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【08-04】中国と日本における伝統数学と西洋数学の交代−西洋近代科学技術の浸透を中心に−

薩日娜(東京大学大学院総合文化研究科)   2008年3月20日

 中国と日本は、長い交流の歴史を持ち、互いに広く深く影響し合う関係を持ってきた。近代の中日関係は両国の政治、経済、文化、思想の発展と変化、ひいては 国家、民族の栄枯盛衰にいたるまで、巨大な影響をもたらした。こうした影響は一体どのようにして生じ、そしてそれぞれの異なる歴史的事件の中に具体的にど のように現れたのであろうか。

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 人類共通の文化の一つである数学は国毎に独自の発展を遂げてきた。中国と日本も歴史上、各自の特徴を持つ伝統数学が発展してきた。両国の伝統数学は深いつ ながりを有する一方、各々がたどった発展の道には相違性もあった。そして、両国の伝統数学に決定的な影響をあたえることになる西洋数学との出会いは、共通 の歴史的状況の下に起こったことでありながらも、違った受け容れ方をした時期があった。 

 西洋科学技術に刺激を受け、西洋文明を模範に近代化を進めていこうとすることは、非西洋世界の多くに共通する現象である。今日の私たちにとって極めて重要なのは、中国と日本の伝統数学もその変革の大波に巻き込まれたということである。

 中国の伝統数学は、中国の古代天文学と暦学の発展と深い関連を持ちながら展開してきた。古代から清末に至るまで長い歴史における各時代の伝統数学の性格は各々違っており、研究の中心となる対象も様々であった。

 中国の伝統数学と西洋数学の出会いは明末にさかのぼる。マッテオ・リッチ(Matteo Ricci、 1552-1610、中国名利瑪竇)(1)を始めとするイエズス会士が、16世紀末に初めて西欧数学を中国に紹介したという。この時期、中国に伝わったのは、古代・中世数学を集大成したルネサンス期の数学であった。その後、清朝の雍正朝(2)からの長い鎖国政策(3)の ため、アヘン戦争までの150年間、中国では西洋の数学やほかの諸学科の流入が中断された。鎖国期に行われた中国の数学の研究は、主に二種類である。一つ は古代の伝統数学、いわゆる「中算」に関する古代典籍を整理し、叢書の編集を行ったものであり、もう一つは明末清初に伝えられた西洋数学を中国の伝統数学 と結びつけた「清代数学」という独特な形の数学の研究として発展したものである。西洋の近代数学の導入が再開されたのは、19世紀のアヘン戦争の前後と洋 務運動期であった。

 日本と西洋諸国との接触は、天文12(1543)年ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えた時に始まっ たといわれる。中国との場合と同じく、西洋の宣教師たちは布教の手段として、西洋の科学技術、天文・暦学を伝えた。慶長10(1605)年から京都にいた カルロ・スピノラ(Carlo Spinola、1564-1622)(4)は京都の天主堂で天文を観測するとともに、「都のアカデミア」を設けて、天文、数学を教え、測量、機械、建築に関するもののほか、「数学概論」(Arithmetica Copiosa)をもっとも重要なものとして教えたのである(5)。 その後、寛永7(1630)年のいわゆる寛永の禁書により、中国で出版された書籍は、キリスト教関係のものだけでなく、イエズス会士の記述した科学書も、 輸入が禁止された。しかし、享保5(1720)年の禁書令緩和の後、中国で出版されたイエズス会士の記述による科学書の輸入が許可された(6)。幕末になると、さらに西洋から直接に輸入されることになり、蘭学時代から使われていたオランダの数学書以外に、主に、英、米、仏、独に留学、あるいは学問の視察に行った人々によって日本に高度な内容の本が持ち込まれた(7)。

 19世紀半ば、中国と日本は、ともに門戸をこじ開けられて、両国の文明史に未曾有の転機をもたらす大変革期があった。西洋列強の圧力のもとに、中国と日本は一様に不平等条約に調印することを余儀なくされ、基本的に同じスタートラインに立っていたと言える。

