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【16-02】台湾「新時代」の見取り図—蔡英文総統の就任演説について—

2016年 6月 2日

川島真

川島 真:東京大学大学院総合文化研究科 教授

略歴

1968年生まれ
1997年 東京大学大学院人文社会系研究科アジア文化研究専攻(東洋史学)博士課程単位取得退学、博士(文学)
1998年 北海道大学法学部政治学講座助教授
2006年 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻(国際関係史)准教授
2015年 同教授(現職)

 2016年5月20日の総統就任儀式は台湾時間の午前9時に始まったが、蔡英文自身の就任演説は11時からおこなわれた。総統ポストだけでなく、立法院においても民進党が多数を占める、完全な政権交代がはじめて台湾で生じた、ということになろう。これは民進党、あるいは台湾の本省人からすれば、感慨無量ということになるのかもしれない。

 総統就任儀式では、中華民国の国歌のバックコーラスをパイワン族の子どもたちが唱うなど、まさに大陸からやってきた中華民国が台湾に土着化し、「中華民国在台湾」が体現されたとも言える。そして、蔡英文が中華民国国璽と栄典之璽という2つの印璽を継承したことは、その民進党政権が中華民国政府を担うということであるが、それも中華民国と台湾社会が融合する、まさに中華民国在台湾を示す。台湾もまた中華民国となったということだとも言える。

 蔡英文が演説の中で述べたように、台湾社会は問題が山積している。今回の儀式においても、「台湾之光」の部分で「原住民」についてその未開性を強調してしまったように、民進党政権はこの儀式を通じて、その弱点を露呈した部分もある。だが、3時間にわたる儀式全体を見ると、目下山積する台湾内部の問題を解決し、まさに若者が安心して暮らせる台湾を実現すること、そして新たな活力を得て、民主、正義などが実現する新たな台湾像を提示したものだったと言える。具体的には経済構造の転換、教育、エネルギー、食の安全、環境などといった諸問題、年金などの社会福祉などである。さらに、新時代の台湾を現実のものにすべく、台湾社会内部の和解を進めるのだ、ということを提唱したものだった。そこでは、本省人と外省人だとか、統一と独立だとか、台湾ナショナリズムを強調するようなロジックは殆ど用いられず、それと同時に「中国」という語も用いない。従来の台湾社会をその内部の亀裂や分断線から捉えて行く視点ではない、諸矛盾を解消した先にある新たな台湾像が、その演説では示されようとしていた。今後は、さまざまな亀裂や分断を乗り越えていく「和解」にむけ、228事件や白色テロといった問題のみならず、日本敗戦直後の日本の資産接収問題などが議論されることになろう。

 だが、日本の報道などを見ると、やや中国との関係に注目しすぎているという印象もある。実際、蔡英文総統の就任演説の大半は台湾内部のことであった。蔡は、台湾の若者に呼びかけるように、若者たちの将来を明るいものにしていく、そのための新しい台湾をつくっていく、と述べたのだった。これは、ひまわり世代を民進党に引き付けていくためのメッセージだとも言える。台湾政治は大きな岐路にさしかかっており、これからはこのひまわり世代をつかんだ政治勢力が将来の台湾政治を担ってという側面もある。それにあってか、蔡総統は台湾社会の諸問題の解決、課題の克服、改革、社会正義の実現などを強調したとも言える。無論、ひまわり世代へのメッセージだけが全てではない。台湾社会全体に向けて、20世紀後半の台湾現代史の諸問題を克服した、21世紀の台湾の像を示そうとしたということになるが、これが果たして実現できるかどうか、真価を問われることになる。

 他方、蔡英文総統の演説に対する国際社会の関心が、まさに92年コンセンサスをめぐる発言にあったことも確かである。蔡英文の述べたのは以下の言葉である。「我所講的既有政治基礎,包含幾個關鍵元素,第一,1992年兩岸兩會會談的歷史事實與求同存異的共同認知,這是歷史事實;第二,中華民國現行憲政體制;第三,兩岸過去20多年來協商和交流互動的成果;第四,台灣民主原則及普遍民意。」

