【09-01】日中における近代化の端緒

2009年6月11日

李暁東

李暁東 (リ ギョウトウ/Li Xiaodong ):
島根県立大学総合政策学部 準教授

1967年7月、中国福建省出身。
北京国際関係学院卒業後、同大の助手、専任講師を歴任。
1993年2月~1993年8月 北京日本学研究センター客員研究員
1999年4月~2003年3月 成蹊大学法学部客員研究員
1999年10月~2001年9月 日本学術振興会外国人特別研究員(PD)
2005年4月~島根県立大学総合政策学部准教授。
1999年 博士号取得(政治学)。
専攻は日中関係史、政治思想史。
著書『近代中国の立憲構想』(法政大学出版局2005年)など。

文明と野蛮の構図

 アヘン戦争や、「黒船」によって象徴されたWestern Impact、「西洋の衝撃」を受けるまで、東アジアは西洋の近代国家システムとは無縁の世界であった。「中華世界システム」とも呼ばれているこの世界を支配していたのは、「華夷」秩序であった。この世界は文化的にもっとも高い「中心」である「中華」と、文化的に劣っている「周辺」の「夷狄」からなっている。「華夷」秩序を支えていたのは、周辺諸国・諸民族が中央に対して朝貢を行う「朝貢システム」と、諸国・民族の国王や首長が中央の皇帝によってその正当性を認定される「冊封体制」であった。朝貢は、周辺にある諸国が中央の皇帝の徳をしたい、臣従を示すために貢ぎ物を定期的に納める、中央の皇帝がこれに対し返礼として「回賜」を与えることである。この場合、華夷秩序における皇帝―(国)王関係は、君臣上下関係の擬製とされたため、朝貢―回賜は、皇帝の高い徳を示すものとして「厚往薄来」(厚く与え薄くもらう)という原則に基づいて行われた。

 しかし、このような「華夷」秩序が存在していたにもかかわらず、東アジア諸国間の関係は希薄だった。中央の皇帝は周辺諸国・民族との関係において、もっぱら上下関係の名分を重視し、周辺に対して原則的に「内政不干渉」的な態度をとっていた。「中華」と自認した中国の場合は、自分より文化的に劣っている周辺の「夷狄」に関心を払っていなかった。自分たちの文化が最も優れているため、周辺に関心をもつ必要がない、と考えていたからである。

 1793年、イギリスは、中国との貿易の諸条件を改善し両国の関係を条約の基礎の上に据えるため、マカートニー使節団を中国に派遣した。しかし、イギリスが求めた外交使節の北京駐在や、貿易に関する諸要求はことごとく中国に拒否された。中国からすれば、「地大物博」、自給自足である自国は外国貿易を必要としないが、貿易を行うのは、あくまで「中華」が周辺の「夷」に恩恵を与えるためであった。そもそも、「朝貢」は周辺の諸国にとって、重要な貿易形態であり、朝貢使節団そのものは中国現地で貿易を行う貿易団でもあった。しかし、中華王朝にとって、朝貢の意義は何よりも「華夷」という上下の「名分」を示すことにあった。周辺諸国からの「朝貢」と中央からの「回賜」は決して平等であってはならなかったのである。なぜなら、平等の貿易関係は「華」と「夷」の上下関係を乱すものだったからである。

 マカートニー使節団を謁見した当時の中国の皇帝は次のように述べている。

 朕、表文を披閲するに、詞意は肫懇にして、具に爾国王の恭順の誠を見、深く嘉許を為す。所有表貢を齎し到れる正副使臣は、其の使を奉じて遠く渉れるを念い、恩を推し礼を加え、巳に大臣をして帯領して瞻覲せしめ、筵宴を錫与し、畳ねて賞賚を加え、用って懐柔を示せり。その巳に珠山(舟山)に回える管船官役人等六百余名は、未だ来京せずと雖も、朕また優に賞賜を加え、普く恩恵に沾いて一視同仁なるを得しむ。(マカートニー著、坂野正高訳注『中国訪問使節日記』「解説」東洋文庫277、平凡社、1975年、328p)

 中国の皇帝にとって、マカートニー使節団は周辺諸国からの朝貢使節団となんら違いがなく、遠方より来る「夷狄」にすぎなかった。そうした「恭順の誠」を示すためにはるばるやってきた使節団に対して、中央の皇帝は手厚く処遇したのである。