 清末の中国は1840-1842年と、1856-1860年の二回に亘るアヘン戦争により国家を強制的に「開国」させられた。

 幕末の日本は、嘉永6年(1853年)、米国ペリー艦隊の黒船が江戸湾の浦賀に来航した事件が、国全体に衝撃を与えた。

 これらの事件は、中国と日本の西洋科学技術に対する認識に大きな刺激を与える契機となり、両国の国際交流の門を開き、伝統文化に衝撃を与え、学問全体に 変革の機運をもたらして、官僚や学者たちに西洋の実力を認めさせることになった。西洋の影響とそれがもたらした変革の動きは、それぞれの伝統数学にも及ん だ。 

 19世紀後半、中国では西洋の科学技術を学ぼうとする「洋務運動」(1860-1895)が展開されることとなり、一方、日本では1868年に明治維新 が起こった。19世紀の西洋数学との出会いは、中国の方がやや先行していたが、それを受けいれた後の変革は日本の方がはるかに急速に進んでいった。

 明治18(1885)年発刊の『東京数学物理学会記事』に日本の近代数学の誕生について「亜船渡来萬国交際ノ運ニ至リ是ニ於テ西洋ノ数理我邦ニ入リ新旧相並ヒテ学者ノ研究スル所トナル」(8)と書かれている。幕末・明治初期の日本にアメリカの黒船(ペリーの艦隊)が渡来した後、西洋数学が輸入されるようになり、その新数学が旧数学と並んで学者たちの新たな研究対象になったというのである。

 ここにいう旧数学とは、日本の伝統数学「和算」である。西洋数学が日本に伝わる幕末・明治初期に和算という伝統的数学が存在していたことによって、日本の数学は、後に中国とも異なる、特筆すべき経過を辿ることになった。 

 和算というものは17世紀の徳川時代初期に日本人学者が独自に発明した数学であり、後に輸入されることになる西洋数学とはまったく違う体系の数学であっ た。例えば、西洋近代数学が自然科学と密接な関わりを持って発展したのに対して、和算は「芸に遊ぶもの」として実用を軽ずる面が強いという特徴を持ってい た(9)。

 西洋数学が始めて輸入された頃には、西洋数学習い立ての学者に比べて、和算家の方が自信に溢れ、強い影響力を有していた。そして、能力のある和算家の視 点から見ると、最初に輸入された西洋数学は幼稚なものに見え、その奥に控えている厳密な理論体系が簡単に理解され、受け入れられるものではなく、意義ある ものに認めることができなかった。しかし、時代が進み、日本社会が西洋近代社会の社会制度や科学技術を大きく採り入れるにつれて、実用性に乏しかった和算 に比べ、西洋近代社会を支える西洋数学の先進性と実用性がますます世の中に認められていき、西洋数学への転換が進んだ。そうした経過を踏まえて、日本の数 学は和算から洋算へと急速に移行する転換期に入り、和算を学んだ人々の一部も西洋数学を学ぶようになった。単に和算と西洋数学が混在したというだけではな く、和算と西洋数学をともに理解できる数学者が存在したということは、明治初期の日本数学界が持っていた大きな特徴である。また、こうした数学者たちと協 力して日本における西洋数学の定着に力を注いだのは、数学を専門とする学者よりも、むしろ西洋の航海術や測量術、あるいは西洋の砲術などを学ぶために西洋 数学を身に付けた学者たちであり、そうした人材を養成する長崎海軍伝習所、蕃書調所などの機関は、日本における西洋数学を受け入れる橋頭堡となるに至っ た。 

 やがて明治新国家の急速な近代化と歩調を合わせて、西洋数学が和算を押しのけて行くことになる。1872年に公布された「学制」の中での、和算を廃止し て洋算を採用するという決定はその象徴的な出来事であった。それによって、洋算の普及が加速し、和算は衰退の運命に向かったと考えられがちだが、「和算」 の遺風はその後も引き続き数学界に一定の領域を占めていた。例えば、日本での数学の研究、教育、普及を目的とする東京数学会社が創設される明治10年 (1877年)前後になっても、伝統的な和算書は世に問い続けていた(10)。

