え、娯楽を消費するツールである。マスコミはその社会において価値観を形成する重要な役割を果たし、品格があり質の高い娯楽番組を提供することで、その社会のストレスを解消するだけでなく、国民的嗜好のレベルの向上に寄与することになる。

 実は、この点について日本のマスコミ体制にも重要な欠陥が存在することを指摘しておきたい。世界主要国において日本だけは24時間連続放送のニュース専門チャンネルが設置されていない。民放は視聴率を上げるために、かなりの資源とエネルギーをワイドショーに注ぎ込んでいる。NHKも不祥事などスキャンダルがおきるたびに、番組が柔らかくなっている。

 ワイドショーおよびそれに類似する番組の問題は、真面目なニュースでも娯楽番組ように伝えることで視聴率があげられようとしていることにあり、同時に、単位時間あたりにおいて伝える情報の質と量はいずれも低レベルに止まる。ある日、海外出張のとき、ヨーロッパでテロ事件が起きた。時差の関係で、出張先の時間は深夜であり(日本時間の昼ごろ)、NHKの番組をみたら、豆腐をいかにしておいしく食べるか、という料理番組をやっていた。このことを通じて、日本は世界といっしょに呼吸していないことを知った。実は、これはきわめて危険なことである。

 むろん、世界といっしょに呼吸していないのは日本だけではなく、中国も同じである。中国出張のとき、ホテルでNHKやCNNなど海外のニュースをみるとき、中国にとって都合の悪いニュースになると、テレビの画面は黒くされることがある。筆者は、自己防衛するため、日本では、とくに朝の時間は日本のテレビ番組をみないようにしている。毎朝、スカパーでCNNとBBCをみている。そして、中国に出張しているときは、なおのことテレビをつけない。

 むろん、こうした逃避行は問題の解決にはならない。考えてみれば、一年の最後の夜に、よりリラックスできる娯楽番組を楽しもうと思う国民は、そこで国を愛する、共産党を愛するといった政治教育をさせられるのは何ともいえないきついストレスになるはずである。

エンターテーメント産業のあり方

 冷戦の終結で社会主義は完全に失敗に終わった。総じていえば、それは社会主義陣営の経済運営が失敗したからである。しかし、人心が離れたのは経済運営の失敗のせいだけではない。社会主義体制においてプライバシーがほとんど尊重されず、基本的な人権も恣意的に犯されたため、とんでもないストレス社会だった。要するに、毛沢東時代の中国では、国民にとって何の楽しみもない、まるで地獄のような社会だった。

 たとえば、文革大革命(1966-76年)の後期、筆者は小学生と中学生の時代であり、テレビがなかったので、映画館で映画をみることになるが、共産党が製作した抗日戦争の数本の映画と旧ソ連、アルバニア、ルーマニア、北朝鮮の映画しかなかった。そのなかでとくに残酷だったのは「寧死不屈」というアルバニアの映画だった。この映画では、最後、共産党の活動を展開する女の共産党員が殺されるシーンがあって、小学生の筆者は何十回もこの映画を見に連れていかれたことがあり、この最後のシーンになると、いつも前の座席の下に隠れていた。子どもにこういう残酷なシーンを見せるのは映画自体よりも残酷な行為と思われる。

 鄧小平の時代になって、少し映画市場が開放され、日本、アメリカ、フランス、イギリスとドイツの映画が輸入されるようになった。むろん、完全に自由化されたわけではない。個人的にずっと不思議に思ったことは、共産党高級幹部は外国の映画や演劇を自由に鑑賞することができるのに、なぜ国民はそれが許されないのかである。たとえば、毛沢東の最後の夫人江青女史は自ら主導で何本かの政治教育の映画・模範劇を作成させたが、彼女の看護婦などの回顧録は、彼女自身はいつも中南海でイギリスやフランスの映画を鑑賞していたと証言している。こんなことがあっていいのだろうか。

 中国経済を専門に研究している筆者は、最近、中国の主要産業の過剰設備の分析に注力している。しかし、中国では、唯一、生産能力が過剰になっていない産業がある。それは映画やテレビを中心とするエンターテーメント産業である。正直にいうと、国民は質の高い作品を渇望し、飢えているのに対して、サプライサイドはほとんど供給していない。自動車や鉄鋼など過剰設備を抱えている産業から少しでも資源をエンターテーメント産業にシフトすれば、国民はどれだけ幸せになるのだろう。国民が幸せになれば、社会も安定するし、共産党の統治も強固になる。今は逆のことが行われている。無味乾燥の「作品」を制作するために、大金をつぎ込んで、それを国民に押し付けているが、これでは国民は幸せになれない。国民が幸せになれなければ、社会も安定しない。この簡単な理屈をなぜ為政者は分かろうとしないのだろうか。

 CCTVなどの発表によると、あの春節の娯楽番組の視聴率は非常に高いといわれている。若者はネットのほうに流れ、年配の中国人はほかにみるものがないので、やむを得ずそれをみている。あるネットユーザーがインターネットの掲示板にこう書いている。「今年は親孝行するために、ずっと高齢の親に付き添って『春節聯歓晩会』をみたが、たいへんびっくりしたのは例年以上につまらなかったことだ。」おそらく適正な評価といえよう。一方、この聯歓晩会のプロデューサーはネットで「今年の番組は100点満点だ」と自慢げに書いた。それに対して、ある作家は、「政治指導者に喜んでもらった意味で満点を取ったのだろうが、国民に喜んでもらう意味では、最悪の番組だったと言わざるを得ない」と酷評している。この番組を直接みていない筆者には、これ以上コメントする資格はない。