 実は、中華王朝がいかに名分を重んじていたのかは、マカートニーの謁見儀礼をめぐる争いにも表されている。当初、マカートニーは、皇帝に謁見する際に、従来、規定されていた「三跪九叩」の礼(跪いて三回平伏するという儀礼を三回繰り返す)をとるように要求されていた。長い折衝を経たあと、結局、謁見の際に片膝をついて跪くというマカートニーの提案がようやく受け入れられたのである。しかし、マカートニーが使命を完遂できなかったために、その後新たに派遣されたアマースト使節団はマカートニーほど運が良くなかった。「三跪九叩」の礼を拒否した彼は、皇帝に謁見することさえできずに北京から追い返されたのである。

 では、イギリスのマカートニーたちにとって、中国はどのような国であったのか。マカートニーからすれば、中国人は、「ヨーロッパの諸国民に比べると彼らは一個の半野蛮国民」であった。しかも、彼は、表面的な繁栄の裏にあった清王朝の「中空」構造をまで見抜いたのである。中国を観察したマカートニーは次のように述べている。

 中華帝国は有能で油断のない運転士がつづいたおかげで過去百五十年間どうやら無事に浮かんできて、大きな図体と外観だけにものを言わせ、近隣諸国をなんとか畏怖させてきた、古びてボロボロに傷んだ戦闘艦に等しい。しかし、ひとたび無能な人間が甲板に立って指揮を取ることになれば、必ずや艦の規律は緩み、安全は失われる。しばらくは難破船として漂流するかもしれない。しかし、やがて岸にぶつけて粉微塵に砕けるであろう。この船をもとの船底の上に再び造り直すことは絶対に不可能である。(同上、220p)

 近代の産業革命を経験したイギリス人ならではの自負を伺わせた。そして、ここにおいて、「華」と「夷」、「文明」と「野蛮」の構図が逆転された。文明のヨーロッパ人に比べれば、中国人はせいぜい半野蛮な国民であった。その意味では、中国の皇帝の場合と同じように、マカートニーにとって、中国との関係は平等のものではありえなかったのである。

アヘン戦争の意味

 19世紀の半ば以降、「西洋」という共通した「他者」の衝撃によって、北東アジアの日・中・韓の関係は一気に密接になった。そして、はじめに「西洋の衝撃」への対応を強いられた北東アジア各国は、各々の近代化の道を模索する過程で、次第に自己主張をし始めるようになった。

 1840年のアヘン戦争によって、中国は余儀なく開国させられた。近代中国の初めての不平等条約である南京条約は、清王朝にとって、イギリスによって強制されたものだったが、主権が損害されたという意識は全くなかったようである。そもそも、華夷秩序観のもので、主権という概念は理解されえないものだったのである。その代わりに、条約の調印過程で、清王朝が何よりもこだわっていたのは、やはりいかに「華夷」秩序における「華」の名分を維持するか、ということだった。片務的な不平等条約が朝貢、冊封システムの論理から読み換えられ、それは、「夷狄」に恩恵を与えるものとしてとらえられた。しかも、「夷」を制御する(羈縻)ために、こうした「恩恵」は、「懐柔遠人」、「一視同仁」の建前で、他の西欧諸国にも与えることとなった。清王朝は米、仏諸国とも同様な不平等条約を結ぶことに至った。

 一方、アヘン戦争は、「他山の石」として、日本に対する衝撃は大きかった。アヘン戦争を受けて、中国の敗戦の原因が分析され、日本の武備の強化策が議論された。さらに、西洋諸国との戦争を避けるために、幕府は「異国船打払令」を撤廃した。それは決して鎖国政策の放棄を意味するものではなかったが、当時の日本は国際情勢に対していかに敏感であったかを物語っている。1853年、ペリーの来航によって、翌年、日米和親条約が結ばれ、日本は開国させられた。中国の場合と同じように、開国がやむを得ないことだったが、日本の切り替えははやかった。日本国内では、幕府と朝廷との間の政治的闘争のなかで、長州・土佐などを代表とする尊王攘夷派が力を得、攘夷を決行したが、欧米の報復攻撃を受けたのを機に、攘夷派は「豹変」して、積極的な開国政策を主張するようになった。歴史家ノーマンをそのことを評して次のように述べている。