 そうした和算と洋算の競争期が続いたのだが、その間に西洋近代数学が日を追って大量に輸入されるようになり、日本人学者の西洋数学の研究も日に日に盛ん になるという変化が進行した。そして、数学は和算から洋算への移行の歩みを速め、明治15、16年頃になると、日本の数学は学問として全面的に一新する新 しい時代を迎えた。

 日本に比べて、中国の伝統数学から近代数学への転換の様相は、はるかに漸進的であった。 

中国の近代教育は洋務運動と共に始まる。第二次アヘン戦争終結後、「太平天国革命(11)」 を鎮圧することによって地位を固めた中国の官僚集団は、1894年に日清戦争が勃発するまでの間、「強を求め、富を致す」ことを主目的とし、欧米先進資本 主義諸国の近代文明、とりわけ科学と技術を学ぶべきだと主張して、富国強兵の道を歩むことを企てた「洋務運動」を展開した。その中では、西欧科学書の編訳 や出版が、先進科学技術を学ぶ手段の一つとして行われることになった。西洋の軍事、技術、言語を勉強するために、洋務運動期から清末にかけて中国では新式 学堂がたくさん創設された。

 そして、幕末・明治初期の日本と同様に、清末の中国の新式学堂で科学技術の基礎である西洋近代数学の教育も行われていた。この時期に、西洋人宣教師と清末の知識人が共訳した漢訳西洋数学書籍が数多く出版された。 

 このように西洋近代数学の導入時期は中国の方が日本より先だったので、その時期の漢訳西洋数学書は日本に多く伝わり、日本人学者に読まれ、研究され、日本の数学界の西洋化に貢献したのである。

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  ところが、アヘン戦争から三十年も経たないうちに、日本は明治維新を経て、一躍アジア唯一の資本主義強国となり得たのに、中国は依然半殖民地の深淵に悪戦 苦闘し、分割の危機にさえ見舞われたのである。両国の維新の成功と失敗という全然異なる結果を生んだ原因はどこにあったのか、という問題は様々な学問分野 で研究される注目点になっている。 

 同じ漢字文化圏の中国と日本は西洋数学を受容する際、互いに学び合うことになった。清末の中国人学者たちの中には悠久の伝統数学の内容を保持しつつ、そ の伝統的な研究の方法を守ろうとする人々も長く存在していた。中国の伝統数学を再興することがもはや不可能であると無念の事実を確認するほかなくなったの は、洋務運動の終末期になり、特に日清戦争(中国では中日甲午海戦という)以降のことだった。 

 一方、日本は伝統数学を守護しようとする和算家に反して、洋算家の影響が高まってゆき、和算の生き伸びる道が絶えてゆくことになった。和算家の中にも清 末の一部学者たちのように伝統を守りつつ自らの研究を進歩させようと望む者がいたが、学制の頒布、数学者研究団体の設立、西洋数学の研究の深化につれて、 和算家の中からの多数の学者が完全に洋算に移行する意志を固めた。そうして、和算は極短期間の洋算との競争時代を経て、明治後期になると、歴史文化の遺産 として研究されることになってしまった。 

 このように、日本が中国より早く、西洋数学を全面的に受け入れたのと対照的に、中国数学の西洋化は、日本よりはるかに遅れていた。その結果、日清戦争に 清朝中国が敗北した後に、中日数学文化交流での立場も逆転し、日本で近代西洋数学を勉強する中国人留学生が多くなってきた。そして、彼らの手によって、日 本人学者による数学の著書が中国語に翻訳されて、中国の数学界と教育界に大きな影響を与えるようになったのである。

 19世紀の後半に漢訳西洋数学書が日本に与えた影響については、中国側にも研究が多いし、日本側にも優れた研究がある。しかし、数学史、数学教育史、及び 数学交流史においては、19世紀末から20世紀初頭にかけて中国の数学界が日本を媒介として西洋数学を受容したことについての研究は十分に行われないまま であった。ジョージア州立大学のレイノルズ教授(Douglas Reynolds)は19世紀末から20世紀初頭にかけての近代日中関係史を「忘れられた黄金の十年」(A Golden Forgotten: Japan-China Relations、 1898-1907)と呼んでいるが、この時期は実は中国と日本の教育文化面での交流が隆盛を極めた時代であり、多くの中国人学生が日本に留学し、近代西洋科学技術や数学の教育を受けていた。