 これは、1992年コンセンサスを歴史事実としながらも、「求同存異」、つまり同じ認識を持つことを求めながらも、しかしまだ認識に相違が残るコンセンサスだとしているのである。また、中華民国の憲法体制に基づく、という部分は、王毅外相が示唆したことを受けており、「ひとつの中国」に基づく中華民国憲法に依拠して対応するということである。だが、「ひとつの中国」ということを直接表現するのを避けた、ということである。第三の部分は、蔡英文が自らかかわった小三通も含めて、1990年代以来おこなわれてきた両岸関係の実績を否定しないということである。ここに1992年コンセンサスも含まれるのだろう。第四の部分は、それでもなお台湾の民意に反することはしない、ということであり、これは「公投」を用いて是非を問う可能性があるということを示唆している。すなわち、「統一」といったことはありえない、ということを示している。

 以上のように、蔡総統の演説に於ける92年コンセンサスに関する部分はまさに中国からの要請も踏まえたギリギリの線で述べられているとも言える。実際、中国の国務院台湾弁公室は声明を発して、台湾独立反対、一つの中国の堅持など、これまでの原則論を繰り返したが、次第に不快感を募らせている。他方、この蔡総統の発言が、単に中国だけに向けられたものではないということに留意したい。つまり、この蔡の演説の内容は、陳水扁政権と異なり、この政権が決して両岸関係で「火遊び」をしないこと、また台湾独立路線を声高に唱えず、台湾内部の本省人・外省人の和解のためにメッセージを送ったとも言える。

 最後に蔡総統の就任儀式、演説を踏まえた日台関係について検討したい。就任儀式では、台湾の各族群の文化などともに、台湾の歴史も表現された。これについては既に様々な指摘がなされているが、日本統治時代については、武器を持った日本人兵士が台湾人たちを追い回し、支配する姿が強調された。さらに、1945年には、日本が投降した様子を中国の新聞によって表現するなど、台湾社会の目線というよりも中華民国の目線で歴史が描かれたことは衝撃的であった。この歴史観をいかに考えるのか、検討が必要だろう。

 今回の蔡英文の演説で、領土問題などについては、従来通りの原則論を述べたが、尖閣や沖ノ鳥島を具体的にとりあげてはいなかった。総統就任の数日後に、台湾政府が沖ノ鳥島に関する馬政権の方針を転換して、国連での裁定に委ねるとしたのは周知の通りである。また、就任演説では、「我們會繼續深化與包括美國、日本、歐洲在內的友好民主國家的關係,在共同的價值基礎上,推動全方位的合作」と日本に言及し、そこで民主国家たる日本は、台湾の友好国家だと位置づけられている。そして、蔡総統がTPPやRCEPへの関心を示したことは、日本とのEPA締結や、台湾の国際経済組織参加に際して、日本からのサポートへの期待を含んでのことだろう

 しかし、蔡政権下の日台関係には新しい側面もある。蔡の提示する21世紀の新しい台湾、つまり社会的な正義、社会矛盾を乗り越えていく民主的な社会像を描いているが、そういった台湾に対して日本が、民主と自由、そして社会的正義が実現し、社会内部の諸矛盾を民主的に解決してきている「先進国」だという姿を提示できるか否かが焦点となろう。

 また、歴史認識の面でも、厳しい目線が日本に向けられている可能性もある。蔡英文の世代の対日認識に厳しいことは言うまでも無いが、国民党一党独裁期の歴史検証が進む中で、1952年の日華条約への疑義が提起されたり、日本統治時代の補償問題などが再び提起されたりする可能性もある。そして、馬英九政権下には中国が台湾の対外政策を牽制しなかったこともあって、日台漁業協定は投資協定など、日台間が大いに進展した。蔡政権の対外政策に対しては、中国が既に牽制する姿勢を示している。そのような状況下でいかに日台関係を進展させるかが課題になる。だが、それでも、あるいは台湾が新たな時代へと舵をきろうとしている今こそ、議員交流などを活発化させ、民間を中心とした包括的な日台間の交流計画をたて、改めて日台関係を強化すべきと考える。