 ……長州と薩摩はイギリスに接近したが、この友好関係は、一八六二年に薩摩藩士がイギリス人リチャードソンを殺害した生麦事件とその報復としての翌年のイギリスによる鹿児島砲撃を想起するとき、不思議に感じられよう。だがヨーロッパの兵備の優越性を教えたこの実物教育は、はからずも封建日本のうちでも最も好戦的でありもっとも傲慢であった薩摩人に、専門の分野において何によらず価値あるものを教えてくれる人々には敵対すべきでなく尊敬を払うべきだということを、信じさせることになったかに思われる。(E.H.ノーマン著・大窪願二訳『日本における近代国家の成立』岩波文庫、1993年、76p)

 このように、アヘン戦争というショックを受けて、日本におけるような「攘夷」から「師夷」への鮮やかの変身と、「華夷」の名分にこだわった清王朝とは鮮明な対照をなしていた。

「体」と「用」の間

 軍艦と近代的兵器によって象徴された科学技術の圧倒的な強さを目の当たりにして、中国において、西洋の軍事技術を導入するという機運がようやく生じ始めた。洋務運動であった。武器製造工場江南製造局をはじめ、造船所、製鉄所などが各地に設置され、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局なども新設された。曽国藩、李鴻章らの地方有力官僚が西洋の近代的技術を導入先頭に立っていた。

 洋務運動が展開された理由は二つの側面から考えられる。ひとつは、たとえば、清末中国人の世界認識の刷新に大きな影響を与えた書物である『海国図志』(1843年)を著した魏源が述べているように、「夷の長技をもって夷を師とし、もって夷の長技を制す」(「師夷之長技以制夷」)ためであった。度重なる敗戦によって、西洋に倣わなければ、西洋に打ち勝つことができないと認識したからにほかならなかった。しかし、より重要なのはむしろいまひとつの理由があった。曾国藩、李鴻章らにとっての洋務運動は、それぞれの湘軍、淮軍を増強するためであり、それは何よりも、中国社会に大きな変動をもたらした農民一揆であった太平天国を弾圧し、王朝を安定させるための運動であった。官僚、士大夫であった洋務派が「洋務」に努めたが、それらの取り組みは、「外」に対する危機感よりも、「内」の動乱への危機感に基づいていた。この点においても日本の場合と対照的であった。魏源の『海国図志』を読んで、それに強く共鳴した佐久間象山は、何よりも意識していたのは日本が直面した「外」からの危機であったのである。

 「中華」という高い自負を持つ中国のエリートたちはようやく西洋に倣うようになったが、魏源が西洋を「夷」と呼んでおり、「洋務」も当初、「夷務」と呼ばれていたことからわかるように、西洋は、部分的に「師」とされつつも、文化的に、道徳的には依然として「華夷」秩序のなかで「夷」として位置づけられていた。このような価値意識は、後に、清末のもう一人の洋務派代表であった張之洞が唱えた「中学を体と為し、西学を用と為す」という「中体西用」論のなかで、典型的に表されていた。すなわち、機械、技術などの面は西洋に倣う必要があるが、それらはあくまで末梢、重要でない「用」部分であり、核心である「体」である伝統中国の道徳、倫理はけっして変えてはならない、という主張であった。「中体西用」は佐久間象山の「東洋の道徳、西洋の芸術」の主張に似ているが、「和魂洋才」とは異なっていたことに注意しなければならない。なぜなら、「和魂」はあくまで一種の心構えであり、「洋才」はけっして末梢である「用」の部分に限るものではなかったからである。

 したがって、洋務運動は、「用」の次元において西洋に学ぶ運動ではあったが、「西洋」に学ぶこと自体は目的ではなかった。そこで重んじられていたのはなによりも「内」の論理であった。このことからわかるように、中国のエリートたちにとって、道徳、思想という根幹にかかわる価値の部分を変えることは困難を極めるものであったといってよい。何しろ、儒教思想は体制イデオロギーとして、自分たちの正当性保証するものであるだけでなく、儒教的価値観は中国のエリートたち―彼らは官僚であると同時に、科挙試験をくぐってきた儒教知識人でもあった―にとって自分たちの存在理由でもあった。儒教的価値観への批判ないし否定は自己否定と異ならなかった。そのため、西洋の近代思想を受容した中国知識人たちの価値観の転換は換骨奪胎を意味するものだった。それに対して、日本にとって、西洋の近代思想も、従来の儒教思想も外来の思想であった。西洋の近代思想をもって旧来の儒教思想にとって代えることはまったく抵抗を伴わないわけではなかったが、中国の場合と比べて、はるかに容易であった。