 こうしたことを明らかにするため、筆者は、近年、清末の留日学生たちの自筆による入学願書や履歴書などオリジナルの史料をもとに、清末の留日学生派遣政 策、及び清末の留学生たちが日本で受けた教育の実態を詳細に研究することを試みている。特に、両国の数学教育史と文化交流史を中心に、両国の政治制度、伝 統文化、歴史背景にも眼を向けながら、西洋の科学技術の基礎である西洋数学を受容した歴史の過程を総合的に考察している。 

 即ち、オリジナルの史料の調査を通じて、西洋文化の咀嚼という共通の問題を抱えた両国がそれぞれ独自の方法で見いだそうとした解を歴史として示すととも に、両国が交流してきた経緯を研究し、明治維新と清末という今日の人々にとって忘れてはならない時代の事実を掘り起こして、近代中日数学文化交流の歴史に 自分なりの答えを探そうとするものである。

 中国や日本のような東アジアの国々における数学の近代史は、もともとの伝統的な数学を見捨てて、西洋の航海術、科学技術を学ぶための基本として、西洋数学 の知識を勉強することから始まった。 当時からすれば初等的な内容だった西洋数学を伝統数学に置き換えるといったことから出発し、西洋の数学書を用いた勉 強を深め、西洋の数学者たちから高等な内容の数学も受容するようになった。そして、その次の段階は、西洋に送り出された留学生が当時の最先端の高等数学を 学び、オリジナルな研究を行うようになるのである。このようにして、19世紀後半に東アジアの数学界も世界的なネットワークに加わることになったわけであ る。

 最後に指摘しておきたいことは、数学は人類の文化の一つであり、数学著書の翻訳により、数学文化の国際的な交流が実現していた、という事実である。今日 の数学史の一つの研究課題として、西洋の科学技術の基礎である近代西洋数学がどのような形で東アジアに紹介され、また理解されたのかというテーマが存在す るが、これこそ東西文化交流の研究に欠かせない大きなテーマとなる。

注と参考文献

  1. イタリア人イエズス会の宣教師で、ドイツの数学者クラヴィウス(C. Clavius、1537-1612)に数学を学んだという。1582年に中国へ渡り、最初はマカオで、後に中国の南昌、南京で布教、さらに、北京へ進 出、中国の官僚たちと知り合い、中国人学者と『幾何原本』、『測量全義』、『同文算指』、『圓容較義』などの書籍を共訳した。
  2. 雍正朝(1723-1735)、皇帝は清世宗胤禎(1678-1735)である。
  3. 中 国故宮博物院編『康熙帝与羅馬使節関係文書』によると、清の康熙朝(1662-1722)後期にローマ教皇は「教皇禁約釈文」を発布し、中国のカトリック 教徒に対する支配をますます強めた。このことに対し、康熙皇帝(1654-1722)が激怒し、「以後不必西洋人在中国行教、禁止可也、免得多事」と書か れている。清朝の鎖国に関する最初の書類は雍正帝が1724年2月に頒布した禁教令である。清朝の鎖国期にあたる清高宗弘暦(1717-1799)が統制 していた乾隆朝(1736-1795)には西洋の天文学、暦法、地理学の書物は稀に入っていたという。しかし、鎖国期に伝わった西洋の数学の書籍があった とする史料はいままで見つかっていない。黎難秋『中国科学文献翻訳史稿』、中国科学技術大学出版社、1993年、p. 57参照。
  4. イタリア人イエズス会の宣教師で、マッテオ・リッチと同じくクラヴィウスに数学を学んだという。1602年来日、各地に布教、京都に学林を設け、後に火刑に処せられた(元和大殉教)。
  5. 広瀬秀雄、古島敏雄、中山茂ほか編『近世科学思想』(下)(日本思想大系63)、岩波書店、1971。このなかの尾原悟「ヨーロッパ科学思想の伝来と受容」、「解題」を参照。
  6. 禁書令緩和の前にも既に輸入されていたことが今日知られている。
  7. 幕末に、オランダから日本に輸入された数学書としては、P. J. Baudet、Opleiding tot de kennis der algebra (1850)、J. Badon Ghijben、Beginselen der differentiaal-en integraal-rekening (1847)などがある。さらに、英米から輸入された数学書としては、G. R. Perkins、A Treatise on Algebra、Embracing besides the Elementary Principles (1865) H. N. Robinson、New Elementary Algebra (1859)などがある。幕末アメリカに留学した新島襄も約10部の数学書を携えて来たという。仏独から輸入された数学書としては、 M. Saigey、Elements d'algebre de Bezout(1848)などがある。「日本の数学100年史」編集委員会『日本の数学100年史』(上)(岩波書店、1983)pp. 37-42。
  8. 明治18(1885)年に刊行された東京数学物理学会編輯委員輯録『東京数学物理学会記事』第1巻のなかに、本論文のなかで議論される、「本会沿革」として「東京数学会社」の発展の流れが記録された文章があり、その中にはこのような一文が書かれている。
  9. この点については、特に三上義夫がその著『文化史上より見たる日本の数学』(昭和22年、創元社)のなかで力説するところである。
  10. 東京数学会社が創設された年の1877年、和算家佐久間纉(1819-1896)は『算法起源集』(点竄術の定則と実例を説明しているものである。佐久間は 東京数学会社機関『雑誌』の第11号に容円問題を提出している)と『和算独学』を刊行する。そのほかは、萩原禎助『円理算要』(1878)、鈴木円『容術 新題』(1878)、福田理軒『算法玉手箱』(1878、1879)、高久守静『極数大成術』(1879)、『探索算法』(1882)などが出版されてい た。
  11. 1850-1864年に起こった清末の農民たちによる武装蜂起のことである。
薩日娜

薩日娜:
東京大学大学院総合文化研究科留学生

略歴

中国内モンゴル自治区フヘホト市出身。 
95年7月、中国内モンゴル師範大学数学学部数学教育課程数学教育学専攻理学士。 
98年7月、中国内モンゴル師範大学大学院自然科学史専攻理学修士。修士論文題目「中国と日本における筆算の比較研究」 
01年4月−02年3月、東京大学大学院総合文化研究科研究生。 
02年4月−04年3月、東京大学大学院総合文化研究科科学史・科学哲学専攻学術修士。修士論文題目「東京数学会社の創設・発展・転換」 
04年4月−現在、東京大学大学院総合文化研究科科学史・科学哲学専攻博士後期課程在学中。博士論文題目「 中国と日本における西洋数学の受容ー近代科学技術の基礎である数学の文化と教育の交流を中心にー」(執筆中)

職歴: 

98年8月−01年3月、中国内モンゴル師範大学科学史・科学技術管理学部講師、科学史・数学史の授業担当 
04年4月−07年3月、日本学術振興会特別研究員

単独発表論文(04年〜現在):

  1. 「東京数学会社の設立とその歴史的な意義」『漢字文化圏伝統数学と数学教育』第5巻、中国・科学出版社、2004年10月、pp.144-150。
  2. 「訳語会の設立と明治初期数学用語の決定」『和算研究所紀要』No.6、2005年3月、pp.3-22。
  3. 「東京数学会社により考察する明治初期数学の特徴」『科学史・科学哲学』第19号、2005年3月、pp.2-41。
  4. 「明治初期日本数学会における伝統数学と西洋数学の競争」『哲学・科学史論叢』第9号、2007年3月、pp.1-27。
  5. 「清末の漢訳西洋数学書の明治初期日本への伝播とその影響--華 16-145。
  6. 「成城学校における中国人留学生の教育--数学の教育を中心に--」『日中数学教育研究会論文集』大阪教育大学出版、2007年12月。pp.78-825。

共著発表論文: 

「初期和算之錐率1/2.96探源」『中国広西民族学院学報』(自然科学版)、2005年3期、pp.35-39。 
ほか、日本語から中国語、中国語から日本語の論文の翻訳が数編ある。

共入会している学会: 

中国科学史学会、日本科学史学会、日本数学史学会、日本数学教育学会