 明治維新後の日本儒教のあり方について、大正期日本の代表的な思想家吉野作造が次のように指摘している。

 法律と道徳との区別もまだはつきりして居ない所から、漠然と、古来言ひ伝への「先王の道」に代わるもの位に考へたらしい。修身斉家治国平天下の根本義をしては従来孔孟の道がある。之に対する盲目的尊崇の念は未だ薄らいだのではないけれども、時勢の変遷にもまれた当時の人達は、ぼんやりと、新しい時代に応ずる為には別に新しい道があつても然るべきだ位に考へて居たやうだ。そこへ西洋から新に「公法」なるものが入って来る。之こそ「先王の道」に代るべき「天地の大道」でなければならぬと、新奇を好む人心は競うて之を持てはやしたわけである。新しい文字が内容を吟味されずに馬鹿に流行するといふことは今日に始まつたことではない」。「彼等はその東奔西走の裡に、ともかく一種の道徳的情熱を堪へ、且つ私をすてて公に殉ずるという精神的安心をも感得してゐたやうだ。是れ思ふに封建時代に訓練された所の「道」に対する気持を、直に移して自由民権等の新理念に捧げた為ではなからうか。而してこの二つの態度の橋渡しをしたものは、実に「公道」観念の流行であつたと考へる」(松尾尊允等編『吉野作造選集・第十一巻』岩波書店、1995年、227~228頁)

 従来の「孔孟の道」に対する尊崇の念は、このように、あっという間に自由民権の新しい理念によって取って代わられたのである。

 儒学の中国と日本とにおけるあり方はそもそも異なるものであった。儒学のもっとも盛んだった近世に限ってみても、「当時の中国・朝鮮では政治体制と表裏をなす正統的な思想として君臨していた宋学が、少なくともこの頃までの日本社会においては、一定の有利な事情を基に次第に広まりつつも、同時になお様々な点で往々かなりの異和感を与える外来思想」であった(渡辺浩『近世日本社会と宋学』東京大学出版会、1985年、4頁)。そもそも、幕府将軍を頂点とする当時の政治社会体制は儒学とあまり関係することなしに成立したものであり、儒学は当時の「治者」である武家にとってあくまでも高尚閑雅な教養であって、決して中国におけるような「経世致用」のための学問ではなかった。儒者は一種の特殊技能者として尊敬されても、通常現実政治から隔離されていた。さらに、例えば、中国では政治的支配になくてはならない「礼」、儒教における最高道徳である「仁」の具体的な表現としての「礼」の制度は日本には存在しなかったのである。徳川日本はそうした祭祀儀礼、制度を持たないまま「泰平」を保ち続けた。そして、儒者の間では「礼楽なしに治まる」という「礼楽」不要論の考え方も出てきた。そこは中国ときわめて大きな違いである。徳川日本においては、儒教の知識が次第に拡がったが、それは政治社会とはかけ離れた存在であった。一方、中国では儒教の「正統イデオロギー」としての地位が確立されて以来、「礼治主義」が施されていた。「礼」の不在は儒教の日本における浸透程度を象徴している。

 また、日本の武家社会における主従関係は「生前からさだめられた運命共同体」をなしており、儒教における「君臣は義合なり。合はざれば則ち去る」(『孟子』万章章句・下)というような「君臣関係」は、日本の支配者にとって違和感を持つものであった。したがって、儒教において正当化されている不徳の君主を倒す「易姓革命」論も、彼らにとってはとうてい受け入れがたいものであった。

 以上のような、中国と日本における儒教の異なる位相は、両国の知識人たちの西洋思想を受容する仕方を大きく左右した。一方、日本では尊崇されつつも、様々な点で違和感を与えられる外来思想としての儒教は、吉野の描述したように、対決を経ずに容易に同じく外来思想である西洋近代思想にとって代わられた。しかも、それは当然のように思われたのである。他方、近代の中国知識人は儒教という「思想的伝統」を背負っていたからこそ、「西洋の衝撃」の前で、それと思想的に対決しなければならなかった。彼らは日本の知識人と対照的に、自分のよって立つ儒教を放棄することができなかったからである。

 結局、中国において、清王朝が一つの旧体制であり、抜本的な変革が必要だ、と広く認識されるようになったのは、二十世紀以降を待たなければならなかったが、日清戦争における中国の敗戦は、それまでの洋務運動的な「内」の論理から「外」の論理―対外的危機感への転換のきっかけとなった。洋務運動の成果の一つであった李鴻章の北洋艦隊が全滅したことによって象徴されているように、「日本の衝撃」という形をとっていた「西洋の衝撃」、言い換えれば、明治維新後近代国家建設を順調に進めた日本の成功は、中国の人々に、日本の中に隠されている「西洋」に注目するようにさせた。それまでの「中体西用」論はもはや大きな限界に来ていた。

 「中体西用」の論理を明確な形で否定したのは、厳復だった。厳復は近代中国でもっとも代表的な啓蒙思想家のひとりとして、進化論を初めて導入して、幾世代の中国人の価値観の変化に大きな影響を与えた。若いころ、海軍の留学生としてイギリスに二年間留学した厳復は、軍事知識や技術を学ぶだけでなく、彼はイギリス社会を観察し、イギリスの「富強」の源は軍事的強さにあるのではなく、より根本的なところにあるのだと認識するようになった。帰国後、厳復は進化論を始め、近代西洋の思想に関する書物を精力的に翻訳し、紹介した。「西学」を学ぶことを強く唱えた厳復は、「用」のレベルだけでなく、何よりも本質的な「体」のレベルで西洋に学ぶべきだと主張した。彼は「中体西用」論を批判して次のように述べている。


 体と用は、一つの物に即して言うのだ。牛の体があって、則ち重荷を背負う用がある。馬の体があって、則ち遠方まで至る用がある。牛の体として馬の用とする、というのは聞いたことはない。中学と西学が異なるのは、それぞれの人種の顔つきが異なるのと同じのようなもので、強いて似ているということはできない。ゆえに、中学は中学の体用があり、西学は西学の体用がある。両者を分ければ即ち並立し、合すれば即ちともに滅ぶのである。……中国に本来なかったものは、西学である。したがって、西学(を学ぶこと)は当面の急務である。(王栻主編『厳復集』中華書局1986年、557、562p)

 このように、「中体西用」の論理は崩壊した。そして、現実の政治的動きとして、1898年の戊戌維新が行われた。戊戌維新はそれまでの洋務運動と異なって、より「体」のレベル、すなわちより根本的な次元から、西洋の近代的制度を導入しようとした改革運動であった。戊戌維新の指導者である康有為、梁啓超ら若いエリートたちが光緒帝の支持の下、「変法」に乗り出した。変法とは、従来の伝統的政治的体制を変えることを意味するものだった。そして、改革案は明治日本に範をとったものであった。

 康有為は変法について、次のように訴えている。

 今日の中国は変法し日に日に新しくしなければならない。ことごとく変えずにやや変えるという訳にはいかない。ことごとく変えるには、農、工、商、鉱の学を興さなければならない。そして、農、工、商、鉱の学を開くには、士に物事の理に通じさせなければならない(『康有為全集・第三集』中国人民大学出版社、2007年、263~264頁)。

 そして、康有為からすれば、西洋に倣って「変法」し強くなったのは日本であった。明治日本に範をとって改革を行うのは中国にとっての近道であった、結局、明治憲法をはじめ、教育、軍事、政治制度など、日本をモデルにした改革案が上奏・布告されたのである。

 しかし、中国における近代化の道が紆余曲折であった。戊戌維新は百日しかもたなかった。結局、変法は西太后のクーデターによって夭折してしまった。ただ、戊戌維新は失敗したが、中国における根底からの改革という流れはもはや阻めることができなかった。なにより、情勢がそれを許さなかったのである。興味深いことに、義和団事件を経て、戊戌維新を葬った西太后自身が「新政」をはじめ、その多くの措置は康有為たちの「変法派」の改革案を踏襲したものであった。

 このように、開国をきっかけに、「西洋の衝撃」の前に関係が薄かった北東アジア諸国の間に、情報、思想の連鎖ができ、また、「西洋」という共通した「他者」に直面することによって、文化的一体感を意識するようになった。「同文同種」という背景のなかで、中国から流入した書物が幕末・明治初期の日本知識人たちに大きな影響を与え、他方の中国や、韓国が、明治維新で急速に発展した日本に大量の留学生を派遣するようになった。さらに、「同文同種」がうたわれたなかで、日本において「アジア連帯」論や、「アジア主義」が複雑な様相を呈しながら形成された。

 さらに、「西洋」に倣う面において、日本は「セリフの覚えのいい俳優のようであった」(ジョン・ダワー)が、中国はそれを受容するにはいくつかの西洋に対する「読み換え」の段階をくぐらなければならなかった。こうして、「西洋の衝撃」の下で、日本と中国は相互に影響しあい、また、相互に影響を受けながら、各々の仕方で近代化する道を模索したのである。


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